資治通鑑齊紀 東昏侯 永元 二年 500年
春正月 元会と朝廷の混乱
- 春正月の元会で、東昏侯は食事を終えてからようやく出御し、朝賀が終わるとすぐ西序に戻って寝てしまった。百官は朝から申の刻まで立ち続け、空腹と疲労で倒れる者が続出した。
- その場は慌ただしく打ち切られ、君主の怠慢と宮廷秩序の乱れがいよいよ明白になった。
魏の改元と裴叔業の離反への傾斜
- 乙巳、北魏は大赦を行い、元号を景明と改めた。
- 豫州刺史の裴叔業は、東昏侯が大臣をしばしば誅殺するのを見て自らの身を危ぶみ、寿陽の城上から肥水を眺めつつ、部下に「富貴を得させてやれる」と語った。
- もともと南兗州から移されたことを不満としており、陳顕達の反乱の際には司馬の李元護を建康救援に送ったものの、実際には朝廷と反乱軍の両にらみをしていた。
- 建康では叔業に異志ありとの疑いが強まり、叔業の側も都の情勢を探らせたため、相互不信は深まった。
- 叔業の兄の子である裴植・裴颺・裴粲は殿中の直閤として都にいたが、母を捨てて寿陽へ逃げ、朝廷はいずれ叔業を襲うはずだから早く決断すべきだと勧めた。
- 徐世標らは、叔業が辺境で追いつめられれば魏を引き入れて自助するだろうが、今はまだ強く抑えられないと見て、朝廷に本任に留めるよう取り計らわせた。
- それでも叔業は不安を解けず、親しい馬文範を襄陽へ送り、蕭衍に生き残りの策を問うた。
- 蕭衍は、北魏に向かえば河南公ほどの待遇で終わり、二度と南へ帰る望みを絶つだけだと答えた。そのうえで、もし朝廷から急迫されるなら二万を率いて横江に出て建康の背後を断つべきで、そうすれば天下は一挙に定まると説いた。
- 叔業はなお決しきれず、子の裴芬之を人質として建康へ入れた一方、北魏の豫州刺史薛真度にも密使を送って、魏に入るべきかを打診した。
- 薛真度は、切迫してからでは功も薄く賞も少ないとして、早めの帰降を勧め、以後ひそかに連絡を取り合った。
- 建康では叔業叛反の噂が絶えず、裴芬之も恐れて寿陽へ逃げ戻った。そこで叔業はついに裴芬之と、兄の娘婿の韋伯昕を使者として、北魏への降表を奉った。
魏の寿陽接収と裴叔業の死
- 丁未、北魏は彭城王元勰と王粛に歩騎十万を与えて寿陽へ向かわせ、裴叔業には都督豫・雍など五州諸軍事、征南将軍、豫州刺史、蘭陵郡公の官爵を授けた。
- 庚午、斉は叔業討伐の詔を下し、二月丙戌には衛尉の蕭懿を豫州刺史に任じた。
- 戊戌、北魏は元勰を司徒・領揚州刺史として寿陽に鎮させた。寿陽は古く揚州の治所で、宋以来は豫州治所であったが、ここで旧制に戻した形となった。
- 北魏は李醜・楊大眼に二千騎を率いさせて寿陽へ入れ、さらに奚康生に羽林千を率いて急行させた。楊大眼は仇池の楊難当の孫である。
- だが魏軍がまだ淮を渡りきらぬうち、己亥に裴叔業は病死した。
- 寿陽では僚佐の多くが李元護を監州に推そうとしたがまとまらず、建安戍の席法友らは、李元護は自分たちと地縁が薄く異心を抱くかもしれないとして、裴植を推した。
- 裴叔業の死は秘され、命令はすべて裴植から出された。奚康生が到着すると城門を開いて魏軍を入れ、城の庫蔵と鍵もすべて引き渡した。
- 奚康生は寿陽の耆旧を集めて詔を読み上げ、慰撫した。北魏は裴植を兗州刺史、李元護を斉州刺史、席法友を豫州刺史、王世弼を南徐州刺史に任じた。
巴西の反乱と鎮圧
- 巴西の民、雍道晞が一万余を集めて郡城に迫った。巴西太守の魯休烈は籠城して守った。
- 三月、劉季連は中兵参軍の李奉伯に五千を与えて救援させた。郡兵と合流した奉伯は雍道晞を撃って斬った。
- 奉伯はさらに郡東の残党討伐に進もうとしたが、涪令の李膺は、兵は勝利で気が緩み将は驕っている、勝ちに乗じて険地へ入るのは危ういとして制止した。
- 奉伯は聞き入れず、全軍を率いて山中へ入って大敗し、退却した。
三月 崔慧景の寿陽討伐出兵
- 乙卯、平西将軍の崔慧景が水軍を率いて寿陽討伐に出た。
- 東昏侯は琅邪城を片づけて見送りの場を作り、自ら戎服で楼上に座して、崔慧景を単騎で囲いの内へ進ませた。供も付けず、わずかに言葉を交わして別れたため、崔慧景は外へ出られたことをむしろ喜んだ。
壽陽攻防と斉軍の敗北
- 豫州刺史の蕭懿は歩軍三万を小峴に、交州刺史の李叔献は合肥に駐屯させた。
- 蕭懿は裨将の胡松・李居士に一万余を与え、死虎に屯させた。驃騎司馬の陳伯之も水軍を率いて淮を遡り、硤石方面から寿陽を圧迫した。
- 寿陽の民の中には斉に内応しようとする者も多かったが、奚康生は内外を厳しく防いで城を閉ざし、一か月持ちこたえた。
- 丙申、元勰と王粛が胡松・陳伯之らを大破し、さらに合肥を攻めて李叔献を生け捕りにした。
- 統軍の宇文福は、建安は淮南の要地であり、ここを取れば義陽を図れ、取れなければ寿陽の保持も難しいと進言した。元勰はこれを採用し、宇文福に建安攻略を命じた。
- 建安戍主の胡景略は、両手を縛って出降した。
- こうして寿陽奪回作戦は失敗し、北魏は淮南への足場を一段と固めた。
三月 崔慧景の広陵反転と挙兵
- 己亥、北魏では皇弟の元恌が死んだ。
- 崔慧景が建康を出る前、子の崔覚は直閤将軍として都にあり、ひそかに父と変事を約していた。
- 慧景が広陵へ着くと、崔覚はそこへ走り、慧景はさらに数十里進んだところで諸軍主を集め、高帝・武帝・明帝の三帝の厚恩を受けた身として、幼主の昏暴と朝廷の腐敗を座視できない、社稷安定の大功を共に立てようと呼びかけた。
- 一同が応じたため、慧景は軍を広陵へ返し、司馬の崔恭祖が守る城門を開かせて入城した。
- 建康では変を聞き、壬子に右衛将軍の左興盛を仮節・都督建康水陸諸軍事として討伐に当たらせた。
- 慧景は広陵に二日とどまり、兵を集めて江を渡った。
江夏王宝玄の呼応と京口掌握
- 南徐兗二州刺史の江夏王宝玄は、徐孝嗣の女を妃としていたが、孝嗣が誅されると離縁を命じられ、それを深く恨んでいた。
- 崔慧景は使者を送って宝玄を盟主に迎えようとした。宝玄はいったん使者を斬って守備を固めたが、慧景が江を渡ろうとすると密かに内応した。
- 朝廷は戚平・黄林夫を京口防衛に送ったが、宝玄は司馬の孔矜、典籖の呂承緒、さらに黄林夫を殺し、城門を開いて慧景を迎え入れた。
- 宝玄は沈佚之・柳憕に軍を分けて統率させ、自らは八掆輿に乗り、紅の麾を手にして慧景とともに建康へ向かった。
竹里の攻防
- 台城側は張仏護・徐元称ら六将を竹里に布陣させ、数城を築いてこれを防いだ。
- 宝玄は張仏護に、自分は都へ帰るだけなのになぜ遮るのかと伝えたが、張仏護は、国恩に報いるためここに小戍を築いたのであり、通行を妨げるつもりはないが任務は果たすと答え、ただちに慧景軍へ矢を放って戦いを始めた。
- 崔覚・崔恭祖らの前鋒は北方出身の勇猛な兵が多く、軽装で炊事もせず、江沿いの船で食糧を運んだ。台軍の陣内に炊煙が上がるのを見るたび攻め立てたため、守備側は食事もままならず疲弊した。
- 徐元称らは降伏を議したが、張仏護は拒んだ。やがて崔恭祖らが城を抜き、張仏護を斬り、徐元称は降伏し、残る四軍主も戦死した。
王瑩・左興盛の敗走と建康包囲
- 乙卯、中領軍の王瑩が諸軍を統べ、湖頭に拠って蔣山西巌に連なる塁を築き、数万の兵を置いた。王瑩は王誕の一族である。
- 慧景が查硎に至ると、竹塘の万副児が、平路は台軍に断たれているので、蔣山の龍尾を登って不意を突くべきだと説いた。慧景はこれに従い、千余を西巌沿いに夜中降ろして鼓噪させた。
- 台軍は驚いて潰走し、東昏侯はさらに左興盛に台内の三万を率いさせ北籬門で防がせたが、興盛も敵勢を見るや退いた。
- 甲子、崔慧景は楽遊苑へ入り、崔恭祖は十余騎の軽騎で北掖門へ突入した。だが宮門はすべて閉じられていたため、いったん引き下がった。
- 東府・石頭・白下・新亭など諸城はみな崩れ、左興盛は宮中へ戻れず、淮渚の葦舟に隠れたところを捕らえられて殺された。
- 宮中からの出撃も成功せず、慧景は蘭台など官署を焼いて戦場とした。
- 守御尉の蕭暢は南掖門に屯し、城内防備を整えて各所へ応じたため、ようやく人心は少し安定した。
- 慧景は宣徳太后の令を称して東昏侯を呉王に廃すると唱えた。宣徳太后は文恵太子妃の王氏である。
擁立候補の揺れと崔慧景陣営の分裂
- 陳顕達の乱の際、東昏侯は諸王を入宮させようとしたため、巴陵王昭胄は永泰年間の祸を思い出して恐れ、弟の永新侯昭頴とともに僧に化けて江西へ逃れていた。
- 慧景が挙兵すると、昭胄兄弟もこれに加わった。慧景は宝玄よりも昭胄を立てる気持ちを抱くようになり、誰を立てるかで迷った。
- 竹里での勝利ののち、崔覚と崔恭祖が戦功を争った。恭祖は北掖楼を火箭で焼くよう勧めたが、慧景は大事はほぼ定まった、後で建て直すのに手間がかかると言って従わなかった。
- 慧景は議論好きで仏理にも通じ、法輪寺にとどまって客と高談して軍務を顧みないこともあった。恭祖はこれに深く不満を募らせた。
蕭懿の救援と崔慧景の敗死
- そのころ蕭懿は小峴に在陣していた。東昏侯が密使で急を告げると、懿は食事中の箸を投げ出して立ち上がり、胡松・李居士ら数千を率い、採石から江を渡って越城に布陣した。台城中では援軍到着を知って鼓呼し喜んだ。
- 以前から崔恭祖は、西岸から来る救援軍を二千で遮断するよう勧めていたが、慧景は城はすぐ降るはずだから外援は散るだろうと軽視して従わなかった。
- 懿軍来着後も、恭祖は出撃を求めたが許されず、ただ崔覚に精鋭数千を率いさせて秦淮南岸へ渡らせた。
- 蕭懿軍は夜明けに進撃し、数度の交戦で必死に戦った。崔覚は大敗し、二千余が淮へ落ちて死んだ。覚は単騎で退き、朱雀桁を開いて淮を盾とした。
- その夜、崔恭祖は奪い取った東宮女伎を崔覚に横取りされたこともあって怨みを爆発させ、劉霊運とともに台城へ降った。軍心は大きく離反した。
- 夏四月癸酉、慧景は腹心数人を連れてひそかに逃走し、北へ江を渡ろうとした。城北の諸軍はまだそのことを知らず戦っていたが、城中からの出撃と蕭懿軍の北岸渡河で残兵は総崩れとなった。
- 慧景は十二日間の包囲の末に敗れ、従者も道中で散り、単騎で蠏浦に至ったところを漁人に斬られた。
- その首は鰌籃に入れられて建康へ運ばれた。
- 崔恭祖も尚方に繋がれてまもなく誅され、崔覚は出家して逃げたが捕らえられて処刑された。
宝玄の処刑と何点の免死
- 宝玄が東城に駐屯していたころ、士民にはそこへ集まる者が多かった。慧景敗後、朝廷は宝玄や慧景に与した者の名簿を手に入れたが、東昏侯はこれを焼かせ、「江夏王すらこうなのだから、他の者まで罪することはない」と言った。
- 宝玄は数日逃亡したのち出頭し、東昏侯は後堂に召し入れて、歩障で囲い、外を鼓角を鳴らしながら走らせたうえで、「お前がこの前わたしを囲んだのも、ちょうどこんな具合だった」と言って辱めた。
- 初め慧景は隠士の何点と交わろうとしたが拒まれ、建康包囲の際に無理に招いた。何点は軍中で一日じゅう仏理を談じ、軍事に触れなかった。
- 慧景敗後、東昏侯は何点も殺そうとしたが、蕭暢が茹法珍に、何点が賊を誘って談義に引き止めなければ形勢はどうなったかわからない、むしろ封賞すべきだと説いたため、何点は助かった。何点は何胤の兄である。
五月~六月 戦後処理と嬖幸政治
- 蕭懿が小峴を離れると、王粛も洛陽へ帰った。ところが流言によって、王粛が再び南帰を図るとの噂が立った。
- 五月乙巳、斉は王粛を都督豫・徐・司三州諸軍事、豫州刺史、西豊公とした。
- 己酉、江夏王宝玄は誅殺された。壬子、大赦が行われた。
- 六月丙子、北魏では元勰が大司馬・領司徒に進み、王粛も開府儀同三司を加えられた。寿陽取得の功に対する賞である。
- 大陽の蛮、田育丘ら二万八千戸が北魏に附き、魏は四郡十八県を置いた。
- 乙丑、建康・南徐州・兗州に限って曲赦が行われた。崔慧景の乱に連座する者が多かったためである。
- しかし前の赦令では、寵臣たちがこれを守らず、富者は無実でも賊党とされて殺され財産を没収される一方、実際に賊に加わった貧者は見逃された。
- 王咺之に、赦書に信用がないので民心がひどく悪化していると語る者がいると、咺之は「また赦があるだろう」と言った。実際に再赦はあったが、嬖幸たちの恣意は相変わらずだった。
東昏侯の側近集団と暴政
- このころ東昏侯の寵愛を受ける側近は三十一人に及び、黄門十人、直閤驍騎将軍の徐世標はとくに信任され、殺戮はほとんどその手で行われた。
- 陳顕達の乱ののちには輔国将軍に進み、名目上は崔慧景が都督でも、兵権の実際は徐世標が握っていた。
- 徐世標は、どの時代の天子にも側近の実力者はいるのに、今は自分たちの主人が悪いだけだと茹法珍・梅虫児に語った。二人はこれを帝に讒言し、帝はその兇強を嫌って禁兵に殺させた。徐世標は戦って死んだ。
- 以後は茹法珍・梅虫児が外監として権勢をふるい、王咺之と結んで詔勅や文書をほしいままにした。
- 帝は潘貴妃の父の潘宝慶や茹法珍を「阿丈」、梅虫児や俞霊韻を「阿兄」と呼び、法珍らと連れ立って潘宝慶の家へ行き、自分で水を汲んで料理を手伝うことすらあった。
- 潘宝慶は権勢に乗じ、富民に罪を着せて田宅・財貨を奪い、禍が家一門や隣人に及ぶのを恐れて男を皆殺しにすることさえあった。
- 帝はたびたび「刀敕」と呼ばれる近習の家に遊びに行き、吉凶があれば自ら慶弔した。
- 宦官の王宝孫はまだ十三、四歳ながら「倀子」と呼ばれて最も寵愛され、朝政にまで関与した。王咺之や梅虫児さえ彼にへりくだり、詔勅を書き換え、大臣を統制し、騎馬のまま殿中に入り、天子や公卿を面前で叱りつけても、誰も息をひそめていた。
吐谷渾と北魏
- 吐谷渾王の伏連籌は、北魏に対しては藩臣の礼を尽くしたが、自国では百官を天子にならって置き、近隣諸国に対しては主君のように振る舞った。
- 北魏主は使者を送ってこれを責めたが、最終的には赦している。
陳伯之の再度の寿陽攻略と北魏の勝利
- 陳伯之は再び兵を率いて寿陽を攻めた。彭城王元勰がこれを防いだが、援軍がまだ到着しないうちに、汝陰太守の傅永が郡兵三千を率いて救援に向かった。
- 伯之は淮口を固く防いでいたため、傅永は淮口の二十余里手前で船を汝水南岸へ引き上げ、水牛に曳かせて南へ運び、淮に下ろしてすぐ渡河した。ちょうど斉軍も同じ岸に来ていたが、夜に紛れて城中へ入った。
- 元勰は大いに喜び、長く北を望むばかりで洛陽を再び見ることはできまいと思っていたが、思いがけず来てくれたと傅永をねぎらった。
- 元勰は入城を勧めたが、傅永は援軍の意義は包囲を解くことであり、城にこもればともに囲まれるだけだとして、城外に陣した。
- 秋八月乙酉、元勰は諸軍を分けて傅永と呼応し、肥口で陳伯之を大破した。斬首九千、捕虜一万に及び、伯之は身ひとつで逃げて淮南へ帰り、ついには北魏へ降った。
- 北魏は元英を淮南救援に向かわせていたが、到着前に勝敗は決していた。北魏主は元勰を洛陽へ召し返し、元英に揚州事を代行させ、のちに王粛を都督淮南諸軍事・揚州刺史として派遣した。
八月以後 後宮火災と奢侈
- 甲辰の夜、後宮で火災が起こった。ちょうど東昏侯は外出中で、宮中の者は外へ出られず、外の者も勝手に門を開けることができなかったため、開門した時には死者が折り重なっていた。三十余間が焼けた。
- 当時、寵臣たちはみな「鬼」とあだ名されており、その一人の趙鬼が『西京賦』を引いて、柏梁台が焼けた後に建章宮が営まれた故事を語った。帝はこれを受けて芳楽・玉寿などの新殿を大規模に建て始めた。
- 壁には麝香を塗り、彫刻や装飾は極度に華美を尽くした。工事は夜通し続き、それでも帝の性急さには追いつかなかった。
- 後宮の服飾・器物も珍奇を尽くし、府庫の旧蔵品では足りず、市中から金宝を数倍の値で買い集めた。建康の酒税まで金で納めさせたが、それでも足りなかった。
- 金で蓮華を作って地面に貼り、潘妃にその上を歩かせて「歩歩生蓮華だ」と喜んだ。
- また、雉頭・鶴氅・白鷺縗などの珍しい羽毛類を民間から取り立て、嬖幸たちはこれを口実に十倍の取り立てを行ったうえ、州県にも代納を求めて実勢価格で利を取った。実際には納めずに利益だけ吸い上げることも多く、地方官も恐れて何も言えなかった。
- さらに重ねて科斂がなされ、前後して止むことがなく、百姓は困窮し尽くして道で泣き叫んだ。
九月 三関方面の敗報
- 軍主の呉子陽らが三関を出て北魏に侵入したが、九月、東豫州刺史の田益宗と長風城で戦って敗れた。
蕭懿誅殺への伏線
- 蕭懿が建康救援に入った時、弟の蕭衍は虞安福を走らせて、賊を平定したあとそのまま兵を率いて入宮し、伊尹・霍光のように廃立を断行するか、さもなくば兵を保って歴陽へ退き、外兵をもって内外を制すべきだと勧めた。
- 長史の徐曜甫も強く同意したが、懿はいずれも受け入れなかった。
- 崔慧景が死ぬと、懿は尚書令となり、弟の蕭暢は衛尉として宮門の鍵を握った。人々は、帝がしばしば無防備に外出するので、その機に兵を挙げて廃すべきだと勧めたが、懿は従わなかった。
- 茹法珍・王咺之らは懿の権勢を恐れ、帝に対して、懿は隆昌年間の故事のように廃立を行おうとしていると告げた。帝もその通りと思い込んだ。
- 徐曜甫はひそかに船を用意して江辺に置き、懿に襄陽へ西奔するよう勧めたが、懿は「古来、死はあっても尚書令が叛逃したことはない」と言って拒んだ。
- 懿の弟や甥たちは逃亡の準備を整えていた。
冬十月 蕭懿の死
- 冬十月己卯、東昏侯は宮中の省中で蕭懿に毒薬を賜った。懿は死に際して「家弟は雍州にいる。朝廷にとって深い憂いとなろう」と言った。
- 懿の弟や甥たちはみな町中に潜伏したが、誰も告発しなかった。人心が蕭氏に同情していたためである。
- ただ一人、蕭融だけは捕らえられて殺された。
北魏の元勰
- 丁亥、北魏は元勰を司徒・録尚書事とした。元勰は固辞したが許されなかった。
- 元勰は本来、淡泊で権勢を好まず、しかし高祖からは政務処理の才を重く見られて大任を委ねられていた。遺詔もあり、世宗の代になっても朝廷に留め置かれた。
- 願いに反して権任を負うことが多く、しばしば悲嘆したという。
- 風采は端厳で、立ち居振る舞いは法にかなっていた。文史を好み、政務の暇にも読書をやめず、独居の時ですら怠惰な姿を見せなかった。儒者を敬し、清正倹素で、私的な請託を門前で許さなかった。
十一月 魏の襄陽方面侵攻
- 十一月己亥、北魏の東荆州刺史桓暉が南下して下笮戍を奪い、二千余戸がこれに帰した。
- 桓暉は桓誕の子である。
蕭衍への刺客と襄陽の決起準備
- もともと東昏侯は雍州刺史の蕭衍に異志ありと疑い、直後の鄭植を、弟の鄭紹叔を訪ねる名目で派遣し、実際には蕭衍を刺させようとした。
- だが鄭紹叔はそれを知って蕭衍に密告した。蕭衍は酒宴の席で鄭植に、今日はまさに刺すのに良い機会ではないかと冗談を言い、主客ともに大笑した。
- さらに鄭植に城郭・府庫・兵馬・武器・舟艦まで見せたため、鄭植は、雍州の実力は容易には図れないと認めた。鄭紹叔は、都に帰ったらそのまま天子に伝えよと送り出し、南峴で兄弟は泣いて別れた。
- 蕭懿の死を聞いた蕭衍は、その夜のうちに張弘策・呂僧珍・王茂・柳慶遠・吉士瞻らを州宅に招いて決起を協議した。
- 乙巳、蕭衍は僚佐を集め、「昏主の暴虐は殷の紂王以上だ。諸君と共にこれを除く」と宣言し、この日、軍旗を立てて兵を集めた。
- 甲士一万余、馬千余匹、船三千艘が集まり、檀溪に出していた竹木で急造・修補を行い、たちまち準備を整えた。諸将が櫓の奪い合いをすると、呂僧珍が前から備蓄していたものを各船に分配して争いを収めた。
荆州工作と劉山陽の失敗
- 当時、南康王宝融が荆州刺史・西中郎として在任していたが、実務は長史の蕭頴胄が担っていた。
- 東昏侯は劉山陽を巴西・梓潼二郡太守に任じ、兵三千を与えて赴任させ、そのまま頴胄の兵を用いて襄陽を襲わせようとした。
- 蕭衍はその策を知り、参軍の王天虎を江陵へ送り、州府の各所に、劉山陽は西へ進んで荆州と雍州を同時に襲うつもりだという触れを出させた。
- さらに蕭衍は、荆州はもともと襄陽兵を恐れており、しかも唇亡歯寒の関係にあるから、必ず内心では同調すると見た。荆・雍の兵を合わせて東下すれば、韓信や白起が再生しても建康を救えないと語った。
- そのうえで張弘策には、今度王天虎が持つ書は頴胄兄弟宛ての二通しかなく、「口頭で詳しく告げる」とだけある。しかも王天虎は頴胄の腹心なので、周囲は頴胄が何かを隠していると疑い、劉山陽も頴胄を疑うようになるはずだと説明した。蕭衍は、二つの空函だけで荆州一州を決めることになると言った。
- 劉山陽は江安に至ったが、十余日も逡巡して進まなかった。頴胄はこれを恐れ、席闡文・柳忱らと密議した。
- 席闡文は、蕭衍は長年兵馬を養っており、しかも荆州は彼に勝てない、ならば劉山陽を殺して雍州とともに挙兵し、天子を立てて諸侯を号令すべきだと主張した。
- 柳忱は一方で、朝廷は狂悖を増すばかりだが、いま遠地にいて仮の平穏を得ているだけで、雍州と朝廷を戦わせて自滅を待つのも手だと慎重論を唱えた。さらに、蕭懿のような功臣ですら群小に陥れられた前例を引き、深く考えるべきだとした。
- しかし蕭頴達も席闡文に同調したため、頴胄は決断した。
- 詰旦、頴胄は王天虎に、劉山陽と旧知のお前の首を借りるしかないと言って斬り、その首を劉山陽へ送ったうえ、車牛を動員して歩軍を起こし襄陽に向かうように装った。
- 劉山陽はこれで安心し、甲寅、江津に到着して、単車に白服、供も数十人だけで頴胄のもとへ赴いた。頴胄は城内に伏兵を置き、山陽が門を入るや車中で斬った。
- 劉山陽の副将李元履は残兵を収めて降伏した。
南康王宝融擁立と荆州の体制整備
- 頴胄は、西中郎司馬の夏侯詳が不同意ではないかと柳忱に相談した。柳忱は、詳が最近、昏主のもとから妻を求めたが許されていないことを利用して、その子の夏侯夔に自分の娘を嫁がせ、計画を告げて味方に引き入れた。
- 乙卯、南康王宝融は軍装の整備、囚徒の赦免、恩沢の施行、賞格の頒布を命じた。
- 丙辰、蕭衍を使持節・都督前鋒諸軍事に任じ、丁巳には蕭頴胄を都督行留諸軍事に任じた。
- 頴胄は度量ある人物で、大事を起こすと私心なく人に任せたので、衆望が集まった。宗夬・劉垣・楽藹ら在地で信望ある人物を軍政に参加させ、毎事これを諮問した。
- 頴胄と宗夬は私財を供出し、富民から借り換えもして軍費を賄った。長沙寺の僧が埋蔵していた黄金の金龍数千両まで掘り出して軍資とした。
- 頴胄は劉山陽の首を蕭衍へ送りつつ、年回りが悪いので進軍は明年二月を待ちたいと言った。
- 蕭衍はこれに反対し、挙兵の初動は一時の鋭気に頼るのであり、十旬も兵を止めれば必ず疑念と怠慢が生じる、しかも十万の兵を座らせれば食糧が尽き、南康王の周辺に異論が出れば大事は壊れると論じた。武王が紂を討ったときも太歳を犯して出兵したのだから、年月待ちなど不要だとした。
- 戊午、蕭衍は南康王宝融に尊号を称するよう上表したが、宝融は許さなかった。
十二月 建康への檄と各地の呼応
- 十二月、蕭頴胄と夏侯詳は建康の百官および州郡の牧守に檄を飛ばし、東昏侯と梅虫児・茹法珍の罪悪を数え立てた。
- 頴胄は楊公則を湘州へ、鄧元起を夏口へ向かわせた。王法度は進軍しなかったため免官となった。
- 乙亥、荆州の将佐が再び宝融に尊号を勧めたが、なお応じなかった。
- 夏侯詳の子の亶が建康から逃げ帰り、壬辰に江陵へ着いて、宣徳太后の令として、南康王は皇位を継ぐべきだが、まず宮中を平定してから正式に即位すべきであり、ひとまず宣城王・相国・荆州牧・黄鉞加授とし、西中郎府と南康国の体制はそのままにして進軍に備えるべきだと称した。
- 竟陵太守の曹景宗は、宝融を襄陽へ迎えて先に尊号を正すよう蕭衍に勧めたが、蕭衍は従わなかった。
- 王茂は張弘策に、南康王を他人の手中に置けば、将来その名を借りて諸侯を制されることになると不安を述べた。
- これに対し蕭衍は、前途の大事が失敗すれば自分も相手も同じく焼け死ぬだけ、もし成功すれば四海を震わす威勢を得るのだから、他人の指図を受ける小人物で終わるはずがないと答えた。
襄陽への在地勢力の結集
- 以前、陳顕達・崔慧景の乱の最中に、上庸太守の韋叡は、陳顕達は旧将にすぎず、崔慧景は経験はあるが怯懦で武略が足りないので、いずれ一族滅亡に終わるだろう、天下を定めるのはおそらく自分たちの州の将軍だろうと語っていた。
- そこであらかじめ二子を蕭衍に通わせて関係を結んでおき、蕭衍挙兵ののちには郡兵二千を率いて急行した。
- 華山太守の康絢も郡兵三千を率いて加わった。康氏はもと康居の出で、のちに藍田に住し、宋代に襄陽近辺へ移された家である。
- 馮道根は母の喪中であったが、郷里の壮者を率いて参陣した。
- 梁・南秦二州刺史の柳惔も挙兵して蕭衍に応じた。柳惔は柳忱の兄である。
建康側の対応と郢州・湘州情勢
- 東昏侯は劉山陽の死を聞き、荆州・雍州討伐の詔を発した。
- 戊寅、劉澮を雍州刺史に任じて蕭衍の後任とし、薛元嗣・暨栄伯らに兵と兵糧船百四十余を率いさせ、郢州刺史の張冲を援けて西方の軍を防がせた。
- だが元嗣らは劉山陽が殺されたことを恐れ、張冲も進まないだろうと疑って夏口浦に停滞し、西軍接近を聞くとそろって郢城へ逃げ込んだ。
- 前竟陵太守の房僧寄は建康へ帰る途中で郢に至り、帝の命で魯山の守備に留められ、張冲と盟約を結び、孫楽祖に数千を与えて援助させた。
- 蕭頴胄は武寧太守の鄧元起を夏口攻略へ向かわせた。張冲は元起を日頃厚遇しており、周囲は郢州へ帰るよう勧めたが、元起は、朝廷は暴虐で、荆雍二州がともに大事を挙げた以上、必ず勝てる、また母が西にいるので失敗しても不孝の罪は免れると言って、ただちに出発した。
- やがて江陵へ至り、西中郎中兵参軍となった。
- 湘州では行事の張宝積が兵を発して自衛し、どちらに付くか決めかねていた。楊公則が巴陵を抜いて白沙へ進むと、張宝積は恐れて降伏し、楊公則は長沙へ入ってこれを慰撫した。
漢中方面の動き
- そのころ、北秦州刺史の楊集始は一万余を率いて漢中から北へ出て、旧領回復を図ろうとしていた。
- しかし北魏梁州刺史の楊椿が下辯に進んで書を送り、利害を説くと、楊集始は結局、部曲千余を率いて再び北魏に降った。
- 北魏は以前の爵位を返し、武興へ帰って守らせた。