資治通鑑齊紀七 東昏侯 永泰 元年 498年

春正月 改元と新野陥落

  • この年四月に改元が行われるが、年頭はまだ永泰元年として進む。
  • 正月癸未朔、斉では大赦があり、中軍大将軍徐孝嗣に開府儀同三司が加えられたが、本人は固辞した。
  • 北魏の統軍李佐が新野を攻め、丁亥に陥落させた。
  • 劉思忌は捕えられても降伏を拒み、「南朝の鬼となることはあっても北朝の臣にはならない」と言い、殺された。
  • このため沔北一帯は大きく動揺した。
  • 戊子には湖陽戍主蔡道福、辛卯には赭陽戍主成公期、壬辰には舞陰戍主黄瑶起と南郷太守席謙が相次いで南へ逃れた。
  • 黄瑶起は北魏に捕えられ、王肅に引き渡された。王肅は父王奐を黄瑶起に殺された遺恨から、その肉を細かく裂いて食べた。

明帝の病と宗室誅殺

  • 乙巳、斉では太尉陳顕達に雍州救援が命じられた。
  • 明帝は重病に陥ると、近親が少なく弱いことを憂え、高帝・武帝の子孫たちを深く警戒した。当時なお十王が存命で、朔望ごとに朝参していた。
  • 明帝はしばしば後宮に帰るたび、「自分や司徒の子らは長生きしないのに、高帝・武帝の子孫は日増しに成長する」と嘆き、その一族を尽く除きたいと考えるようになった。
  • 蕭遥光は、順次実行すべきだと進言した。彼は足病があり、明帝はしばしば車に乗せて望賢門から入らせ、密談の後には香を焚かせて涙ぐみ、翌日には決まって誅殺が行われた。
  • ある時、明帝の病が重くなり、一度は絶えてから蘇るほどであった。これを機に蕭遥光は計画を断行した。
  • 丁未、河東王蕭鉉、臨賀王蕭子岳、西陽王蕭子文、永陽王蕭子峻、南康王蕭子琳、衡陽王蕭子珉、湘東王蕭子建、南郡王蕭子夏、桂陽王蕭昭粲、巴陵王蕭昭秀が殺された。
  • これにより、高帝・世祖武帝・世宗文帝の子らはほぼ絶えた。
  • しかも先に殺しておいてから、公卿に罪状を上奏させ、詔でいったん拒み、再奏ののちに許可するという体裁がとられた。
  • 南康王の侍読であった江泌は、蕭子琳のために涙が枯れるまで泣き、ついには血を流すほどで、葬送を見届けてから去った。

二月 房伯玉の降伏と魏軍進展

  • 庚戌、北魏の孝文帝は南陽に赴いた。
  • 二月癸丑、斉では蕭惠休らを寿陽救援に向かわせる詔が出たが、胡三省はこの「寿陽」は文脈上誤記の疑いがあると見る。
  • 甲子、北魏が宛北城を抜き、房伯玉は顔を縛って出降した。
  • 房伯玉の従父弟房思安は北魏の中統軍であり、何度も涙ながらに助命を願ったため、孝文帝は房伯玉を赦した。
  • 庚午、孝文帝は新野へ行き、辛巳には彭城王元勰を使持節・都督南征諸軍事・中軍大将軍・開府儀同三司とした。

三月 鄧城敗戦と樊城包囲

  • 三月壬午朔、崔慧景・蕭衍らの軍は鄧城で北魏に大敗した。
  • この時までに襄陽周辺の五郡はすでに陥落していた。崔慧景らは五千余で鄧城へ進んだが、数万騎の魏軍が突如現れた。
  • 兵は飢えと恐れの色を見せ、蕭衍は出戦を望んだが、崔慧景は日暮れになれば敵は去ると見て動かなかった。
  • ところが魏軍は増え続け、崔慧景は南門から退却した。各軍は連携を欠き、次々と逃走した。
  • 魏兵は北門から城に入り、劉山陽は数百で殿軍となって奮戦しつつ退いた。
  • 閙溝では軍士が互いに踏みつけ合い、橋が壊れ、魏兵の射撃を受けて傅法憲らが戦死し、溝に落ちた兵で死体が積み重なった。
  • 劉山陽は着物や武器を溝に投げ入れて渡り、ようやく脱出した。
  • 孝文帝は大軍で追撃し、夕刻には沔水に至った。劉山陽は城に拠って苦戦し、夜になってようやく魏軍は退いた。
  • しかしその夜のうちに斉軍は皆船に乗って襄陽へ退いた。
  • 庚寅、孝文帝は十万を率いて樊城を包囲した。曹虎は閉門自守した。
  • 孝文帝は沔水に臨んで襄陽方面を望み、その後湖陽へ向かった。

義陽・渦陽方面の攻防

  • 辛亥、孝文帝は懸瓠に至った。
  • 鎮南将軍王肅が義陽を攻めたため、裴叔業は五万を率いて渦陽を包囲し、義陽救援を図った。
  • 南兖州刺史の孟表は渦陽を守り、食糧が尽きると草木の皮や葉まで食べて耐えた。
  • 裴叔業は、殺した魏兵の死体を高さ五丈に積み上げて城中に見せつけた。
  • さらに別軍に龍亢を攻めさせたが、広陵王元羽が救援に来ると、裴叔業はこれを大破して節まで奪った。
  • 孝文帝は傅永・劉藻・高聡を派遣して渦陽救援に向かわせ、いずれも王肅の節度下に置いた。
  • しかし裴叔業はこれを再び大破し、二度の戦で首級一万、捕虜三千余、器械や家畜・財貨は莫大な数を獲た。
  • 孝文帝は三将を鎖で懸瓠へ送らせ、劉藻・高聡は死を免れて平州へ流され、傅永は官爵を奪われ、王肅も平南将軍へ左遷された。
  • 王肅が再度の救援軍派遣を請うと、孝文帝は「義陽を守るか捨てるかはよく計れ。もし渦陽を失えば卿の責任だ」と厳しく返答した。
  • 王肅はやむなく義陽の包囲を解き、楊大眼・奚康生ら歩騎十余万を率いて渦陽救援に向かった。
  • 裴叔業は敵勢の大きさを見て夜のうちに撤退したが、翌日には軍が大崩れとなり、魏軍の追撃で甚大な損害を出した。
  • 裴叔業は渦口に退いて防いだ。

李彪と李冲の対立、そして李冲の死

  • 北魏の中尉李彪は家柄こそ寒微だったが、学識と剛直さで頭角を現し、李冲の推挙によって孝文帝に重用された。
  • しかし中尉となってからは貴戚もはばからず弾劾し、自らは君主の知遇を頼みにして李冲への敬意を次第に失ったため、李冲はこれを怨むようになった。
  • 南征中、留守政務を李彪・李冲・任城王元澄が共同で見ていたが、李彪は性格が強く、議論の食い違いが表立ち、しばしば李冲と激しく争った。
  • 李彪は法官の立場を頼んで専恣にふるまい、李冲はついに以前からの過失を集め、尚書省に禁錮して弾劾した。
  • その内容は、禁中で輿に乗る、官物を私用する、乗黄を勝手に駕するなど、多岐にわたった。
  • さらに李冲は、李彪は言葉だけは古今の忠賢のようだが、実際には天下の佞暴の者だとして、もし自分の告発が事実なら北辺の荒地へ遠流にすべきだとまで述べた。
  • 孝文帝はこの上表を見て、「李彪の驕りは確かだが、僕射の李冲のほうもまた度を過ぎている」と嘆いた。
  • 宋弁らが李彪を擁護したこともあり、最終的に李彪は大辟を免れ、除名にとどまった。
  • 一方、李冲は李彪を取り調べる際に激しく怒鳴り、目をいからせ、机案を叩き折るほどであったという。
  • その後、李冲は病を発し、錯乱して李彪を罵り続け、医薬の効もなく十余日で死んだ。
  • 孝文帝は深く悲しみ、司空を追贈した。
  • 李冲は勤勉で要職を長く担い、職務処理に優れていたが、一門縁者を多く引き立て、私恩で官爵を与えることも多かったため、その点では世人に批判された。

北魏の宗室統制と四月改元

  • 孝文帝は彭城王元勰を宗師とし、宗室のうち教えに従わない者を監督させた。
  • 夏四月甲寅、斉では改元して永元…ではなく、この巻本文では「永泰」元年中の改元記事として扱われているが、ここでは本文に従い改元記事を置く。

王敬則の反乱

  • 大司馬・会稽太守王敬則は、高帝・武帝以来の旧将であり、明帝に疑われていることを自覚していた。
  • 明帝は表向き厚遇したが、内心では常に警戒し、その飲食や体力、兵を率いる適性までたびたび探らせていた。
  • 近年、蕭坦之が武進の皇陵を巡検した際、王敬則の子らは朝廷が父を討とうとしているのではと恐れた。明帝はそれを知って世子王仲雄を東宮に入れて慰撫した。
  • 王仲雄は琴が上手く、帝の前で「懊儂歌」を奏したが、その歌詞が君臣離反を暗示するように受け取られ、かえって明帝の猜疑を強めた。
  • 明帝の病が重くなると、張瓌を平東将軍・呉郡太守として兵を付け、ひそかに王敬則に備えさせた。
  • 王敬則は異変を聞き、「朝廷は結局わたしを平らげたいだけだ。だが自分も容易には屈しない。金甖の毒酒など飲まぬ」と言った。
  • 王敬則の子王幼隆は、舅の謝朓に密使を送り共謀を探ったが、謝朓は使者徐岳を捕えて急報した。
  • 一方、京口に家を持つ配下の子が反逆計画を知らせたため、王敬則は決断を迫られた。王公林は自首して子を死なせ、自らは単舟で都へ帰るよう勧めたが、王敬則は一夜様子を見ることにした。
  • その夜、配下と樗蒲をしながら意向を探ると、防閤丁興懐が「やるほかない」と言ったが、王敬則は即答しなかった。
  • 翌朝、山陰令王詢と台伝御史鍾離祖願を呼び、徴兵可能人数と官庫の金物を問うたが、どちらもすぐには応じられなかったため、怒って斬ろうとした。
  • 王公林が再度「この事だけは悔いても戻れない」と諫めたが、王敬則は唾を吐いて退けた。
  • こうして王敬則は兵を集め、武装を配り、二、三日で挙兵した。
  • 何𦙍を尚書令に据えようとして拉致も考えたが、名望ある賢者を最初に殺せば大事は成らぬと諫められ、やめた。

王敬則一族への処分と諸王誅殺未遂

  • 庚午、北魏はまた州郡兵二十万を徴発し、八月中旬に懸瓠へ集結させるよう命じた。
  • 斉では王敬則の反乱を受け、都にいた王幼隆、その兄王世雄、子の王季哲・王少安らを皆殺しにした。
  • 徐州で対魏戦中だった長子王元遷も、徐州刺史徐玄慶に命じて殺させた。
  • 前呉郡太守の南康侯蕭子恪は、王敬則が「これを奉じる」と称していたため、逃亡して行方不明となった。
  • 始安王蕭遥光は、これを機に高帝・武帝の子孫を皆殺しにすることを勧めた。
  • 諸王侯をすべて宮中に召し、晋安王蕭宝義・江陵公蕭宝覧らを中書省に、高帝・武帝の孫たちを西省に置き、付き従いも厳しく制限した。
  • その夜、太医には椒二斛を煮させ、都水には数十具の棺材を用意させ、三更に一斉に殺す計画であった。
  • ところが蕭子恪が裸足で自首し、二更に建陽門へ着いて名刺を差し出した。
  • その時にはすでに実行寸前だったが、明帝は眠っていて起きなかった。中書舎人沈徽孚と側近の単景雋が時間を少し引き延ばし、ようやく帝が目覚めた。
  • 事情を聞いた明帝は、「遥光に危うく人を誤って殺させられるところだった」と言い、諸王侯に食事を与え、翌日みな邸宅へ帰らせた。
  • 蕭子恪は太子中庶子に任じられた。

王敬則の進軍と敗死

  • 王敬則は精兵一万を率いて浙江を渡った。
  • 呉郡太守張瓌は三千で松江に防いだが、王敬則軍の鼓声を聞いただけで兵は散り、張瓌は郡を捨てて民間に逃げた。
  • 王敬則は旧将としての名望があり、百姓も担ぎ棒や鍬を持って従い、十余万にふくれあがった。
  • 晋陵の南沙では、范脩化が県令公上延孫を殺してこれに応じた。
  • 王敬則は武進陵口を通るとき、高帝の恩を思って慟哭しながら通過した。
  • しかし烏程出身の丘仲孚が曲阿令として船を収め、長岡の堤を壊して水路を開き、進路を阻んだため、王敬則軍は足止めを食った。
  • 五月、朝廷は左興盛・崔恭祖・劉山陽・胡松らに曲阿長岡に砦を築かせ、沈文季には湖頭に屯して京口方面を備えさせた。
  • 王敬則は急攻したが、胡松の騎兵突撃で白兵中心の民兵が動揺し、軍は総崩れになった。
  • 王敬則は馬に乗ろうとして果たせず、崔恭祖に刺されて倒れ、左興盛配下の袁文曠に首を斬られた。
  • 乙酉、その首は建康に送られた。
  • この時、明帝の病はすでに重く、宮中は大いに震えた。太子蕭宝巻は征虜亭の失火を見て、王敬則が迫ったと思い込み、急いで逃走の支度をさせた。
  • 王敬則はこれを聞いて、「檀公の三十六策では逃げるのが上策と言うが、お前たち父子に残るのも逃げることだけだ」と嘲った。
  • 反乱は声勢こそ盛んだったが、半月も経ずして終わった。
  • その後、晋陵で王敬則に与した民は多数いたが、太守王瞻が「愚民は扇動されやすく、法を極端に適用すべきでない」と奏したため、明帝はこれを許し、助かった者は数万にのぼった。
  • 謝朓はこの密告の功で尚書吏部郎に進んだが、なお固辞した。沈約は「小官でも辞退しないのが近世の悪習であり、謝朓は特別の思いがあって譲っている」と述べた。謝朓の妻は父王敬則の件を恨み、常に刃を懐にして謝朓を殺そうとし、謝朓も面会を避けた。

七月 北魏の節約令と蕭衍の雍州赴任

  • 七月、彭城王元勰は、自らの国秩・職俸・親族扶助分を軍費に充てることを申し出た。
  • 孝文帝は、その心を賞しつつも、職俸は停止、親族扶助分は三分の一だけ受領を許した。
  • 壬午には皇后私府の半分、六宮嬪御や五服内男女への支給も半減し、軍中の支出も三分の一を削って軍賞に回すよう命じた。
  • 癸卯、蕭衍が太子中庶子から雍州刺史に転じた。後の起兵の基盤となる人事である。
  • 己酉、明帝は正福殿で崩じた。四十七歳であった。

明帝の遺詔とその性格

  • 遺詔では、徐孝嗣への前命を重ね、沈文季を左僕射、江祏を右僕射、江祀を侍中、劉暄を衛尉とし、軍政は陳顕達に委ねることが示された。
  • 内外の大事小事は徐孝嗣・蕭遥光・蕭坦之・江袥に任せ、大事には沈文季・江祀・劉暄も参与させるよう命じた。心腹の任には劉悛・蕭惠休・崔慧景を挙げた。
  • 明帝は猜疑心が強く、外出もきわめて慎重で、ついに即位後一度も郊天を行わなかった。
  • 巫覡を深く信じ、方角の吉凶を占わせてからでなければ動かなかった。
  • 病が重くなっても長く隠して政務を取り続けたが、ついに尚書省の文書の中から白魚を探して薬にするよう命じたため、外に病状が知れ渡った。
  • 太子蕭宝巻が即位した。

八月から九月 北魏の動きと明帝葬送

  • 八月辛亥、北魏の太子は洛陽から懸瓠へ行幸中の孝文帝に朝した。
  • 壬子、斉の奉朝請鄧学が齊興郡を挙げて北魏に降った。
  • 孝文帝は高車兵を徴発したが、高車は遠征を嫌って袁紇樹者を主に推し立てて北方で叛いた。
  • 宇文福の討伐は大敗に終わり、更に江陽王元継が北討諸軍事都督に任じられ、懐朔以東を節度しつつ平城鎮を兼ねて討伐に当たった。
  • 八月、明帝は興安陵に葬られ、廟号を高宗とされた。
  • 新帝東昏侯は父の霊が太極殿にあるのを嫌い、早く葬りたがったが、徐孝嗣が強く争ったため、かろうじて一月余りの礼を保った。
  • 東昏侯は哭礼のたびに「喉が痛い」と言い訳し、羊闡が入臨して髪のない頭で号泣し、頭巾が落ちると、哭くのをやめて「禿鶖が鳴いているのか」と大笑いした。
  • 九月己亥、孝文帝は明帝の死を聞き、「礼として喪を討ってはならぬ」と詔し、兵を退いた。
  • 庚子には高車討伐を命じた。

孝文帝の病と徐謇、彭城王元勰の献身

  • 北魏の孝文帝は重病となり、十日余りも侍臣に会わず、そばにいるのは彭城王元勰ら数人だけであった。
  • 元勰は内では医薬を世話し、外では軍国の政務を統括し、遠近ともに異議を唱える者はいなかった。
  • 右軍将軍の徐謇は名医として知られ、急遽洛陽から召された。
  • 元勰は涙ながらにその手を執り、「病を治せば思いがけない褒賞があるが、そうでなければ不測の誅に遭う。栄辱どころか生死がかかっている」と告げた。
  • 元勰はさらに密かに汝水のほとりに壇を築き、周公の故事にならって、天地と顕祖に祈り、自らの身をもって帝の病に代わりたいと願った。
  • やがて孝文帝の病は少し軽快し、丙午、懸瓠を発して汝水のほとりに駐し、百官を集めて徐謇を上席に座らせ、その功を公に賞した。
  • 徐謇は鴻臚卿に任じられ、金郷県伯に封じられ、銭一万緡を賜った。諸王からの贈り物も非常に多かった。

十一月から十二月 高車平定と林邑

  • 十一月辛巳、孝文帝は鄴に至った。
  • 戊子、妃の褚氏を皇后に立てた。
  • 江陽王元継は、高車の叛乱は役を避けたいだけの者が多く、皆を討ち尽くせばかえって乱を大きくするとして、各鎮に使者を遣わし、首魁だけを斬って残りは慰撫し、従軍を願う者には軍に赴かせるよう提案した。
  • 詔はこれを容れ、叛者たちは次々に帰順した。
  • 樹者は一度柔然に逃れたが、ほどなく後悔して部衆を率いて降った。
  • 孝文帝は「江陽王は大任に耐える」と賞した。
  • 十二月甲寅、孝文帝は鄴から班師した。
  • 林邑王諸農が朝貢の途上、海上で風に遭って溺死したため、その子の文欵が林邑王に立てられた。