春正月・二月 官位と将軍号の大規模な再編
- 春正月、北魏の潁川太守・王神念が梁に亡命した。
- 壬子、衛尉の呉平侯・蕭昺が兼ねて領軍将軍となった。
- 詔が出され、吏部尚書の徐勉に命じて百官の九品官制を整理し、十八班に分け直した。班の数字が多いほど高位とされた。
- 二月乙丑、さらに鎮衛将軍以下について十品二十四班へと増補し、十品外にも八班を設け、対外授与用の将軍号も整えた。全体で一〇九号に及ぶ大整理で、官と将軍の上下関係を明確にし、昇進も小号から大号へ進む仕組みに改めた。
二月 地方の人材推薦制度
- 庚午、州の名望家・郡宗・郷豪からそれぞれ一人ずつ選び、地方人材の探索と推薦を専任させた。埋もれた才能を広く拾い上げる意図である。
二月・三月 領軍将軍の交代と北魏皇子の死
- 乙亥、南兗州刺史の呂僧珍が領軍将軍となった。
- 領軍は内外の兵権を握る要職だったが、実際には制局が奏上権を持ち、領軍の権限を侵していた。前任の蕭昺は役所を引き締めたため、近幸の制局監に嫌われ、長く留まれず丙子に雍州刺史へ出された。
- 三月戊子、北魏皇子の昌が死去した。治療にあたった侍御師の王顕が責めを受けたが、世間では高肇の意向が働いたと噂された。
夏四月・五月 皇太子納妃と十二卿の整備
- 夏四月乙卯、皇太子が妃を迎えたため大赦が行われた。
- 五月己亥、宗正・太僕・大匠・鴻臚を復置し、太府・大舟も増設して、先の太常・司農・少府・衛尉・廷尉・光禄とあわせて十二卿の体制を整えた。各卿には丞と功曹・主簿も置かれた。
五月 荆州の蛮賊平定
- 癸卯、安成王蕭秀が荆州刺史となった。
- それ以前、巴陵の馬営蛮が長江沿いで略奪を重ね、州郡では抑えられなかった。蕭秀は防閤の文熾に命じて林木を焼き払わせ、蛮の拠り所を失わせたため、州境は静まった。
秋七月・八月 北魏で高肇の専横が深まる
- 七月甲午、北魏で高貴嬪が皇后に立てられた。
- 尚書令の高肇はますます権勢を強め、旧制を改め、封爵や俸秩を削り、功臣を抑えたため、朝野の怨みを買った。
- ただ一人、度支尚書の元匡は高肇に正面から対抗した。かつて棺を公庁に備え、死をもって高肇の罪を訴えようとしたこともあり、高肇に憎まれていた。
- 権量の議論をきっかけに元匡と高肇は激しく争い、元匡は高肇を「鹿を馬と言いくるめる」奸臣になぞらえて弾劾した。
- 御史中尉の王顕が元匡を讒言し、死刑相当とされたが、北魏主は死一等を減じて光禄大夫に落とした。
八月 曹景宗の死
八月―九月 北魏の京兆王愉の反乱
- 北魏の京兆王元愉は、もとより奢侈で法を犯すことが多く、皇帝からも杖罰を受け、冀州刺史に出されていた。
- 年長でありながら二人の弟に及ばぬ境遇を恨み、また妾の李氏との件でも皇后方から辱めを受け、高肇の讒言にも憤っていた。
- 癸亥、元愉は長史羊霊引・司馬李遵を殺し、清河王懌から密書を得たと偽って「高肇が君を弑逆した」と称し、信都南方で皇帝を称した。大赦し、建平と改元し、李氏を皇后に立てた。
- しかし法曹参軍の崔伯驥は従わず殺された。北方州鎮は当初、朝廷に変事があったかと動揺したが、定州刺史の安楽王詮が実情を通報したため鎮静化した。
- 乙丑、北魏は尚書の李平を総司令官として討伐に向かわせ、丁卯には永平と改元した。
- 元愉は平原太守の房亮を誘ったが失敗し、張霊和の軍も敗れた。
- 九月辛巳朔、李平は城南草橋で元愉を大破し、元愉は信都に逃げ込んだ。壬辰には安楽王詮も城北で反乱軍を破り、李平は包囲を進めた。
九月 彭城王勰の冤死
- 高后擁立の際、彭城王元勰は強く諫めており、高肇はそのことで以前から恨んでいた。
- 京兆王愉の反乱に乗じて、高肇は元勰が北で元愉に通じ、南では蛮と結んでいるとでっち上げた。元暉はその上奏を拒み、別の元珍に言わせ、さらに魏偃・高祖珍を証人に仕立てた。
- 戊戌、元勰は諸王・高肇とともに入宴を命じられた。妃李氏が出産中で辞退したが、使者に急かされてやむなく登城した。
- 夜、酔ったところへ元珍が武士と毒酒を持って現れた。元勰は無罪を訴え、皇帝との対面や告発者との対決を求めたが許されず、打ち据えられた末に毒酒を飲まされ、なお生きていたところを殺された。
- 明け方、遺体は「酒により薨去した」として家へ返されたが、妃李氏は高肇の無道を大声でなじった。
- 北魏主は弔意を示し葬礼も手厚くしたが、朝廷内外は大いに気落ちし、道行く人々まで涙して、高肇への憎悪はいっそう強まった。
九月 京兆王愉の最期と余党処理
- 癸卯、信都を守れなくなった元愉は門を焼いて李氏と四子を伴い、百騎余りで脱出した。
- 李平は信都に入り、元愉が任命した冀州牧の韋超らを斬った。叔孫頭が追撃して元愉を捕えた。
- 群臣は処刑を求めたが、北魏主は許さず、洛陽へ鎖送して家人として諭す方針を示した。
- だが野王に至ると、高肇が密かに人を遣わして元愉を殺させたとみられる。諸子は洛陽に着いて赦された。
- 皇帝は李氏も誅そうとしたが、崔光の諫言により、出産後まで延期された。
- 李平は反党千余人を皆殺しにしようとしたが、録事参軍の高顥が脅従者の赦免を主張し、死罪を免れさせた。
- 濟州刺史の高植は討伐で功があったが、国家への奉公は本分であるとして封賞を辞退した。
秋―冬 北魏の柔然降戸移住策の失敗
- かつて北魏に帰服して高平・薄骨律の二鎮に置かれていた柔然降戸のうち、なお残っていた千余戸を淮北へ移す案が出た。
- 太僕卿の楊椿は、旧来の降戸を辺境に置くのは異民族を招きつつ華夷を分けるためであり、いま移せば新附の者まで不安になって叛く、しかも寒冷の生活に慣れた者を南の湿熱へ移せば滅びる、と反対した。
- しかし聞き入れられず、濟州の黄河沿いへ移された。
- 京兆王愉の乱が起こると、彼らは皆、河を渡って元愉のもとへ走り、掠奪を行った。楊椿の予見どおりになった。
冬十月―十二月 懸瓠・義陽方面の攻防
- 庚子、北魏郢州司馬の彭珍らが離叛し、梁軍をひそかに引き入れて義陽三関の守将侯登らが城をもって降った。郢州刺史の婁悦は州城に籠って抵抗した。
- 北魏は中山王英を南征総司令とし、汝南から三万の兵で救援に向かわせた。
- 十月、北魏懸瓠の軍主・白早生が豫州刺史の司馬悦を殺して反乱し、自ら平北将軍を称して梁の救援を求めた。
- 当時、荆州刺史の安成王蕭秀が司州方面の都督であり、司州の馬仙琕は朝命を待つべきか迷ったが、蕭秀は「相手は我らの援助で生き延びようとしている。急変には即応すべきだ」と判断し、直ちに救兵を出した。のち朝廷からも白早生救援の詔が届いた。
- 馬仙琕は楚王城に進み、副将の斉茍児に二千を率いさせて懸瓠を助け、梁朝は白早生を司州刺史とした。
- 一方、尚書の邢巒は豫州方面を統轄して白早生討伐に向かった。彼は、白早生は大志があって起ったのではなく司馬悦の苛虐で民に担がれただけであり、梁の援軍があっても補給は続かず、追いつめれば年内に首を京師へ送れると判断した。
- 邢巒は騎兵八百で急行し、鮑口に至ると、白早生の将胡孝智が七千で迎撃したが撃破した。続けて懸瓠城下でも白早生を破り、汝水を渡って包囲した。邢巒には都督南討諸軍事が加えられた。
- 丁丑、北魏の成景雋が宿豫戍主の厳仲賢を殺して梁へ降った。
- 当時、懸瓠以南から安陸に至る郢州・豫州の諸城はほとんど陥ち、北魏側で持ちこたえていたのは義陽のみだった。
- 蛮帥の田益宗は一族を率いて北魏に帰属し、東豫州刺史とされたが、梁が高位高封で誘っても応じなかった。
- 十一月、北魏は楊椿に四万を与えて宿豫を攻めさせた。また中山王英には義陽へ急行を命じた。
- 十二月己未、斉茍児らが懸瓠の門を開いて降り、白早生とその党数十人を斬った。中山王英はそのまま義陽へ向かった。
- 楚王城に駐屯していた張道凝は癸亥に城を棄てて逃走し、英に討たれた。
- 義陽では太守の辛祥が婁悦とともに守り、夜襲で梁将の陶平虜を生け捕り、胡武城を斬って州境を保った。しかし婁悦は功が自分より辛祥に帰するのを恥じて中央に妨害工作をし、辛祥への賞は見送られた。
十二月 北魏の東荆州・蛮地再編
- 壬申、北魏東荆州から、桓暉の弟・叔興が太陽蛮を招撫して一万余戸を帰服させたとして、十六郡・五十県の設置が上申された。
- 北魏は前鎮東府長史の酈道元に現地調査と設置を命じた。以後、蛮地では名目上の郡県が急増していくことになる。
この年 柔然・高車・高昌をめぐる北方情勢
- 柔然の佗汗可汗は再び使者の紇奚勿六跋を北魏に送り、貂裘を献じたが、北魏主は前例どおり受け取らなかった。
- 以前、嚈噠に高車侯倍窮奇が殺され、その子の彌俄突が連れ去られていた。のち高車王が内乱で代替わりすると、嚈噠は彌俄突を立てて高車に介入し、最終的に彌俄突が高車王位を回復した。
- 彌俄突は佗汗可汗と蒲類海で戦って敗れ、西へ退いたが、のち柔然軍が伊吾北山に陣した際、高昌王麴嘉の北魏内徙計画に対応して派遣されていた孟威の軍を見て、柔然は恐れて退いた。
- 彌俄突はこれを追撃して大勝し、佗汗可汗を蒲類海北で殺し、その髪を孟威に送った。さらに北魏へ朝貢し、北魏主は于亮を遣わして厚く報いた。
- 高昌王麴嘉は約束どおり来なかったため、孟威は兵を引き揚げた。
- 柔然では佗汗の子・醜奴が立ち、豆羅伏跋豆伐可汗を号し、建昌と改元した。
この年 梁の祭祀制度と封禅論争
- 宋・斉以来、天を祀る際は袞冕を用いていたが、兼著作郎の許懋が古礼に従う大裘の採用を建議し、梁でもそれを認めた。具体的な服制は玄色の上衣と纁裳をもとに整えられた。
- 太廟祭祀に先立ち、斎日には音楽を止めることが改めて定められた。出御時の鼓吹は止め、還宮時のみ従来どおりとした。
- また、会稽の禅国山で封禅を行う案が出て、武帝は儒者たちに儀礼草案を作らせた。
- これに対し許懋は、舜の岱宗柴望は巡狩の一環であり、封禅を正当化する緯書や管仲の七十二君説は荒唐無稽で、秦始皇や孫皓の例も模範にはならない、祭天祭地の常礼こそ十分であると論じた。
- 武帝はこれを嘉納し、みずからその議を敷衍して回答し、封禅計画は取りやめとなった。