春正月 人事異動と北魏の南侵準備
- 正月、王敬則が驃騎大将軍から司空に進み、陳顯達は鎮軍大将軍から江州刺史に移った。陳顯達は寒門の出ながら高位に至ったことを常に畏れ、子らに富貴をたのんで人を侮るなと戒めていたが、子弟には奢侈で横暴な者が多く、心中快く思っていなかった。
- 陳顯達の子の陳休尚が郢州方面へ赴く途中、九江を通った際、顯達は王謝の名門風を気取るような品を焼き捨てさせ、家柄めいた気取りを戒めた。
- 武帝は石頭で露車三千乗を造らせ、歩兵中心で彭城を攻めようと考えていた。
- 北魏では、亡命していた劉昶がたびたび孝文帝に泣いて訴え、辺境に配置して遺民を集め、蕭氏に奪われた劉宋宗室の恥を雪がせてほしいと求めた。
- 北魏の孝文帝は経武殿に公卿を集めて南征を議し、淮水・泗水方面に大規模な軍馬・飼料の集積を行った。これを聞いた武帝は、崔慧景を豫州刺史として備えに当たらせた。
- 北魏は員外散騎侍郎の邢巒らを使者として斉に遣わした。
文恵太子の死と東宮の奢侈
- 丙子、文恵太子長懋が死去した。太子は柔和で風采もよく、武帝晩年には尚書の政務の一部が東宮に回されていたため、内外に強い威勢を持っていた。
- ただし太子は奢侈を好み、殿舎や園囿を宮城以上に壮麗に整え、莫大な費用を投じていた。武帝の目を避けるため竹を植えて遮ったこともあり、服飾や器物も僭越なものが多かった。
- 東田に小苑を造営し、東宮の将吏を交替で工事に駆り出し、広大で華美な施設を作らせた。武帝は密かに多くの耳目を置いていたが、太子のことを恐れて告げる者は少なかった。ある時、武帝が東田を見て激怒し、工事責任者を捕らえたため、太子は彼らを隠したが、そのため大いに叱責された。
- 太子は寵臣の徐文景に命じて輦や天子用の器物まで作らせた。武帝が急に東宮へ来た時、輦を隠す暇がなく、徐文景はその中に仏像を入れてごまかしたため、武帝は気づかなかった。徐文景の父は、いずれ我が家に喪が及ぶと見て早くから身構えていたが、のち文景はやはり死を賜った。
- 太子の死後、武帝は東宮を見てその奢侈に怒り、関係の器物はその場その場で壊させた。また、竟陵王子良が太子と親しかったのに報告しなかったとして責めた。
- 太子は以前から西昌侯蕭鸞を嫌っており、理由ははっきりしないが福が薄いからではないかと子良に語った。子良は弁護したが、のち蕭鸞が実権を握ると、太子の子孫は一人残らず滅ぼされた。
二月 北魏の古礼実施と王奐事件
- 二月、北魏の孝文帝は平城南で初めて籍田を親耕した。これは北魏がもともと北辺の出自で、古来の天子親耕の礼を十分に実施してこなかったのを、この時から本格的に行ったものである。
- 雍州刺史の王奐は、寧蛮長史の劉興祖を憎み、山蛮を扇動して反乱を起こそうとしていると罪を着せて獄に繋ぎ、建康へ送れとの勅命が出た後、獄中で殺して自殺に見せかけた。
- 武帝は激怒し、呂文顯・曹道剛に精鋭五百人をつけて王奐を捕えさせ、あわせて江陵から曹虎にも襄陽へ向かわせた。
- 王奐の子の王彪はもとより凶暴で、王奐も抑えきれなかった。長史の殷叡は、詔勅が本物でない可能性もあるから、まず使者を拘束して奏聞すべきだと進言し、王奐もそれに従った。
- 王彪は独断で州兵千余を動員し、武庫を開いて甲仗を配り、兵を布陣させて城門を閉じ、官軍に抵抗した。王奐自身は賊になるつもりはない、ただ呂文顯・曹道剛らに侮られるのを恐れて自衛しているだけだと述べたが、王彪は出撃して曹虎軍に敗れた。
三月 王奐誅殺
- 乙亥、司馬黄瑶起と寧蛮長史の裴叔業が城内で兵を挙げて王奐を攻め、斬った。
- 王彪、その弟の王爽・王弼、殷叡らも捕えられて誅された。
- 王奐の子のうち、王融と王琛は建康で死に、王琛の弟で秘書丞の王肅だけが脱出して北魏へ奔った。これは後に王肅がたびたび北魏軍を斉へ引き入れる伏線となった。
四月 皇太孫の冊立と北魏皇后の立后
- 甲午、南郡王昭業が皇太孫に立てられ、東宮の文武官はすべて皇太孫の属官に改められた。文恵太子妃の琅邪王氏は皇太孫太妃となり、南郡王妃の何氏は皇太孫妃となった。何氏は何戢の娘である。
- 北魏では、太尉拓跋丕らが中宮の設置を請い、戊戌、馮熙の娘が皇后に立てられた。
- 孝文帝は『白虎通』の議論に拠り、天子は妻の父母を臣としないとして、太師馮熙に上書では臣と称させず、入朝しても拝礼させないことを命じた。馮熙はなお固辞した。
- 光城の蛮帥・田益宗は、部落四千余戸を率いて北魏に降った。
五月 北魏の親族礼・裁政と斉の人事
- 壬戌、北魏の孝文帝は宣文堂で四廟の子孫を宴し、親しく同列に座して家人の礼をもって遇した。
- 甲子、孝文帝は朝堂に出て公卿以下を引見し、政治上の疑問を決し、囚人の審理も行った。今後は正午まで臣下に審議させ、その後に自らともに決裁すると穆亮に告げた。
- 丙子、宜都王蕭鏗が南豫州刺史となった。先に廬陵王子卿が同州刺史だったが、赴任途中に部伍をもてあそんで水軍ごっこをしたことが武帝の耳に入り、激怒した武帝はその典籤を殺し、子卿を更迭して終生会おうとしなかった。
- 襄陽の蛮酋・雷婆思らは、戸口千余を率いて北魏への内附を求め、魏は沔水北に住まわせた。
六月 北魏の遷都計画始動
- 孝文帝は平城の寒冷、夏でも雪が降り風沙が激しい土地柄を嫌い、洛陽への遷都を決意した。しかし群臣の反対を恐れ、まず大規模な南征を議し、それを口実にして衆議を押し切ろうとした。
- 明堂の左个で斎戒し、太常卿王諶に占わせたところ「革」の卦が出た。帝はこれを湯武の革命に応じる大吉と解した。任城王澄だけが、未服の国を攻めるにあたり革命の象を得たのは全面的な吉とは言えないと諫めたが、帝は強く反発した。
- その後、帝は密かに澄を呼び、実は南征そのものより、国家の根拠地を朔方から中原へ移し、風俗を変えることが本意だと明かした。澄は周・漢の隆盛も中土を本拠としたからであるとして賛同し、孝文帝は澄を張良になぞらえた。
- 丙戌、河橋を造るよう命じて渡河の準備を進めた。
- 秘書監の盧淵は、承平の君主が自ら軍を率いた前例は少なく、勝っても武とは言い難く、敗れれば威望を損なうと上表した。孝文帝は、太平だからでなく、同軌でもなく懦弱でもない以上、自ら戎事に当たるのは当然だと返答し、先王の革輅もそのためにあると論じた。
- 丁未、李冲に武官の選抜を司らせた。
六月 徐州の乱
- 建康の僧法智と徐州の民周盤龍らが夜に徐州城へ攻め入り、一時城を占拠したが、刺史の王玄邈が討って平定した。これは周奉叔の父とは別人の周盤龍である。
七月 北魏の南征布告と武帝の病
- 癸丑、北魏は皇子拓跋恂を太子に立てた。
- 戊子、北魏は内外に戒厳を布き、露布や移書で南伐を公表した。斉では揚州・徐州に民丁を発し、広く募兵して防備を固めた。
- 中書郎の王融は、自らの才と家格を恃み、三十歳までに宰相となることを望んでいた。夜直の省中で鄧禹を引き合いに嘆き、また朱雀桁の雑踏では、車前に八騶もいないのでは大丈夫と言えないと歎じるなど、強い出世欲を示した。
- 竟陵王子良はその文学を愛して特に親厚に遇しており、王融もたびたび北伐を勧める上書を出していた。大規模な騎射訓練が行われると、子良は東府で募兵を行い、王融を寧朔将軍に板授してこれを担当させた。王融は江西・楚地から数百人を集め、いずれも働きのある者だった。
- ところが武帝が病に臥し、子良に甲仗を帯して延昌殿に入り医薬に侍らせたため、子良は蕭衍や范雲らを帳内軍主とした。
- 戊辰、陳顯達が樊城鎮守を命じられた。
- 武帝は朝野の不安を抑えようと、病を押して楽府に正声の音楽を奏させた。子良は昼夜宮中にあり、皇太孫は一日おきに参内していた。
七月 武帝崩御前後と王融の挫折
- 戊寅、武帝の病勢が急変して一時気絶し、皇太孫がまだ来ないうちに内外は大混乱となり、百官はすでに喪服に着替えていた。
- 王融は詔を偽作して竟陵王子良を立てようとし、草案まで整えていた。蕭衍は范雲に対し、王融は乱世を救う器ではないから敗れるだろうと語った。范雲は国家を憂えるのは王融だけだと弁護したが、蕭衍は周公・召公の類か、それとも豎刁の類かと問い返した。
- 皇太孫が到着すると、王融は戎服姿で中書省の門に立ち、東宮の仗衛を遮って中へ入れなかったが、やがて武帝が息を吹き返して太孫の所在を尋ね、東宮の兵仗を召し入れた。政務は尚書左僕射の西昌侯蕭鸞に委ねられた。
- 間もなく武帝が崩じると、王融は子良の兵で諸門を固めようとした。蕭鸞は急いで雲龍門へ来たが入れず、勅命があるとして押し入って太孫を殿上へ奉じ、子良を退出させた。子良の指揮は明快で殿中の者は皆これに従ったが、王融は事が成らぬと知って武装を解き、中書省へ戻って嘆いた。これにより、のちの鬱林王は深く王融を怨んだ。
- 武帝の遺詔では、皇太孫の徳が進み社稷を託せるとして、竟陵王子良に補佐を命じ、内外の万機は蕭鸞と相談して処理するよう指示した。尚書の根本政務は王晏・徐孝嗣に、軍略は王敬則・陳顯達・王廣之・王玄邈・沈文季・張瓌・薛淵らに委ねた。
七月 武帝の治世評価と新帝即位
- 武帝は政治の大綱をよく押さえ、厳明で決断力があり、郡県の長官を長く在任させ、法を犯した者はただちに誅した。そのため永明年間には民は豊かで盗賊も息を潜めた。一方で遊宴や華美な事柄を好む面もあり、自身でもそれを一気には断ち切れないと語っていた。
- 鬱林王がまだ皇太孫であったころ、世間では竟陵王子良が立つのではないかとの噂が広がった。武陵王曅は、人に向かって、年長を立てるなら自分、嫡統を立てるなら太孫だと公言したため、武帝はかえって彼を信頼した。
- 周奉叔と曹道剛は武帝の腹心で、殿中の宿衛を監督させられ、まもなく曹道剛は黄門郎にもなった。後に蕭鸞が帝を弑する前にまずこの二人を除く伏線となる。
- 蕭鸞は高帝以来寵愛され、車服や従者も質素で、為政にも厳格有能との名があり、武帝にも重んじられていた。武帝は遺詔で子良に補政、蕭鸞に尚書事を任せたが、子良自身が政務を好まず、かえって蕭鸞に譲ったことが、「大小の事を悉く鸞と参懐せよ」との文言に表れている。
- 新帝は幼少より子良の妃袁氏に養われ、その慈愛が深かった。しかし王融の謀反未遂を受け、子良を深く疑うようになった。武帝の大行の後、子良が中書省にいるのを警戒して、潘敞に二百人を率いさせて太極殿西階を守らせた。喪礼が整うと諸王は皆退出させられ、子良が山陵まで残留を願っても許されなかった。
- 壬午、遺詔を称して武陵王曅を衛将軍とし、陳顯達とともに開府儀同三司を加え、蕭鸞を尚書令、沈文季を護軍とした。これは本来の遺詔にない人事で、当時の権力配置として行われたものである。
- 癸未、子良は太傅となり、三調と諸々の滞納を免除し、御府や不要な池田・邸冶を削減し、市関の税を軽くした。ただし従来は赦免令が出ても実務では旧どおり督責されることが多かった。今回は蕭鸞が政権を握る中で、恩と信とが並び行われたため、人々はこれを悦んだ。
七月 北魏の出征開始
- 北魏では山陽景桓公の尉元が死去した。
- 孝文帝は広陵王羽に持節を与えて六鎮を慰撫させ、その突騎を徴発した。
- 丁亥、永固陵に別れを告げ、己丑、平城を発して南征に出た。歩騎三十余万を率い、太尉拓跋丕と広陵王羽を平城留守に任じ、いずれにも持節を加えた。羽が副役にとどまりたいと辞すると、帝は老者の智と少者の決をあわせ用いるのだとして許さなかった。
- 河南王幹には車騎大将軍として関右諸軍を統べさせ、穆亮・盧淵・薛胤を副将とし、七万を率いて子午谷から出撃させた。これは梁州・益州方面を圧迫する意図であった。
鬱林王の素行
- 鬱林王昭業は弁舌も容姿もよく、喜怒哀楽の表し方も人並みを超えていたため武帝に愛されたが、内心は卑劣で、側近の小人と衣食を共にし寝起きまで一緒にするような人物だった。
- 南郡王時代に西州で竟陵王子良のもとにいた頃、文恵太子が行動や支出を制限すると、王はひそかに富人から金を徴し、別に鍵を作って夜に西州の裏門を開け、配下とともに諸営署で淫楽にふけった。師の史仁祖と侍書の胡天翼は、これを二宮に訴えれば事は容易でなく、また外で怪異や犬などに傷つけられても一身だけでなく家族まで禍が及ぶとして、二人とも高齢ながら日をおかず自殺したが、武帝も太子もついに知らなかった。
- 王は愛する側近らに先回りして官爵の名を書きつけ、黄紙に記して袋に入れ帯びさせ、即位したらそのとおり任ずると約していた。太子の看病や喪中には悲しみを装って声を張り上げたが、私室に戻ると笑い飲み騒いだ。
- 女巫の楊氏を信じ、太子の死はその祈祷の力によると考えて敬信を深めた。皇太孫となった後も、武帝の病が重くなると楊氏に祈らせた。
- 何妃がまだ西州にいたころ、武帝の危篤を知った太孫は、手紙の中央に大きく「喜」の字を書き、その周囲に三十六の小さな「喜」を巡らせて送った。
- 武帝の病床では涙を流してみせたため、武帝は後事を託せると考え、最初の五年間は宰相に任せ、以後は人に任せきりにするなと遺言した。臨終には手を執って、自分を思うなら善く治めよと命じた。
即位後の王融誅殺
- 武帝の大斂が終わった直後から、鬱林王は武帝ゆかりの楽人・芸人をすべて呼び出して演奏させ、即位後十余日で王融を廷尉に下した。
- 御史中丞の孔稚珪は、王融が軽躁で狡猾、無頼を集め、朝政を誹謗したと奏した。王融は子良に救援を求めたが、子良は恐れて助けず、王融は獄中で死を賜った。年二十七であった。
- 東海の徐勉は以前から王融に招かれていたが、名声の高さに比して行く末が短いと見て深く交わろうとしなかった。やがて王融が滅んだため、徐勉の眼力が評判になった。
- 太学生の魏準は王融に才学を賞され、子良擁立の動きを鼓舞していた。虞羲・丘国賓らは、子良は優柔で王融には決断がなく、敗北は目の前だとささやいていた。王融誅殺後、魏準は呼び出されて取り調べを受け、恐怖のあまり死んだ。全身が青くなったので、人々は胆が破れたのだと噂した。
北魏軍の進発と司馬光の評
- 壬寅、孝文帝は肆州に至った。道中で足の不自由な者や目の悪い者を見ると、車を止めて慰問し、終身の衣食を給した。
- 安定王休は、軍中で盗みを働いた兵士三人を捕えて軍前で斬ろうとしたが、孝文帝は、自分に遭遇した縁による特赦として許した。その後、司徒馮誕に向かって、安定王の法の厳しさを見たのだから諸臣は慎むようにと語り、軍中は粛然となった。
- 司馬光はこれを評して、君主は国家全体を一身のように見て、賢者を用い、制度を整えて、境内の孤独・廃疾を遍く養うべきであり、たまたま目にした者だけを恵むのは仁として浅いとした。また、罪人を赦して有司の法を乱すのも君主の体ではないと惜しんでいる。
九月 北魏の進軍と斉の喪礼
- 戊申、孝文帝は并州に至った。并州刺史の王襲は善政で評判だったが、道路脇に銘を立てて自らの美を誇っていたことが発覚した。孝文帝が尋ねた際に真実を言わなかったため、将軍号を二等下げた。
- 壬子、北魏は高聦らを使者として斉に遣わした。
- 丁巳、孝文帝は車駕の通行で百姓の秋稼を損ねた田には、畝ごとに穀五斛を支給するよう命じた。
- 辛酉、文恵太子が追尊されて文皇帝となり、廟号を世宗とした。
- 武帝の梓宮が渚へ下ると、新帝は端門の内で拝辞したが、輼輬車がまだ門外へ出ないうちに、しきりに病を訴えて内へ戻った。ところが閣内へ入るやいなや、胡人の伎楽や鞞鐸の響きが内外に鳴り響いた。
- 丙寅、武帝は景安陵に葬られ、廟号を世祖とした。
九月 北魏、洛陽へ至り遷都を決断
- 戊辰、孝文帝は黄河を渡り、庚午に洛陽へ着いた。壬申には旧太学の石経を視察した。
- 乙亥、鄧至王の像舒彭は子の旧を北魏に朝見させ、自らの位を譲りたいと願い出て、孝文帝はこれを許した。
- 平城出発以来の長雨がなお止まず、丙子、孝文帝は諸軍の先発を命じた。丁丑、自ら戎服で馬に乗って進もうとすると、群臣は馬前に叩頭して諫めた。帝は、廟算は定まっていると叱責し、李冲らは天下が望んでいないのは明らかで、陛下一人がどこへ行こうとしているのかわからないと死を賭して諫めた。
- そこで帝はついに本意を明かし、南征をやめるなら洛陽への遷都を行うがどうかと諮った。左に立つか右に立つかで意思を示させると、南安王楨が、大事は衆に謀らず、遷都こそ臣らの願いであり百姓の幸いだと述べた。群臣も皆万歳を唱え、もとより北人は内徙を好まなかったものの、南征の負担を恐れて反対できず、ここに遷都方針が定まった。
- 李冲は、宗廟や宮室は馬上で整えられないから、いったん代都へ帰って工事完成を待つべきだと述べたが、孝文帝は州郡を巡り、鄴に少し滞在したのち春に戻るとして北帰を避けた。これは北人が代に戻れば再び故土に執着して移転を嫌うと考えたためである。
- 任城王澄を平城へ帰して遷都の趣旨を留守官に伝えさせ、「今日こそ真の意味での革である」と語った。衛尉卿于烈にも意見を問うと、遷都に賛成する者と旧地を恋う者はほぼ半々だと答えた。帝は、異論を唱えず同調してくれたことを喜び、留台の政務を一切任せた。于烈は于栗磾の孫である。
関中の反乱と鎮圧
- これより前、北地の民支酉が長安城北の石山で数千人を率いて挙兵し、梁州刺史の陰智伯にも使者を送って呼応を求めた。秦州の民王広もこれに応じ、魏の刺史劉藻を捕えた。
- 秦・雍間の七州の民もこれに震動し、総勢十万に及んで各堡壁に拠り、斉からの援助を待った。河南王幹が討ったが敗れ、支酉は咸陽北の濁谷へ進み、穆亮も敗れた。
- 陰智伯は軍主の席徳仁ら数千を派遣して支援し、支酉らは長安へ向かったが、盧淵・薛胤らがこれを迎え撃って大破した。降者は数万口に及んだが、盧淵は首悪のみを誅し、他は問わなかった。支酉・王広は斬られた。
十月 北魏の遷都実務と斉の后妃冊立
- 戊寅朔、孝文帝は金墉城に至り、関右から穆亮を召して李冲・将作大匠董爾とともに洛都の経営に当たらせた。
- 己卯には河南城、乙酉には豫州、癸巳には石済に進み、乙未、滑台城東に壇を設けて行廟に告げ、遷都の意を奉告した。これに伴い戒厳は解かれ、大赦があり、滑台宮の造営も始まった。
- 任城王澄が平城へ着くと、人々は初めて遷都を聞いて驚き恐れたが、澄が古今の事例を引いて徐々に説くと、しだいに心服した。澄が滑台へ戻って報告すると、孝文帝は、澄がいなければ事は成らなかったと喜んだ。
- 壬寅、斉では皇太孫太妃王氏が皇太后に尊ばれ、癸卯、太孫妃何氏が皇后に立てられた。
十月 王肅の北魏登用
- 癸卯、孝文帝は鄴城へ赴いた。王肅はここで初めて孝文帝に拝謁し、斉を討つ策を述べた。帝は話に引き込まれて席を近づけ、時の経つのも忘れるほどであった。
- 以後、王肅への待遇は日ごとに厚くなり、親旧の貴臣でもその間に割って入れなかった。ときには側近を退けて夜半まで語り合い、自ら君臣が遅くにめぐり会えたと称した。
- ほどなく王肅は輔国将軍・大将軍長史に任ぜられた。当時、孝文帝は礼楽を興し華風へ改める政策を進めており、威儀・文物の多くは王肅の定めるところとなった。
- 乙巳、安定王休に従官を率いさせて平城に残る皇族の家族を迎えさせた。
- 辛亥、皇弟の昭文を新安王、昭秀を臨海王、昭粲を永嘉王に封じた。
十一月 鄴遷居と劉悛・陰智伯の摘発
- 北魏は鄴の西に宮殿を築き、癸亥、そこへ移って居した。
- 斉では御史中丞の江淹が、前益州刺史劉悛と梁州刺史陰智伯が莫大な賄賂を蓄えたと弾劾し、いずれも罪に問われた。
- 劉悛は広州・司州の任を終えた頃、全財産を傾けて武帝に献じ、家にほとんど残さなかった。益州では金の浴盆など豪奢な品々を作っていた。鬱林王が即位すると献上額が減ったため、新帝は怒って劉悛を廷尉に下し、殺そうとしたが、蕭鸞が救って死は免れた。ただし終身禁錮された。劉悛は劉勔の子である。