資治通鑑齊紀十 和皇帝 中興 一年 501年
春正月:江陵政権の始動と蕭衍の挙兵
- 丁酉、東昏侯は晋安王宝義を司徒、建安王宝寅を車騎将軍・開府儀同三司とした。
- 乙巳、南康王宝融は江陵で相国を称し、大赦を行った。蕭頴胄を左長史、蕭衍を征東将軍、楊公則を湘州刺史とし、西方で東昏侯に対抗する体制を整えた。
- 戊申、蕭衍は襄陽を発した。弟の蕭偉に州府の総轄を、蕭憺に防衛拠点の守備を、府司馬の莊丘黒に樊城守備を任せた。
- 蕭衍の出陣後、襄陽の兵力と備蓄が手薄になったのを見て、魏興太守裴師仁・斉興太守顔僧都が命令に従わず挙兵し襄陽を襲おうとしたが、蕭偉・蕭憺が始平でこれを大破し、雍州は安定した。
北魏:孝明帝の親政開始
- 北魏では咸陽王禧が上相として政権の最上位にあったが、政務を顧みず、奢侈・貪欲・放縦が甚だしく、法を踏みにじることが多かったため、皇帝は次第にこれを嫌うようになった。
- 禧は羽林・虎賁兵を私的な護衛として使おうとしたが、領軍于烈は「詔がなければ天子の近衛を私用に回せない」と拒絶した。禧は怒って于烈を恒州刺史に出そうとしたが、于烈は病と称して応じなかった。
- 于烈の子の于忠や北海王詳らが、諸王の専横を早く止めるべきだと密かに進言した。あわせて、彭城王勰が人望を集めすぎているので長く輔政にあたらせるのは危ういとも説かれ、皇帝はこれを容れた。
- 礿祭を前に諸王・公が廟の東坊に斎宿していた夜、皇帝は于烈を呼び、翌朝ただちに処置を行った。庚戌、勰は王のまま私邸に帰され、禧は太保へ昇したが実権を奪われ、北海王詳が大将軍・録尚書事となった。
- 張彞・邢巒は異常事態を察して洛陽から逃げ出し、御史中尉甄琛に弾劾された。于烈は再び領軍となり、さらに車騎大将軍を加えられ、以後は禁中に常駐して軍国の大事に参与した。
- 当時の北魏主は十六歳で、政務をみずから裁くことができず、近臣や外戚に委ねたため、茹皓・王仲興・寇猛・趙脩・趙邕・高肇らが権勢を握り始めた。とくに趙脩は寵遇が厚く、短期間で光禄卿にまで上り、昇進のたびに皇帝自らその邸に赴いて宴を開いた。
- 辛亥、東昏侯は南郊を祀って大赦した。
- 丁巳、北魏主は太極前殿で群臣を引見し、自ら親政する意志を告げた。
- 壬戌、咸陽王禧は領太尉、広陵王羽は司徒に任じられそうになったが、羽は固辞し、司空に改められた。
二月:蕭衍、郢州攻略を本格化
- 乙丑、南康王宝融は王茂を江州刺史、竟陵太守曹景宗を郢州刺史、邵陵王宝攸を荊州刺史とした。
- 甲戌、北魏で大赦があった。
- 壬午、東昏侯は羽林兵を雍州攻撃に派遣し、内外の警備を厳重にした。
- 甲申、蕭衍は竟陵に至り、王茂・曹景宗を前軍として漢口へ進めた。諸将は郢城を囲みつつ西陽・武昌を別働で攻める案を出したが、蕭衍はこれを退けた。
- 蕭衍は、漢口が狭く、郢城と魯山城とが相互に援護できる地形である以上、軽率に全軍を前進させると背後を断たれると判断した。そのため、王茂・曹景宗らには長江を渡って荊州軍と合流し郢城に圧力をかけさせ、自身は魯山を囲んで沔水・漢水の補給路を確保した。鄖城・竟陵の穀物を船団で送り、さらに江陵・湘中の兵も次々に来れば、兵糧は尽きず、郢州・魯山はいずれ落ちると見通した。
- 王茂らは九里に駐屯し、張沖配下の陳光静を撃破してこれを討ち、石橋浦から加湖に至るまで陣を連ねた。
- 荊州から鄧元起・王世興・田安之らが夏首に進み、蕭衍は漢口城を築いて魯山を押さえ、水軍の張惠紹らに命じて江上を遊弋させ、郢城と魯山城の連絡を断った。
- 楊公則は湘州の兵を率いて夏口で合流し、荊州諸軍はすべてその節度を受けることとなった。
- 江陵では湘州統治の適任者選びが難航したが、劉坦が「湘州は人心が動揺しやすく、武人では民を害し、文人では威令が立たない。自分なら鎮静できる」と申し出たため、輔国長史・長沙太守として湘州の実務を委ねられた。
- 劉坦は旧恩を活かして湘州十郡を掌握し、租米三十余万斛を徴発して荊・雍の軍に送り、以後の補給を支えた。
三月:和帝即位
- 三月、蕭衍は鄧元起を南堂西渚、田安之を郢城北、王世興を曲水故城に進め、郢城包囲を強めた。
- 丁酉、郢州を守る張沖が病死し、薛元嗣・張孜・程茂らが城を守った。
- 乙巳、南康王宝融は江陵で即位し、和帝となった。改元して中興元年とし、大赦を行った。宗廟・南北郊・州府城門などを建康宮にならって整え、尚書五省を置き、蕭頴胄を尚書令、蕭衍を左僕射とした。
- さらに晋安王宝義を司空、廬陵王宝源を車騎将軍・開府儀同三司、建安王宝寅を徐州刺史とし、夏侯詳を中領軍、蕭偉を雍州刺史とした。これらのうち建康にいる諸王への任命は名目上のものであった。
- 丙午、東昏侯は庶人宝巻を涪陵王に封じた。
- 乙酉、蕭頴胄は行荊州刺史となり、蕭衍は征東大将軍・都督征討諸軍事・仮黄鉞を加えられた。これは宗夬が軍慰問から戻った後、黄鉞がなければ諸侯を統率するに足りないと庾域が勧めたためであった。
- 郢城側では薛元嗣が沈難当に軽快な舟軍を率いさせて出撃させたが、張惠紹らに捕えられた。
- 癸丑、東昏侯は豫州刺史陳伯之を江州刺史とし、前鋒諸軍の都督として荊・雍討伐に向かわせた。
四月:持久戦の構え
- 四月、蕭衍は沔水から出て、王茂・蕭頴達らに郢城への圧迫を強めさせたが、薛元嗣は出撃せず、諸将が攻城を望んでも蕭衍は許さなかった。敵を疲弊させることを優先したためである。
五月:北魏の咸陽王禧、反乱して敗死
- 北魏の広陵恵王羽は、員外郎馮俊興の妻と密通していたが、夜に通ったところを俊興に打たれ、その傷がもとで壬子に死んだ。
- 北魏主の親政後、王公が皇帝に近づきにくくなったため、劉小茍が「皇帝側近が禧誅殺を語っている」と禧にしばしば吹き込み、禧はますます不安になった。
- 禧は李伯尚・楊集始・楊霊祐・乞伏馬居らとともに反乱を図り、皇帝が北邙へ狩りに出た機に、洛陽西の別宅に集まって兵を起こし、長子の元通には河内で挙兵させて呼応させようとした。
- だが、都へ戻って城門を閉じ、皇帝を北へ追いやって河南の主となる案に対して、首謀者たちの意見が定まらず、禧自身も決断できぬまま、ついにその日の夕方には口外無用として解散してしまった。
- 楊集始は出るとすぐに北邙の皇帝に急報した。直寝の符承祖・薛魏孫も禧に通じていたが、薛魏孫が弑逆を口にしたとき、符承祖は天子殺害の祟りを恐れて止めた。皇帝が目覚めた頃には集始も着き、近衛は少なかったが、于忠が「父の于烈が洛陽で備えている」と進言し、皇帝を安心させた。
- 于忠の報告どおり于烈はすでに厳重な防備を敷いており、皇帝は華林園から落ち着いて宮城へ戻った。
- 禧は事が漏れたことも知らず、洪池の別荘に留まり、劉小茍を使って「田地の巡検に出ているだけだ」と弁明しようとした。しかし小茍はすでに軍勢と出会っており、追及されて反乱計画を白状した。
- 一方、元通はすでに河内へ入り、武器を並べ、囚人まで解き放っていた。于烈は叔孫侯に虎賁三百人を率いさせて禧を捕らえさせた。禧は洛水を渡って柏谷塢へ逃げたが追兵に捕まり、華林都亭に送られた。
- 壬戌、禧は私第で死を賜り、共謀者十余人も誅された。諸子は宗籍から除かれ、わずかな財産と奴婢だけが与えられ、それ以外の家財は高肇・趙脩らや内外百官に分配された。禧の子らが窮乏するなか、彭城王勰だけがしばしば援助した。
- 河内太守陸琇は、元通を反乱前に捕らえなかったとして同情の嫌疑をかけられ、廷尉に下され獄死した。
- この事件によって北魏主は、宗室への疑いをさらに深めた。
六月:郢州包囲の方針をめぐる論争
- 巴西太守魯休烈と巴東太守蕭惠訓は、蕭頴胄の命に従わなかった。蕭惠訓は子の蕭璝に兵を授けて蕭頴胄を攻めさせ、蕭頴胄は劉孝慶・任漾之らを峡口に置いて防いだ。
- 東昏侯は呉子陽・陳虎牙ら十三軍を郢州救援に派遣し、巴口に進駐させた。陳虎牙は陳伯之の子である。
- 西の政権では、席闡文が蕭衍のもとへ赴き、蕭頴胄らの意見として「郢州と対岸に兵を分けて停滞するより、郢州を総攻囲し、西陽・武昌を取り、必要なら北魏に救援を求めて和を結ぶべきだ」と伝えた。
- これに対し蕭衍は、漢口は荊州・雍州と秦梁方面を結ぶ補給の要であり、ここを押さえるからこそ兵站が成り立つと説明した。郢州包囲と同時に各地へ兵を分ければ、魯山が沔路を塞いで糧道が断たれ、軍は自壊すると見たのである。
- また、西陽・武昌を仮に取れても守備兵と糧秣が必要で、東昏侯軍の逆襲があれば孤立する危険が大きいと論じた。郢州さえ落ちれば、流れに乗って一気に下れば西陽・武昌は自然に崩れる、北魏へ助けを求めるのは天下に弱みを見せる下策だとして退けた。
- 呉子陽らは武口へ進み、蕭衍は梁天恵らを漁湖城、唐脩期らを白陽塁に置いて両岸から備えた。呉子陽は加湖に砦を築き、郢城と烽火で連絡を取り合ったが、互いに自守するだけで援護しあうことはできなかった。
- 房僧寄が病死すると、魯山城では張楽祖が後継の守将に推された。
江西・湘州方面の戦いと東昏侯の乱行
- 蕭頴胄が起兵した当初、弟の蕭頴孚は建康から逃れ、廬陵の民の脩霊祐が兵二千を集めて廬陵を攻め落とした。内史謝篹は豫章へ逃げた。
- 范僧簡が湘州から来て安成を奪い、安成太守となり、蕭頴孚は廬陵内史に任じられた。
- しかし東昏侯は劉希祖に三千を与えてこれを討たせ、南康太守王丹も応じた。蕭頴孚は敗れて長沙へ逃れ、まもなく病死した。謝篹は復帰したが、劉希祖は安成を奪い、范僧簡を殺した。さらに脩霊祐が残兵を集めて謝篹を攻めたため、謝篹も敗走した。
- このころ東昏侯は芳楽苑を造営し、山石を彩色し、民家の良木・美竹を見つければ塀を壊し家を撤してでも苑へ移させた。盛夏に移された木竹はすぐ枯れたが、なお朝夕ひっきりなしに取り立てさせた。
- 園内には市まで設け、宮人や宦官に商売をさせ、潘貴妃を市場の長官、自分を記録係のような立場に置いて、損得が出れば妃に杖打ちを命じた。虎賁には実の詰まった荻や大荆で打てと命じ、重い打撃を加えさせた。
- さらに運河や堰を作って自ら船を引き、時には座ったまま肉を切り、また巫覡を好んだ。宦者の朱光尚が「先帝の霊が怒っている」と言うと、東昏侯は高宗の形代を作らせて斬り、その首を苑門に掲げた。
建康で相次ぐ反乱計画
- 崔慧景敗死の後、巴陵王昭胄・永新侯昭穎は台軍へ投降して本宅に戻されていたが、不安を抱えていた。
- 竟陵王子良の旧防閤桑偃は、前巴西太守蕭寅と結び、昭胄を立てようとした。蕭寅は胡松の兵を頼みにし、東昏侯が外出した隙に昭胄を奉じて宮城を占拠する策を立てたが、同志の王山沙が長引くのを恐れて御刀徐僧重に密告した。山沙は口封じに殺されたが、その袋から証拠が見つかり、昭胄兄弟・桑偃らはみな誅された。
- ついで雍州刺史張欣泰は、弟の張欣時、胡松、王霊秀、直閤将軍鴻選らと組んで、寵臣たちを除き東昏侯を廃そうとした。
- 七月甲午、茹法珍・梅虫児・李居士・楊明泰らが中興堂へ送り込まれた際、張欣泰らは潜ませていた者に刀で襲わせた。馮元嗣は首を果物の盆に落とされ、楊明泰も腹を裂かれ、梅虫児は重傷を負った。
- 王霊秀は建安王宝寅を迎え、城中の兵を集めて台城へ向かったが、法珍らが先に戻って城門を閉じ、防衛兵も配されなかったため、杜姥宅のあたりで日没となり、城上から射かけられて人々は散った。宝寅も逃げ、三日後に武装して草市尉のもとに出頭した。東昏侯は笑って罪に問わず、爵位も元に戻した。
- 張欣泰らの計画は発覚し、胡松ともども誅された。
七月:加湖勝利と郢・魯の降伏
- 七月、蕭衍は王茂・曹仲宗らに舟軍を率いさせ、水かさの増した機会をとらえて加湖を急襲させた。丁酉、呉子陽らは大敗し、戦死・溺死した者は万単位にのぼった。
- この勝利で郢城と魯山城は互いに士気を失った。
- 乙巳、柔然が北魏辺境を侵した。
- 魯山城では食糧が尽き、兵は磯で小魚を捕って命をつなぐほどで、密かに小舟を整えて夏口へ逃れようとしたが、蕭衍は別働隊で退路を断った。
- 丁巳、張楽祖は窮して魯山城を降した。
- 己未、東昏侯は程茂を郢州刺史、薛元嗣を雍州刺史としたが、その同じ日、郢城も程茂・薛元嗣らによって降伏した。
- 郢城包囲は二百日余りに及び、城内には男女あわせて十万近い人が閉じ込められていた。疫病と浮腫で死者は大半に及び、死体は寝台の下に積まれ、人々はその上で寝るほどで、家々にも死体が満ちた。
- 降伏前、張沖の旧吏であった房長瑜は、張孜に対して「前任者の忠義に泥を塗らず、最後まで守って主君の後を追うべきだ」と諫めたが、張孜は従わなかった。
- 蕭衍は韋叡を江夏太守として郢州の行政を委ね、死者を埋葬し、生者を慰撫したため、郢州の人々は安堵した。
- 諸将は夏口に一度集結したいと考えたが、蕭衍は勝勢に乗じてただちに建康へ向かうべきだと判断した。張弘策は道中の宿営地や船着き場を先回りして図示し、軍はそれに従って進軍した。
北魏:王肅の死と南方情勢
- 辛酉、北魏で大赦があり、安国宣簡侯王粛が寿陽で死んだ。侍中・司空を追贈された。
- 王粛は父王奐が非命に死んだ後、四年間も喪を解かなかった。高祖は礼の限度を越えるなと諭して祥・禫の礼による除服を命じたが、王粛はなお終生素服で、音楽も聴かなかった。
- 汝南の胡文超が灄陽で兵を挙げて蕭衍に呼応し、義陽・安陸などの郡を取って功を立てようとした。蕭衍側では唐脩期が隨郡を攻め、いずれも攻略に成功した。司州刺史王僧景も子を人質として送り、司州の所部はほぼ平定された。
崔偃の上書とその死
- 崔慧景の子の崔偃は、和帝政権が立つと寧朔将軍に任じられた。
- 崔偃は、公車門で上書し、江夏王宝玄とその配下である自父崔慧景を、ただ「乱臣賊子」として葬るのは筋が通らないと論じた。和帝自身も東昏侯に背いて即位した以上、その道理を認めなければ、自らの挙兵の正当性も崩れると迫った。
- さらに再度の上疏では、蕭頴胄・夏侯詳のような当事者が事情を知りながら黙しているのは不忠・不智だと述べ、史官の筆は千載に残るのだから、公正な評価を下すべきだと訴えた。
- 詔は「心中はよくわかった、やがて顕彰する」と答えたが、まもなく崔偃は獄に下されて死んだ。
八月:江州の陳伯之、帰順
- 丁卯、東昏侯は申胄に豫州を監させた。
- 辛未、張瓌が石頭に駐屯した。
- もともと東昏侯は陳伯之を江州に置き、呉子陽らの後詰とさせていた。しかし加湖で呉子陽が敗れ、陳虎牙が敗走すると、蕭衍は「戦とは実力だけでなく威勢を聞かせることが肝心だ」と見て、檄文だけでも江州は揺らぐと読んだ。
- 捕虜の中から陳伯之の幢主蘇隆之を見つけ、厚く遇して「帰順すれば安東将軍・江州刺史に任じる」と約させて説得に向かわせた。陳伯之は帰順を約しつつも「大軍は急いで下ってこなくてよい」と伝えたが、蕭衍はそれを逡巡と見抜き、ためらっているうちに迫れば必ず降ると判断した。
- 鄧元起を先行させ、楊公則には柴桑を衝かせ、自らも諸将を率いて下った。尋陽に迫ると、陳伯之は湖口へ退き、陳虎牙を湓城に置いた。
- 選曹郎の沈瑀は、陳伯之の子が建康にいるため迷う気持ちを知りつつも、「人心は今まさに離れようとしている。早く決断しなければ軍は散る」と説いた。丙子、蕭衍が尋陽に至ると、陳伯之は甲を脱いで罪を謝した。
- 席謙は父の仇の件から「わが家は世々忠義を守る。二心は持たぬ」と言い、陳伯之に従うことを拒んだため、殺された。
- 乙卯、蕭衍は陳伯之をそのまま江州刺史、陳虎牙を徐州刺史とした。
西方の危機と蕭衍の静観
- 魯休烈・蕭璝は峡口で劉孝慶らを破り、任漾之は戦死した。両者は上明まで進み、江陵は大いに震えた。
- 蕭頴胄は恐れて蕭衍に急報し、楊公則を引き返して江陵を救わせようとした。
- しかし蕭衍は、楊公則が長江をさかのぼっても間に合わず、敵は寄せ集めだから遠からず自壊すると見て、軽挙を戒めた。雍州の弟たちから援兵を徴すれば足りるとも述べた。
- そこで蕭頴胄は蔡道恭に節を仮して上明に屯させ、蕭璝を防がせた。
九月:建康へ進軍
- 辛巳、東昏侯は李居士を西討諸軍総督として新亭に置いた。
- 乙未、和帝は蕭衍に対し、京邑を平定したなら情勢に応じて自由に処置してよいと詔した。
- 蕭衍は鄭紹叔を尋陽守備に残し、陳伯之とともに東下した。鄭紹叔には「前線の勝敗は自分が責任を負うが、糧運が絶えるかどうかはあなたの責任だ」と語り、信頼を託した。のちに建康を平定するまで、鄭紹叔の輸送は一度も途切れなかった。
- 北魏では広陽王嘉が洛陽に三百二十三坊を築いて治安を安定させるよう請願し、丁酉、畿内から五万人を徴発して築造を始め、四十日でひとまず完成した。
- 己亥、北魏で于氏が皇后に立てられた。征虜将軍于勁の娘で、于烈の弟の家の出身である。于氏一族は、于栗磾以来、代々きわめて栄えていた。
- 甲申、東昏侯は李居士を江州刺史、王珍国を雍州刺史、建安王宝寅を荊州刺史、申胄を郢州監、馬仙琕を豫州監、徐元称を徐州方面軍の監督とした。
- その日、蕭衍の前軍が蕪湖に着くと、申胄の二万の軍は姑孰を棄てて逃げた。蕭衍はその地を占領した。
建康周辺の戦い
- 戊申、東昏侯は蕭璝を司州刺史、魯休烈を益州刺史とした。
- それまで東昏侯は、江・郢が落ちても遊興をやめず、「白門の前まで来たところで勝負を決すればよい」と茹法珍に語っていた。だが蕭衍軍が近づくと、ようやく固守策に転じた。尚方・冶坊の囚徒まで編入して兵にし、助からぬ者は朱雀門内で日に百人以上斬られた。
- 曹景宗らは江寧に進んだ。丙辰、李居士は新亭から精騎千を率いて急襲したが、曹景宗は軍営未整備にもかかわらずこれを打ち破り、その勢いで皁莢橋まで進出した。
- 王茂・鄧元起・呂僧珍も赤鼻邏を占拠し、新亭城主江道林を野戦で捕らえた。
- 蕭衍は新林に着くと、王茂を越城、鄧元起を道士墩、陳伯之を籬門、呂僧珍を白板橋に配した。
- 李居士は呂僧珍の兵が少ないと見て精鋭一万で攻めたが、僧珍はあえて塹壕内まで引きつけてから内外から挟撃し、大破した。鹵獲した武具は数え切れなかった。
- 李居士は南岸の民家を焼き払って戦場を広げるよう求め、大航以西・新亭以北は焼き尽くされた。
- これと前後して、蕭衍の弟たちも建康から自力で脱出して軍に合流した。
冬十月:朱雀航の決戦
- 甲戌、東昏侯は王珍国・胡虎牙らに十万余の精兵を与え、朱雀航の南に布陣させた。宦官の王宝孫が白虎旛を持って督戦し、帰路を断つため航を開いて背水の陣を敷かせた。
- 蕭衍軍はやや押されたが、王茂が馬を下りて単刀で突進し、甥の韋欣慶が鉄を巻いた矟を持ってこれを援けたため、東昏侯軍はたちまち崩れた。曹景宗が追撃し、呂僧珍は敵営に火を放った。
- 東昏侯側も必死に戦ったが支えきれず、王宝孫が諸将を激しく叱咤しても効果はなかった。席豪が奮戦して戦死すると、兵は総崩れとなり、淮水へ逃れて無数が死んだ。死体が航と同じ高さになるほど積み重なり、後続の兵はその上を踏んで渡ったという。これを見た城内の諸軍もことごとく潰走した。
- 蕭衍軍は宣陽門に迫り、諸将はさらに前進した。陳伯之は西明門に陣した。
- 城内から降る者が出るたび、陳伯之は耳打ちしていたので、蕭衍は再び心変わりすることを警戒した。そこでまず「城内でお前を恨み、刺客を送ると聞く」と密かに語って疑心を植え付け、さらに東昏侯の将鄭伯倫が降ると、伯倫にも同様の話をさせた。陳伯之は恐れて、以後は異心を抱かなくなった。
- 戊寅、徐元瑜が東府城を挙げて降り、己卯には青冀二州刺史桓和も東昏侯に「出戦する」と偽って兵を率いて投降した。張瓌は石頭を棄てて宮中へ戻り、李居士も新亭を挙げて降り、琅邪城主張木もまた降った。
- 壬午、蕭衍は石頭に入り、六門を攻めさせた。東昏侯は門内の官署を焼き払い、士民を宮城内へ追い込んで立て籠もった。蕭衍は長囲を築いて包囲した。
- 楊公則は領軍府の北楼に陣し、南掖門と向かい合った。城内から神鋒弩で射られ、矢が胡床を貫いたが、顔色一つ変えなかった。夜襲を受けても動じず、徐々に応戦して退けた。
- 楊公則の配下は湘州兵で、もとより臆病と見られていたため、城中はたびたびその陣を狙った。だが公則は兵を励まして毎回大きな戦果を挙げた。
- 以前から京口・広陵・瓜歩・破墩などにいた東昏侯側の援兵も、蕭衍の説得で次々と降り、東昏侯は孤城に取り残された。
- 蕭衍は弟の蕭秀を京口、蕭恢を破墩、従弟の蕭景を広陵に置いた。
十一月:北魏政局と蕭頴胄の死
- 丙申、北魏は穆亮を司空とした。
- 丁酉、北海王詳は太傅・領司徒となった。かねて彭城王勰の司徒職を奪おうとして失脚させた経緯があり、その後は人の目をはばかって大将軍にとどまっていたが、このときついに司徒の地位を得た。
- 詳は権勢をふるい、将作大匠王遇もその意向に従って官物を私用に回した。司徒長史于忠は、詳の前で王遇に対し「周公・阿衡たるべき者のもとで、なぜ媚びへつらって公物を私物化するのか」と公然と責め、王遇も詳も恥じ入った。
- 詳は于忠の剛直さを憎み、死をちらつかせて脅したが、于忠は少しも屈しなかった。のちに于忠が咸陽王禧討伐の功で魏郡公に封じられ、散騎常侍・兼武衛将軍へ進むと、詳はその譲位願いに乗じて、左右近臣の地位から遠ざけるよう皇帝に勧めた。結果として封爵は見送られ、于忠は太府卿へ昇った。
- 一方、和帝政権では、巴東獻武公蕭頴胄が、蕭璝との対決が長引き、内外の不安を抱えたため憂憤の末に病み、壬午に死去した。
- 夏侯詳はその死をすぐには公表せず、筆跡の似た者に命じて偽の教命を書かせ、ひそかに蕭衍へ伝えた。蕭衍もまた秘したまま、雍州へ援兵を求めた。蕭偉は蕭憺に兵を与えて赴かせた。
- 建康の危機が深まると、蕭璝・魯休烈らの軍は動揺して潰散し、両人も降伏した。ここで初めて蕭頴胄の喪が発され、侍中・丞相を追贈された。これにより人望はほとんど蕭衍へ集まった。
- 夏侯詳は蕭憺とともに軍国に参与したいと願い、侍中・尚書右僕射に任じられ、ほどなく使持節・撫軍将軍・荊州刺史に転じたが、固辞したため、蕭憺が荊州府州軍を統べることとなった。
北魏:南朝侵攻論
- 北魏は伊水の北に円丘を改築し、乙卯、そこで初めて祭祀を行った。
- 鎮南将軍元英は上書し、蕭宝巻の暴虐はいよいよ深まり、蕭衍が東下して襄陽はほぼ空虚となった以上、今こそ襄陽を奪って漢水上流を断ち、さらに江陵へ進めば三楚を一挙に取れる絶好の機会だと論じた。揚州・徐州にも同時に動く気配を見せれば、建業は鍋中の魚になるとまで述べた。
- 車騎大将軍源懐も、広陵・淮陰などの守備が観望している今こそ東西から席巻すべきで、もし蕭衍が南朝を統一すれば、寿春のような前線はかえって危うくなると進言した。
- これを受けて北魏主は任城王澄を揚州刺史・都督淮南諸軍事として経略にあたらせたが、結局は実行に移さなかった。
- 東豫州刺史田益宗もまた、今こそ義陽を奪うべきだと上表した。南朝は内乱で州鎮が東西に分裂し、民は輸送と戦争で疲れ切り、外の州郡を保つ余力がないと見たのである。義陽は淮水上流に近く、行軍の渡津を押さえる要地だから、先に取れば大きいと論じた。
- 元英も重ねて、義陽は孤立し兵糧も援軍もなく、火を放ちたい鳥に薪がないようなものだ、今取らねば将来の患いになると奏した。
- そこで北魏主は直寝羊霊引を軍司として派遣し、田益宗に軍の節度を助けさせた。
- 田益宗はさっそく侵攻し、建寧太守黄天賜と赤亭で戦ってこれを破った。
宮城籠城と東昏侯の最期
- かつて崔慧景が建康に迫った際、東昏侯は蔣子文を相国・太宰などに擬して祀り、蕭衍が迫ると今度は霊帝として神像を後堂へ迎え、巫を使って加護を祈った。
- 城門が閉ざされると、軍事は王珍国と、その補佐として入京した張稷に委ねられた。実際には城中にまだ七万の精兵があった。
- 東昏侯はもとより軍陣ごっこを好み、宦官や宮女と戦闘のまねをして遊び、傷を負ったふりをさせて担ぎ去らせるなど、不吉を祓うつもりで芝居じみた行為を繰り返した。宮中では鎧に身を包み、金銀と孔雀・翡翠で飾った馬具をつけた馬に乗って出入りし、外の戦声が響いても赤袍で景陽楼に上って眺めるだけだった。
- 当初は陳顕達も崔慧景もすぐ敗れたので、蕭衍軍も同様だろうと見て、太官には百日分の薪と米だけ用意させた。しかし大桁の敗戦後はさすがに不安が広がり、茹法珍らは逃亡防止のため城門を閉じて出撃を控えた。
- 長囲が完成した後には何度か打って出たが勝てず、東昏侯は金銭を惜しんで賞も与えなかった。法珍が願っても「賊が来たらどうせ私の物を取るのだろうに、なぜ今ここで欲しがるのだ」と取り合わず、後堂に大量に備蓄していた板材も、殿舎用に取っておきたいとして城防に回さなかった。
- そのため城中は怨嗟に満ち、誰も全力を尽くさなくなった。長囲が長引くほど、皆は早く主君が滅んでほしいと思いながら、先に手を下す者が出なかった。
- 茹法珍・梅虫児は「大臣が本気で守らないから囲みが解けぬのだ。いっそ皆殺しにすべきだ」と東昏侯を煽った。
- 王珍国と張稷は身の危険を感じ、珍国は密かに明鏡を蕭衍へ送り、蕭衍は金を断って返し、盟意を示した。
- 張稷の腹心張斉と、後閤舎人銭強も加わって計画は固まった。
十二月:東昏侯弑逆、建康陥落
- 丙寅夜、銭強がひそかに雲龍門を開け、王珍国・張稷が兵を率いて殿内へ入った。御刀の豊勇之が内応した。
- 東昏侯は含徳殿で笙歌ののち熟睡していたが、兵が入る音で目を覚まし、北戸から後宮へ戻ろうとしたものの門は閉じていた。宦者黄泰平がその膝を斬り、倒れたところを張斉が斬首した。東昏侯は十九歳であった。
- 張稷は王亮ら尚書・公卿を西鐘下に並ばせて文書への署名を命じ、東昏侯の首は黄油で包んで范雲らに持たせ、石頭の蕭衍のもとへ送った。王志だけは「冠が古くなったからといって足で踏めるものではない」と言って署名を拒み、庭の葉を揉んで口に入れ、気絶したふりをした。蕭衍はこれを見て、その節義を嘉した。
- 范雲は旧知であったため、そのまま蕭衍の幕下に留められた。
- 王亮は東昏侯の朝廷で迎合して身を保っていたが、他の百官がひそかに蕭衍へ帰順の意を示す中で一人使者を出さなかった。東昏侯敗死後に蕭衍へ出ると、蕭衍は「倒れる者を支えられぬなら、宰相など何の役に立つ」と責め、王亮は「もし本当に支えられる相手なら、明公にこの日の挙があるはずもない」と答えた。
- 城中から出る公卿・士民が略奪されることもあったため、楊公則はみずから東掖門に陣して保護し、多くの人がそこを通って出た。
- 蕭衍は張弘策を先に入れて宮城を整理させ、府庫・図籍を封印し、潘妃や茹法珍・梅虫児・王喧之ら四十一人を逮捕して法吏に付した。張弘策は部下を厳しく戒め、宮中の珍宝に一切手を付けさせなかった。
宣徳太后令と蕭衍の政権掌握
- かつて海陵王が廃されたとき、王太后は鄱陽王旧邸に移され、宣徳宮と称していた。乙巳、蕭衍は宣徳太后の令を奉じる形で、涪陵王を東昏侯へ追廃し、禇后と太子誦をともに庶人とした。
- あわせて自らを中書監・大司馬・録尚書事・驃騎大将軍・揚州刺史とし、建安郡公に封じ、晋の武陵王遵が承制した旧例に準じて百官の敬礼を受けた。
- 王亮を長史とし、壬申には建安王宝寅を鄱陽王に改封した。癸酉、晋安王宝義を太尉・領司徒とした。
- 己卯、蕭衍は閲武堂に入り、大赦を下した。東昏侯時代の苛斂・淫刑・濫用の役を洗い直して廃止し、失われた官物については原則として寛大に扱うこと、また尚書諸曹の訴訟滞留や不当処理を精査して上奏させることを命じた。
- さらに義兵側の戦死者と、逆徒側の死者もともに収葬させた。
- 潘妃は絶世の美貌をもっていたため、蕭衍は生かしておく案を考えたが、王茂が「斉を滅ぼした原因がこの女だ。残せば世の非難を招く」と諫めたため、獄中で縊殺した。茹法珍ら寵臣もあわせて誅された。
- 宮女二千人は将士に分配された。
馬仙琕・袁昂の帰服と湘州平定
- 乙酉、蕭宏が中護軍となった。
- 豫州の馬仙琕は、蕭衍が東下してもなお兵を擁して従わなかった。蕭衍は旧知の姚仲賓を使って説得したが、仙琕はまず酒宴を設けて歓待したうえで、ただちにこれを斬って軍門にさらした。さらに一族の年長者が説いても、仙琕は「大義の前では親も断つ」としてなお斬ろうとしたが、周囲の請いで助けた。
- 新林到着後も仙琕は江西で運船を襲っていたが、宮城包囲が進むと州郡は続々と使者を送って降った。呉興太守袁昂だけは境を閉ざし、命を受けなかった。
- 蕭衍は駕部郎江革を使って袁昂に手紙を送り、すでに本幹は倒れたのだから枝葉にこだわっても忠とは言えず、家門を滅ぼすのは孝でもないとして帰順を勧めた。
- 袁昂は返書で、三呉は本来戦場ではなく、自分のような一郡太守が軍事に役立つわけでもないが、食んだ禄を一朝に忘れれば物議を招き、蕭衍からも軽蔑されるだろうと述べ、なお躊躇を示した。
- 武康令傅暎は、袁淑・袁顗の例を引きつつも、今の主君は昏虐で改める見込みがなく、荊雍が上流を押さえた以上、天命は明らかだとして、深く考えるよう袁昂に勧めた。
- 建康平定後、蕭衍は李元履に東方を巡撫させ、「袁昂の家は代々忠節で知られる。天下がともにこれを包容すべきであり、兵威で辱めるな」と命じた。元履が到着すると、袁昂は降伏を請うことはしなかったが、城門を開いて守備を解いただけであった。
- 馬仙琕は台城陥落を知ると号泣し、「自分は任を受けた以上、義として降れない。だがお前たちには父母がいる。私が忠臣となり、お前たちは孝子になればよい」と言って兵をすべて出して降らせ、自分は壮士数十人と閉門して抗した。
- やがて兵に囲まれると、仙琕は部下に満弓で備えさせ、誰も近寄れなかった。日暮れになって弓を投げ、「縛られるのは構わぬが、降ることだけはしない」と告げ、ついに檻車で石頭へ送られた。
- 蕭衍は彼を赦し、「袁昂が来たら共に入らせ、天下に二人の義士を見せよう」と言った。また「使者を殺し、運船を断ったことを気にするな。射鉤や斬袪のように、主を変えて用いられるのは古来称賛される」と慰めた。仙琕は、自分を「飼い主を失った犬が、後の主に餌をもらえばまた仕えるようなもの」とへりくだって述べ、蕭衍を笑わせた。
湘州:劉坦の鎮定
- 丙戌、蕭衍が殿中へ入って鎮座したころ、安成を平定した劉希祖は湘州へ檄を飛ばし、始興内史王僧粲が呼応した。僧粲は自称湘州刺史として長沙を襲い、百余里に迫った。
- 湘州の郡県兵は蜂起して多くがこれに従い、臨湘・湘陰・瀏陽・羅の四県だけが長沙側に残った。長沙の人々は舟で逃げようとしたが、劉坦は舟を集めて焼き、退路を断った。
- 劉坦は軍主尹法略を派遣して王僧粲を防がせたが、戦況は不利だった。
- その中で、旧湘州の鍾玄紹が数百人の士民と内応し、日を決めて城を裏切る計画を立てた。劉坦はこれを知りながら知らぬふりをし、訴訟処理を口実に夜まで城門を閉めずにいて相手を疑心暗鬼にさせた。翌朝、鍾玄紹が理由を尋ねに来ると、引き止めて話をしながら密かに家を捜索させ、文書一式を押収した。玄紹はその場で自白し、即座に斬られた。
- 劉坦は証拠文書を焼いて余党を不問にしたため、人々は恥じ入りつつ服従し、州郡は安定した。
- その後、法略は王僧粲と数か月にわたって対峙したが、建康平定の報が届き、楊公則が湘州へ戻ると、王僧粲らは離散して逃げた。王丹は郡人に殺され、劉希祖も郡を挙げて降った。
- 楊公則は自身を律し、廉潔・慎重で、刑を軽く税を薄くしたため、ほどなく湘州の戸口はほぼ旧に復した。