資治通鑑梁紀 高祖武皇帝 天監 八年 509年

春正月 三関の失陥

  • 辛巳、武帝は南郊を祀り、大赦を行った。
  • 北魏の中山王英は義陽に至ると、三関は互いに連動しているので、守りにくい東関を先に攻めるべきだと判断した。あわせて長史の李華に兵を分け、西関へ向かわせて守備兵力を分散させた。
  • これに先立ち、馬仙琕は雲騎将軍の馬広を長薄、軍主の胡文超を松峴に置いていた。
  • 丙申、中山王英が長薄に到着し、戊戌に長薄は陥落した。馬広は武陽へ逃げ込んだ。
  • 武帝は彭甕生・徐元季を援軍として送ったが、英はあえてこれを入城させ、「城の形勢からみて落としやすい」と見定めたうえで総攻撃し、六日で武陽関を奪った。将三人と兵士七千余が捕虜となった。
  • 続いて広峴を攻め、太子左衛率の李元履は城を捨てて逃亡した。
  • さらに西関にも攻め寄せ、馬仙琕もまた城を棄てて退いた。
  • 武帝は南郡太守の韋叡に救援を命じた。韋叡は安陸へ着くと城壁をさらに高くし、大きな濠と高楼を築いた。臆病だと批判する者もいたが、韋叡は「将たる者には怯むべき時もある」と言い、中山王英もかつての邵陽の屈辱を晴らそうとしたものの、韋叡到着を聞いて退却した。梁朝も撤兵を命じた。

北魏使節の返還交渉

  • 以前、北魏主は中書舍人の董紹を叛城慰撫のため派遣していたが、白早生が襲ってこれを捕え、建康へ送っていた。
  • 懸瓠平定後、北魏は白早生側四将のうち二人を梁に返し、董紹と司馬悦の首との交換を揚州に求めた。
  • だがその書が届く前に、領軍将軍の呂僧珍が董紹の学識を愛し、武帝に助命を進言した。
  • 武帝は董紹に、「民のために君が立つ以上、両国が和して戦乱をやめるのが最善だ」と語り、衣服を与えて引見し、霍霊秀に送還させた。
  • その際、梁は以前から国交回復を望む書を送っても返答がないことを伝え、もし和好を望むなら宿豫を返すので、北魏も漢中を返すべきだと示唆した。
  • しかし董紹が帰国して伝えても、北魏主は応じなかった。

三月 潺溝の戦い

  • 三月、北魏荆州刺史の元志が七万を率いて潺溝に侵攻し、周辺の蛮を脅迫したため、蛮たちはみな漢水を渡って梁に降った。
  • 雍州刺史の呉平侯蕭昺の幕僚は、蛮は辺患の種だから今のうちに除くべきだと主張した。
  • しかし蕭昺は、窮して帰服した者を殺すのは不祥であり、むしろ魏に対する防壁となると考え、樊城を開いて受け入れた。
  • さらに司馬の朱思遠らに元志を潺溝で撃たせ、大破して一万余の首級を挙げた。

夏四月・六月 人事異動

  • 戊申、臨川王蕭宏が司空となり、車騎将軍の王茂には開府儀同三司が加えられた。
  • 丁卯、北魏の楚王城主・李国興が城をもって梁に降った。

秋七月・九月 皇族の死と北魏王爵継承

  • 七月癸巳、巴陵王蕭宝義が死去した。
  • 九月辛巳、北魏は故北海王元詳の子・元顥を北海王に封じた。

北魏の楽制論争

  • 北魏で公孫崇が楽尺を十二黍一寸で作ったのに対し、劉芳はこれを否定して十黍一寸を主張した。
  • 高肇らは、公孫崇の楽器や度量衡が経伝に合わないとして詰問したが、崇は「経文どおりだと音が調和しない」と答えた。
  • そこで劉芳に周礼に基づいて再び楽器を作らせ、完成後に群臣儒者を集めて比較し、優れた方を採用することになった。

冬十月・十一月 北魏の仏教偏重への諫言

  • 十月癸丑、北魏では司空の広陽王嘉が司徒となった。
  • 十一月己丑、北魏主は式乾殿で僧侶や朝臣を前に『維摩詰経』を講じた。
  • 当時の北魏主は仏教を篤く信じる一方、経書をおろそかにしていた。中書侍郎の裴延雋は、漢光武帝や魏武帝、また先帝も軍旅の中で書を手放さなかったことを引き、孔子の経書と仏典の双方を学ぶよう上疏した。
  • その頃の洛陽には、西域から来た僧が三千人余りおり、北魏主は彼らのために永明寺を建てた。
  • また、隠士の馮亮の発想を用い、甄琛や僧暹とともに嵩山の景勝地に閑居寺を築かせた。
  • これにより遠近で競って仏寺建立が進み、延昌の頃には州郡全体で一万三千余寺に達した。

この年 元樹の亡命

  • この年、北魏の宗正卿・元樹が梁へ亡命し、鄴王の爵を与えられた。
  • 元樹は元翼の弟で、元翼が青・冀二州刺史として郁洲にいた際、かつて州を挙げて北魏へ降ろうとして露見し、死んだことがあった。