資治通鑑齊紀八 東昏侯 永元元年 元年 499年

春正月 改元と北魏への反攻開始

  • 春正月朔、恩赦が行われ、元号を永元と改めた。
  • 太尉の陳顕達は、平北将軍の崔慧景とともに四万の軍を率いて北魏を攻め、前年に奪われた雍州の諸郡奪回を図った。
  • 北魏では元英を差し向けてこれを防がせた。

北魏孝文帝の洛陽帰還と李沖追慕

  • 北魏の孝文帝は鄴から出発して洛陽へ戻った。
  • 途中、李沖の墓に立ち寄り、病身のままこれを望んで涙を流し、留守官と李沖のことを語るたびに涙した。李沖を深く惜しんでいたのである。
  • 孝文帝は洛陽の風俗がまだ旧来の北方風を残しているのを見て、婦人の服装にまで及んで改俗を急がせ、任城王澄らを戒めた。これは漢化政策を強く進める姿勢を示すものだった。

北魏の赦令と李彪の復帰未遂

  • 北魏では大赦が行われた。
  • かつて失脚していた李彪が鄴の南で孝文帝を迎えて謝罪したところ、帝は用いたい気持ちはあるが李沖を思って思いとどまったと述べ、慰めて帰した。
  • その後、過去の太子恂事件で李彪が上書を握りつぶしたと告発されたが、孝文帝はこれを信じず、拘束も緩やかにして洛陽へ送らせた。折よく赦令により免れた。

北魏後宮の醜聞と馮皇后廃黜の前史

  • 北魏では、孝文帝が遠征続きで宮中を離れている間に、馮皇后が宦官の高菩薩らと私通し、放縦な振る舞いを重ねていた。
  • 彭城公主は、馮皇后が自分の弟の馮夙との再婚を強いたことを嫌い、密かに病中の孝文帝へ訴え出て、皇后の不正もあわせて告げた。
  • 皇后はそれを知ると、帝の病が重いのを利用して、もし帝が崩じれば文明太后のように幼主を擁して政権を握れるよう祈祷までさせた。
  • 洛陽帰還後、孝文帝は高菩薩・双蒙らを取り調べて自白を得ると、皇后を呼び入れ、彭城王勰・北海王詳の前でその罪を明らかにした。
  • 帝は、文明太后の一族の出であるため公然とは廃せないが、もはや情は尽きたとして宮中に押し込め、太子にも母として礼を尽くさせないようにした。

馮氏一門の盛衰

  • 馮氏は、文明太后以来の外戚として大いに栄え、馮熈の娘たちは皇后・昭儀となり、一族は巨万の富と高位を得ていた。
  • しかし、馮脩の振る舞いの悪さ、兄の馮誕との確執、毒殺未遂の発覚などを経て、一門は次第に失勢していった。
  • 幽皇后の廃立を経て、馮氏の勢いは大きく衰えた。盛者必衰の実例として語られている。

陳顕達の進撃と馬圈攻略

  • 陳顕達は北魏の元英と戦ってたびたびこれを破り、馬圈城を四十日にわたって包囲した。
  • 城内では食糧が尽き、人肉や樹皮まで食べるほど困窮した末、北魏軍は包囲を破って脱出したが、多数が討たれた。
  • ただし、斉軍の将兵は城中の絹の略奪に走り、逃げる敵を徹底追撃しなかった。
  • さらに陳顕達は軍主の荘丘黒に命じて南郷を攻め落とさせた。

三月 孝文帝再出兵と彭城王勰への信任

  • 北魏の孝文帝は、陳顕達の侵攻に対処するため、自ら洛陽を発して南下した。
  • その間、于烈に留守を命じ、宋弁に軍政を兼掌させた。
  • 孝文帝の病が重くなって以後、彭城王勰は日夜そばを離れず、医薬や食事をみずから確かめ、帝の怒りが近侍に及びそうになると機を見て諫めた。
  • 孝文帝は勰に中外諸軍事の総督を命じたが、勰は病床を離れられないとして辞退した。それでも帝は、社稷を保てるのはお前しかいないと強く信任を示した。

馬圈周辺の激戦と斉軍大敗

  • 北魏の孝文帝は馬圈に至り、広陽王嘉に均口を遮断させて斉軍の退路を断たせた。
  • 陳顕達は均水を渡って鷹子山に拠ったが、兵の士気は低く、北魏軍との戦いに敗れた。
  • 北魏の元嵩が自ら先頭で突撃すると、斉軍は総崩れとなった。
  • 陳顕達は烏布の幕にくるまれて担ぎ出され、分磧山の間道から均水口を抜けて辛くも逃走した。北魏軍は軍資を大量に鹵獲し、張千ら多くの斉兵を討った。死者は三万余に及んだ。

馮道根の進言

  • 陳顕達の北伐に従軍していた広平の馮道根は、汋均口の急流では進みやすく退きにくいので、船を鄼城に捨てて陸路を進むべきだと進言した。
  • しかし陳顕達はこれを用いなかった。
  • 敗走の際には、道根が険所ごとに馬を止めて道を示したため、多くの兵が助かった。朝廷はその功により、道根を汋均口戍副に任じた。

陳顕達失墜と江州転出

  • この敗戦で陳顕達の威名は大きく損なわれた。
  • 御史中丞の奏請で罷免論も出たが、結局は許されず、江州刺史に転じた。
  • 崔慧景も順陽攻めを捨てて撤退した。

北魏孝文帝の臨終と遺詔

  • 孝文帝は北還の途中、穀塘原で病が深まり、彭城王勰に対して、死後は馮皇后に自尽を命じ、外戚の恥を断ちたいと語った。
  • また、天下はなお安定せず、太子は幼いので、社稷の安危は勰にかかっているとして、霍光や諸葛亮になぞらえて後事を託した。
  • これに対し勰は、近親でありながら長く機密を預かってきた自分がさらに宰相となれば、かえって権勢が主君を圧して禍を招くと固く辞退した。
  • 孝文帝はその理を認め、太子への手詔により、勰には栄職を強いず、その志に従わせよと命じた。あわせて北海王詳・王粛・広陽王嘉・宋弁・咸陽王禧・任城王澄らによる輔政体制を整えた。

夏四月 北魏孝文帝崩御

  • 四月丙午朔、北魏の孝文帝が穀塘原で崩じた。のちに高祖と廟号される。
  • 高祖は兄弟を愛し、政務に精勤で、法は厳格ながら小過には寛大であり、祭祀を重んじ、巡幸や軍事でも民を煩わせぬよう努めた。
  • 宮室や服飾も質素を好み、武芸にも優れていたが、十五歳以後は狩猟をやめ、また史官には君主の悪も隠さず書くべきだと説いた。

孝文帝の死の秘匿と宣武帝即位

  • 彭城王勰と任城王澄は、陳顕達がまだ遠く去っていないことを恐れ、高祖の崩御を秘して平常どおりの処理を続けた。
  • 勰は神色を変えず、奏事・食事・薬の進献をいつもどおりに見せかけて軍中の動揺を防いだ。
  • 宛城で棺に納めたのち、密かに太子を召し寄せた。
  • 太子は魯陽で梓宮に会して初めて発喪し、丁巳に即位した。これが北魏の世宗宣武帝である。

馮皇后の死

  • 咸陽王禧らは高祖の遺詔にもとづき、馮皇后に薬を与えて死を命じた。
  • 皇后は抵抗し、諸王たちが自分を殺そうとしているのだと叫んだが、強制されて薬を飲み、死去した。
  • 洛陽へ喪が戻った時、禧らは、たとえ遺詔がなくともあのような皇后に天下を握らせるわけにはいかなかったと語り合った。
  • その諡は幽皇后とされた。

五月から六月 北魏の新体制と高氏外戚の擡頭

  • 五月、始安王蕭遥光に開府儀同三司が加えられた。
  • 北魏では孝文帝を長陵に葬った。
  • 宣武帝は彭城王勰を宰相に据えようとしたが、勰は遺命を盾に繰り返し辞退し、ついに定州刺史として外任に出た。
  • 任城王澄は、亡命者の王粛が自分より上位にあることを不満とし、王粛の南逃亡疑惑を利用して弾劾したが、証拠はなく、かえって澄が専横を咎められて免官された。ほどなく雍州刺史に出された。
  • 六月、宣武帝は生母の高氏を文昭皇后と追尊し、その父兄の一族を一斉に封爵した。諸舅はもともと貧しく無名であったが、たちまち富貴を得た。後の高肇専権の伏線となる。

秋八月 東昏侯の親政と側近政治

  • 北魏では孝文帝の遺詔に従い、三夫人以下の后妃はみな帰家させられた。
  • 斉の東昏侯は東宮時代から学問を好まず、遊興ばかりで、即位後も朝士と交わらず、宦官や御刀・応敕ら側近だけを親任した。
  • 当時の朝政は、始安王蕭遥光、徐孝嗣、江祏、蕭坦之、江祀、劉暄ら六人が内省で日替わりに詔勅を処理していた。
  • 雍州刺史の蕭衍は、この「一国に六貴」が必ず互いに争って乱を招くと見抜き、録事参軍の張弘策とひそかに兵備を整え始めた。
  • 材木・竹を檀溪に沈め、茅を山のように積み、また驍勇の士を集めたが、表向きは用途を示さなかった。呂僧珍も密かに櫓を備え、蕭衍の意図を察して加わった。

蕭衍、兄の蕭懿に危機を説く

  • 蕭衍は、兄の蕭懿にも書を通じて、六貴は必ず互いに滅ぼし合い、主上もまた彼らに政権を委ねる器ではないと説いた。
  • 郢州と雍州を握る兄弟が一致すれば、乱世には天下を救う大業も可能だと訴え、今のうちに在京の弟たちを呼び寄せるよう勧めた。
  • 張弘策もまた、郢・雍二州を拠点として「昏君を廃して明主を立てる」ことはたやすいと説いたが、蕭懿は応じなかった。
  • そこで蕭衍は弟の蕭偉・蕭憺を襄陽へ呼び寄せた。

江祏の廃立計画と謝朓の獄死

  • 明帝の遺命で腹心とされたのは江祏・江祀兄弟であり、彼らは殿内に出入りして権勢を振るった。
  • 東昏侯が次第に我意を通そうとする中、徐孝嗣はこれを抑えきれず、蕭坦之も時に異を唱えたが、江祏が強硬に主導した。
  • 江祏は東昏侯を廃して江夏王宝玄を立てようとしたが、劉暄が宝玄を嫌って反対したため、今度は建安王宝寅を立てようとした。さらに始安王蕭遥光自身も帝位を狙って江祏を誘った。
  • 蕭坦之は、明帝の即位自体がすでに非正統であり、さらに廃立を重ねれば天下が瓦解するとして同意せず、喪中を理由に身を引いた。
  • 江祏・江祀は謝朓にも相談し、遥光擁立を「国家安定のため」と説明したが、謝朓は危険を悟って左興盛や劉暄に告げた。
  • しかし劉暄はこれを逆に遥光・江祏へ通報し、謝朓は捕えられて廷尉に下され、ついに獄死した。

劉暄の告発と江祏兄弟誅殺

  • 劉暄は、蕭遥光が即位すれば自分の外戚としての地位が失われることを恐れ、江祏の計画に同調しなかった。
  • やがて遥光は黄曇慶に命じて劉暄を刺させようとしたが失敗し、劉暄はついに江祏らの謀反計画を東昏侯に告発した。
  • 帝は江祏兄弟を収捕した。かつて王敬則を討った功で封を与えられなかったことを恨んでいた袁文曠が江祏を捕え、刀の柄で胸を打ちながら嘲って殺した。
  • 江祀もともに誅された。

東昏侯の放縦

  • 江祏らの死後、東昏侯は朝廷内に抑える者を失い、ますます放縦になった。
  • 後堂で昼夜なく鼓を打ち、騎馬遊戯を行い、朝臣との接触を避け、奏事は何十日も放置された。公文書が魚や肉を包む紙にされるほど政務は乱れた。
  • 江祥もまた兄弟の縁で殺された。

始安王蕭遥光の反乱

  • 始安王蕭遥光はもともと異志を抱いており、弟の蕭遥欣と結んで挙兵を計画していたが、遥欣が病死し、また江祏が誅されると、自らも禍を恐れた。
  • 東昏侯が遥光を司徒に移して邸第に帰そうとしたのを、遥光は殺害の前触れと受け取り、乙卯の夕方、東府に豫州・荆州由来の部曲を集めて挙兵した。
  • 東冶を破って囚人を出し、尚方の武器を奪い、劉暄討伐を名目に兵を起こした。垣歴生は、夜のうちに荻を積んで台城門を焼き、遥光が輿で続けばたやすく攻略できると説いたが、遥光は決断できなかった。

台城側の対応と遥光滅亡

  • 蕭坦之は遥光方に拉致されかけたが、裸のまま塀を越えて逃げ出し、巡邏中の顔端の助けで台城へ入った。
  • 翌日、戒厳令が出され、徐孝嗣・沈文季・蕭坦之・左興盛・曹虎らが宮城防衛と反乱鎮圧を担当した。
  • 台軍は東府を三方から囲み、司徒府に火を放った。垣歴生が出撃して一時は台軍を破ったが、蕭暢と沈昭略が南門から脱出して降ると、東府の士気は大きく下がった。
  • 垣歴生もやがて曹虎に降ったが斬られ、東府は火箭で角楼を焼かれて夜のうちに崩れた。
  • 遥光は小斎に逃げ込んで最後まで抵抗しようとしたが、配下は散り、暗がりの中で引き出されて斬られた。
  • 劉渢も逃げ帰る途中で殺され、荆州で呼応を図った潘紹も夏侯詳に斬られたため、乱は完全に終息した。

反乱後の論功と魏の沈陵来降

  • 乱平定後、徐孝嗣は司空、沈文季は鎮軍将軍、蕭坦之は尚書右僕射・丹楊尹、劉暄は領軍将軍、曹虎は散騎常侍・右衛将軍となった。いずれも平定の功による。
  • 北魏では南徐州刺史の沈陵が来降した。徐州刺史の京兆王元愉は若年で、実務は長史の盧淵が握っていた。
  • 盧淵は沈陵の離反を見抜いて諸城に備えを命じていたため、宿豫以外の多くの城戍は守り切れた。
  • 沈陵が豪傑たちを巻き込もうとしても、盧淵は彼らを赦して沈陵だけに罪を帰したため、辺境の動揺は広がらなかった。

閏月 蕭坦之らへの粛清

  • 閏月、江陵公宝覧が始安王に立てられ、靖王の後を継いだ。沈陵は北徐州刺史に任じられた。
  • しかし東昏侯の側近である捉刀・応敕らはますます横暴となり、蕭坦之は剛直で専権し、幸臣たちに憎まれていた。
  • 遥光の乱からまだ日が浅いうちに、帝は黄文済に兵を授けて蕭坦之邸を囲ませ、坦之とその子を殺した。
  • 坦之の従兄の蕭翼宗も海陵太守への赴任前に収捕されたが、家を調べるときわめて貧しく、質入れの控え札があるだけだったので、死一等を減じて尚方に繋がれた。
  • 茹法珍らは劉暄にも異志ありと讒言し、東昏侯は一度は信じなかったが、徐世標が「明帝ほどの近親でも武帝の子孫を滅ぼしたのだから、外戚の舅など信用できない」と煽ると、ついに劉暄を殺した。
  • 曹虎も、人を誘って多くの客を養い、かつ財産が巨万であったことから、旧将であることを帝に疑われ、財を狙われて殺された。
  • 坦之・劉暄・曹虎はいずれも新任の官を正式に拝命する前に死んだ。
  • 明帝が臨終に際して「人に先んじて手を打て」と東昏侯に戒めたこともあり、帝はしばしば近習と密謀して大臣を急襲したため、群臣は誰も自分の身を保てなくなった。

九月 地方の動揺

  • 裴叔業が南兗州刺史に、張冲が豫州刺史に転じた。
  • 度重なる大臣誅殺を受けて、大赦が行われた。
  • 北魏の宣武帝は長陵に詣でた際、側近の呉人茹皓を同乗させようとしたが、黄門侍郎の元匡が礼を乱すとして諫め、帝はこれを退けた。
  • 益州刺史の劉季連は、東昏侯の失徳を聞いてますます驕慢となり、酷刑を行ったため蜀人の怨みを買った。
  • 中水攻撃に失敗すると、趙続伯らが各地で反乱を起こし、益州は大いに乱れた。

徐孝嗣・沈文季らの最期

  • 徐孝嗣は文人肌で明確な対立を避けていたため高位を保っていたが、許準からたびたび廃立を勧められた。
  • 孝嗣は、帝が遊びに出た時に城門を閉ざして百官会議で廃する構想を持っていたものの、結局決断できなかった。
  • 沈文季も老病を理由に朝政から距離を置いていたが、甥の沈昭略は「官位にある以上、逃れられない」と見ていた。
  • 冬十月乙未、東昏侯は徐孝嗣・沈文季・沈昭略を華林省に召し出し、茹法珍を使って薬酒を賜って殺した。
  • 沈昭略は、昏君を廃して明主を立てるのは古今の常道なのに、宰相に才がないために今日の事態になったのだと徐孝嗣を激しく責め、酒器を投げつけた。
  • 徐孝嗣の子らや、沈昭略の一族も次々と誅された。沈曇亮はひとたび逃れたが、一門が滅んだのを嘆いて自害した。

十一月 陳顕達の挙兵

  • 陳顕達は高帝・武帝以来の宿将であり、明帝の代には警戒されて深く身を慎んでいた。
  • しかし江州刺史となってからは不満を抱き、また東昏侯が大臣を次々と誅するのを見て、自分にも兵が向けられるとの風聞を聞き、ついに挙兵を決意した。
  • 十一月丙辰、尋陽で反旗を翻し、長史の庾弘遠らに命じて在京の貴族たちへ檄文を送り、東昏侯の罪悪を数え上げたうえで、建安王宝寅を奉じる意図を示した。
  • 朝廷は崔慧景を平南将軍として討伐軍の総帥とし、胡松・李叔献に水軍を率いさせて梁山を押さえ、左興盛に前鋒を 맡せて杜姥宅に屯させた。

十二月 陳顕達、建康に迫る

  • 前年に降った楊集始が秦州刺史に任じられた。
  • 陳顕達は尋陽を発して采石で胡松を破り、都の建康を震え上がらせた。
  • 朝廷は新林に出陣し、左興盛らが防いだが、陳顕達は岸辺に多くの火を置いて陽動し、夜のうちに軍を渡して宮城襲撃を図った。
  • 乙酉、陳顕達は数千人を率いて落星岡に登り、新亭方面の官軍は驚いて宮城へ退却したため、都城は大混乱となった。
  • 顕達は西州前で徒歩兵数百とともに台軍と戦い、二度の交戦で大勝し、自ら数人を手にかけたが、矛が折れ、増援の台軍に抗しきれず後退した。
  • 西州後まで退いたところで騎官の趙潭注に刺されて落馬し、斬られた。諸子も皆誅された。
  • 長史の庾弘遠は刑場で帽子を求めてかぶり、「子路は冠のひもを結んで死んだ。自分も冠を正して死ぬべきだ」と言い、陳顕達が軽率に事を起こさなければ天下は塗炭を免れたはずだと嘆いた。子の庾子曜も父に抱きついて代わりに死を願い、ともに殺された。

東昏侯の暴虐の極み

  • 陳顕達平定後、東昏侯はさらに驕慢となり、外出も増えたが、民に姿を見られるのを嫌って、先触れを出して沿道の人家を空にさせた。
  • 六部尉が太鼓を打って道を塞ぎ、その音を聞いた者は衣や履を整える暇もなく逃げねばならず、違反者はその場で殺された。
  • 月に二十回以上も無定見に出歩き、夜中に鼓声と松明が町を走り回るため、老若男女は震えおののき、商売も冠婚葬祭も妨げられ、病人や死者の処置すらできなかった。
  • 路地には幕を張り巡らせて高い障壁とし、武装兵が守った。これは「屏除」または「長囲」と呼ばれた。
  • 沈公城では、産気づいて立ち退かなかった婦人の腹を割いて胎児の男女を見た。
  • また定林寺では、病老の僧が立ち退けず革の間に隠れていたところ、左右に命じて百箭を浴びせて殺させた。
  • 自らの腕力を誇って大弓を引き、白虎幢を歯の上で担いで歯が折れてもやめず、金玉で飾った器具や衣装を作らせて見世物じみた芸を行った。
  • 東冶営の兵俞霊韻に学んで馬術を好み、豪華な装束で雨雪や険地もいとわず走り回り、腰の瓢で水を飲んではまた駆け出した。
  • さらに無頼漢のうち足の速い者五百人を「逐馬左右」として常に従え、市中・城邑・郊外を休みなく巡らせ、雉狩りのためだけに二百九十六か所もの射場を設けた。狂躁ぶりは宋の鬱林王にも劣らぬものであった。

北魏の官制整備

  • 北魏では王粛が江南にならった官品制度を定め、九品をそれぞれ正・従に分けた。
  • 侍中の郭祚が吏部尚書を兼ね、人事にはきわめて慎重で、適任者と認めてもなかなか任命の筆を下さず、「これでこの人も貴くなった」と言った。
  • そのため人々には怨まれたが、実際に起用された者に不適任は少なかった。