資治通鑑梁紀二 高祖武皇帝 天監六年 507年

春正月から二月 鍾離攻防の最終局面

  • 正月、公孫崇は、楽制の議論を衛軍将軍・尚書右僕射の高肇に総監させるよう請い、北魏君主は高肇に学識が乏しいのを知って、太常卿の劉芳を補佐につけた。
  • 北魏の中山王英と楊大眼らは数十万を率いて鍾離を攻めていた。鍾離城は北を淮水に寄せ、北魏は邵陽洲両岸に橋を架け、柵を数百歩にわたって立てて南北交通と補給路を確保した。英は南岸で城を攻め、楊大眼は北岸に別城を築いて糧道を守った。
  • 鍾離城内はわずか三千人ほどであったが、昌義之は状況に応じて防戦した。北魏は土で塹壕を埋め、衝車で城を撞いたが、梁軍は泥で補修し続けた。北魏は昼夜交替で攻め、一日に数十度戦い、死者は城の高さに並ぶほどであった。
  • 二月、北魏君主は英を召還しようとしたが、英は長雨のため攻城が遅れているだけで、三月に晴れれば必ず落とせると主張した。そこで君主は歩兵校尉范紹を派遣して情勢を見させたが、范紹は堅城であることを見て撤退を勧めた。それでも英は従わなかった。

二月から三月 韋叡・曹景宗の救援

  • 高祖は豫州刺史の韋叡に鍾離救援を命じ、曹景宗の節度を受けさせた。
  • 韋叡は合肥から直道をとって陰陵の大沢を進み、谷や澗に出会うごとに仮橋をかけて軍を渡した。魏兵が多いから進軍を緩めるべきだという意見に対し、鍾離はすでに穴を掘って住み、戸板を背負って水を汲むほど切迫しているとして急行し、十日ほどで邵陽に達した。
  • 高祖は前もって曹景宗に、韋叡は同郷の名望家だから丁重に遇せよと命じていた。景宗はその言葉通り礼を尽くし、高祖は両将の和合を聞いて勝利を予感した。
  • 景宗と韋叡は邵陽洲に進み、韋叡は景宗営の前二十里で夜のうちに長い塹壕を掘り、鹿角を植えて洲を断つ城塞を築いた。南梁太守の馮道根が歩測で工数を割り振り、夜明けまでに営は完成した。中山王英はこれを見て驚愕した。
  • 景宗は城中の士気を鼓舞するため、言文達ら勇士を募って水底を潜らせ、勅書を鍾離城中へ届けさせた。城内は外援到来を知って勇気を回復した。

三月 邵陽洲の決戦と魏軍大敗

  • 楊大眼は軍中第一の勇将で、一万余騎を率いて戦った。韋叡は車を連ねて陣を作り、二千張の強弩を一斉に放ってこれを撃退し、大眼は右腕を射抜かれて退いた。翌日には英自身が軍を率いて戦ったが、韋叡は白角の如意を手に木の輿に乗って指揮し、数度戦って英を退かせた。
  • 夜には魏軍が梁の城を攻めた。矢が雨のように降る中、韋叡の子の韋黯が城を下りて避けるよう勧めたが、韋叡は許さず、大声で軍を鎮めた。
  • 淮北で刈草する牧人が楊大眼に妨害されると、曹景宗は勇士千余を募って大眼城の南数里に壘を築き、別将の趙草に守らせた。これにより、以後は芻秣の確保ができるようになった。
  • 高祖は景宗らに高艦を準備させ、北魏の橋に火攻めをかけるよう命じた。景宗は北橋、韋叡は南橋を攻める役割となった。
  • 三月、淮水が六、七尺も増水した。韋叡は馮道根・裴邃・李文釗らに戦艦を率いさせ、洲上の魏軍をことごとく殺し、別に草に油脂を含ませた小船で橋に火を放った。暴風に火勢が加わり、橋も柵も一気に焼け落ちた。
  • 梁の敢死隊が柵を抜き橋を斬ると、流れも急で、魏軍はたちまち総崩れとなった。英は橋の絶えたのを見て身一つで逃げ、楊大眼も営を焼いて退いた。諸壘は次々と潰え、兵は争って水に落ち、溺死者は十余万、斬首も同数に及んだ。
  • 韋叡が昌義之に勝報を送ると、義之は悲喜のあまり返答もできず、「生き返った、生き返った」と叫ぶばかりであった。
  • 梁軍は濊水まで追撃し、英は単騎で梁城に逃げ込んだ。淮沿い百余里に死体が重なり、梁軍は生きて捕えた者だけでも五万にのぼった。資糧・器械・家畜も数えきれないほど得た。
  • 戦後、昌義之は景宗と韋叡の功を謝して二十万銭を賭けた遊戯会を催した。景宗が先に好目を出したが、韋叡が一子を返して逆転したという逸話が伝わる。
  • 景宗と諸将は先を争って戦功を奏上したが、韋叡だけは最後に控えたため、後世いっそうその謙譲を称えた。
  • 朝廷は景宗・韋叡の爵邑を増し、昌義之らにもそれぞれ賞を与えた。

夏四月から六月 人事と雍州方面

  • 四月己酉、江州刺史の王茂が尚書右僕射となり、安成王秀が江州刺史に任じられた。秀は赴任に際し、役所が頑丈な船を仏事用の船に回そうとしたのを退け、丈夫な船は参佐に与え、自分の斎具は劣った船に載せた。のちに暴風に遭って斎船だけが壊れたため、その配慮が知られた。
  • 丁巳、臨川王宏は驃騎将軍・開府儀同三司となった。
  • 建安王偉は揚州刺史、沈約は尚書左僕射、王瑩は中軍将軍となった。
  • 六月丙午、馮翊など七郡が梁から離れて北魏に降った。

秋七月から八月 梁の人事と魏の戦後処分

  • 七月丁亥、王茂は中軍将軍へ転じた。
  • 八月戊子、梁で大赦があった。
  • 北魏では、中山王英が戦況判断を誤り、斉王蕭宝寅らも橋を守りきれなかったとして、当初は極刑が議された。
  • しかし己亥、英と宝寅は死を免れ、官籍を奪われて庶民に落とされた。楊大眼は営州へ流され兵役に編入された。
  • 北魏は李崇を征南将軍・揚州刺史とした。李崇は家産経営に熱心で、征南長史の辛琛がたびたび諫めても聞かなかった。ついに辛琛がこれを弾劾すると、詔は双方とも不問に付した。李崇は宴席で、辛琛もいずれ刺史になるだろうが、そのときにどんな長史を得るかだなと皮肉った。辛琛は、もし自分が刺史になれるなら、朝夕に過ちを聞かせてくれる正直な長史こそ望みだと答え、李崇を恥じ入らせた。

九月から冬 北魏人事・交通路整備・梁朝人事

  • 九月己亥、北魏では高陽王雍が太尉、広陽王嘉が司空となった。
  • 甲子、北魏は斜谷の旧道を再び開いた。蜀・梁州方面への平易な連絡路を回復する意図があった。
  • 十月壬寅、梁では徐勉が吏部尚書となった。彼は文書処理が極めて早く、客に応対しながら筆を止めず、しかも広く諸子百家に通じていた。避諱にも通じ、公正無私で、夜の集まりで官職の求めを受けると、今夜は風月を語るのみで公事は論じないと断ったため、人々はその廉潔を敬服した。
  • 閏月乙丑、臨川王宏は司徒・行太子太傅、沈約は尚書令・行太子少傅、袁昂は右僕射となった。
  • 丁卯、北魏皇后于氏が死んだ。高貴嬪が寵愛を受けつつ嫉妬深く、その兄高肇が内外に権勢を振るっていたため、後宮では皇后の急死は高氏のせいだと噂されたが、宮中の事は秘されて真相は分からなかった。
  • 甲申、夏侯詳が尚書左僕射となり、乙酉、北魏は順皇后于氏を永泰陵に葬った。
  • 十二月丙辰、夏侯詳が死去した。
  • 乙丑、北魏の淮陽鎮都軍主常邕和が城を挙げて梁に降った。