資治通鑑齊紀 世祖武皇帝 永明 十年 492年

春正月 北魏の明堂祭・徳運改定・封爵整理

  • 正月戊午朔、北魏皇帝は太華殿で群臣を朝饗したが、楽は懸けても演奏しなかった。
  • 己未、明堂で顕祖を上帝に配して宗祀を行い、続いて霊台に登って雲物を観、青陽左个に降りて政務を布告した。以後、毎月朔日にこれを常例とした。
  • 斉から庾蓽らが北魏へ聘問し、成淹が館の南からこの礼を見せた。
  • 辛酉、北魏は初めて太祖を南郊に配祀した。
  • 五行の徳運について群臣に議論させたところ、高閭は北魏を土徳とすべきだと主張したが、李彪・崔光らは、拓跋氏は晋と通好・扶助しており、晋を継いで水徳と見るべきだと論じた。
  • 壬戌、孝文帝は晋を継ぐ水徳と定め、祖先祭祀や臘の日取りもそれに応じて改めた。
  • 甲子、租課を免じた。
  • 宗室や功臣の子孫に王封が多すぎたため、乙丑、道武帝の直系以外の王は公、公は侯へ一段降した。ただし品秩は旧のままとし、上党王長孫観だけは祖の大功によって例外とした。丹楊王劉昶も斉郡公に降されたが、「宋王」の号は加えられた。
  • 丙子、宗廟四時祭をこれまでの中節から孟月に改め、日を選んで行うようにした。従来は夷礼の影響があった。
  • 斉では竟陵王子良が尚書令を兼ねた。

正月・二月 北魏の宮殿・祭礼改革

  • 北魏皇帝は太華殿を壊し、太極殿を造ることとした。
  • 戊子、永楽宮へ移り、李冲を将作大匠に兼ねさせ、司空穆亮とともに工事を営ませた。
  • 辛卯、寒食の祖先供饗を廃止した。寒食の禁火自体は周制に由来するが、祖先供饗と結びつけるのは非礼とみなした。
  • 甲午、北魏皇帝は初めて東郊で朝日を行い、以後は朝日・夕月をいずれも親祭した。
  • 丁酉、堯を平陽、舜を広寧、禹を安邑、周公を洛陽で祀るよう命じ、各地の牧守に執事させた。孔子廟は中書省で祀り、諡を文聖尼父と改め、自ら礼拝した。
  • また、従来西郊の天祭で行われていた、戎服で壇を巡る「蹋壇」「遶天」も、三月癸酉に至って廃止した。

三月・四月 高句麗・律令

  • 三月のうちに、北魏は高麗王雲を督遼海諸軍事・遼東公・高句麗王とし、その世子の入朝を命じた。雲は病を理由に辞し、従叔の升干を使者に随わせて平城へ送った。
  • 夏四月丁亥朔、北魏は新律令を頒布し、大赦を行った。

四月 豫章王嶷の死

  • 辛丑、豫章文献王嶷が死去した。黄鉞・都督中外諸軍事・丞相を追贈し、喪礼は漢の東平献王の故事に準じた。
  • 嶷は仁厚・謹慎・廉倹で、財貨を事としなかった。以前、邸内の倉庫が火災に遭って、荊州から持ち帰った物資三千万余の価値を失ったが、責任者を数十杖するだけで済ませた。
  • 臨終に子らへ、才能や地位、貧富は自然の理であり、それをもって互いに侮るなと遺言した。
  • 武帝は深く悲しみ、のちに嶷のことを語っても涙を流した。嶷の邸には死去の日にも手元資金がなく、武帝は月々百万円を支給するよう命じ、その措置は武帝の生涯続いた。

五月・七月 吐谷渾との関係修復

  • 五月己巳、竟陵王子良を揚州刺史に任じた。
  • 以前、文明太后の死を吐谷渾へ伝えた際、伏連籌は拝命の礼を欠いたため、群臣は討伐や貢物返還を請うた。
  • しかし孝文帝は、貢物を受けないのは自新の道を断つことになるとして受納を続け、さらに前年に北魏が得た洮陽・泥和の俘虜を返還した。
  • 秋七月庚申、吐谷渾は世子の賀虜頭を北魏へ入朝させた。孝文帝は伏連籌を都督西垂諸軍事・西海公・吐谷渾王に任じた。
  • 北魏の張礼が吐谷渾へ派遣されると、伏連籌は、宕昌が以前は自称を用いていたのに今は僕と称している、使者を拘束しているから偏師を出して問いただしたいと語った。
  • 張礼は、君も宕昌もともに魏の藩臣であり、むやみに兵を起こすのは臣節に背く、都の宰輔も、過ちを改めれば藩国は保てるが、改めなければ禍が来ると言っていたと諭した。伏連籌は黙って従った。

八月 北魏の柔然遠征

  • 甲戌、北魏は宋弁らを斉へ聘問に派遣した。帰国後、孝文帝が江南の政情を問うと、宋弁は、蕭氏父子は天下に大功なく、逆に政権を取った以上は順当に守るべきなのに、政令は煩雑で租税・労役も重く、朝廷には股肱の臣がおらず、民には怨嗟が満ちているから、一代を保てるだけでも幸いで、子孫へ遺せる基業ではないと答えた。
  • 八月乙未、北魏は陽平王頥と鎮北大将軍陸叡に、十二将・歩騎十万を分けて柔然討伐を命じた。
  • 中道は黒山を出て、東道は士盧河、西道は侯延河へ向かった。大磧を越えて柔然を大破し、軍は還った。
  • その頃、柔然では伏名敦可汗と叔父那蓋が高車の阿伏至羅を討っており、那蓋の戦果が大きかったため、国人は彼を天助ありとみて伏名敦を殺し、那蓋を立てて候其伏代庫者可汗と号させた。元号を太安と改めた。

八月・九月 養老礼と明堂の昭穆

  • 北魏の司徒尉元と大鴻臚卿游明根は、たびたび老を理由に引退を願い、許可された。皇帝は引見して、尉元には玄冠素衣、游明根には委貌青紗単衣などを賜って帰した。
  • その後、明堂で三老・五更を親養する礼を行い、己酉、尉元を三老、游明根を五更とした。孝文帝は再拝し、自ら袒いで牲を割き、杯を執って三老にすすめ、五更には粛拝して教えを乞うた。二人は孝友をもって民を教化すべきだと勧めた。
  • さらに庶老・国老も階下で養い、礼が終わると車や衣服を賜り、三老には上公、五更には上卿の禄を与えた。
  • 九月甲寅、北魏皇帝は明堂で昭穆の序を整え、文明太后を玄室に祀った。
  • 辛未、文明太后の再朞にあたり、永固陵の左側で終日哭し、二日間食事を取らなかった。甲戌に陵に辞して永楽宮へ帰った。

九月・十月 武興氐と斉の太廟大祭

  • 武興の氐王楊集始が漢中へ侵攻し白馬に至ると、梁州刺史隠智伯が桓盧奴・隠冲昌らを派遣して撃破し、数千を斬獲・捕虜とした。集始は武興へ逃げ帰り、北魏へ降伏を願った。
  • 辛巳、楊集始は北魏へ入朝し、孝文帝は彼を南秦州刺史・漢中郡侯・武興王に任じた。
  • 冬十月甲午、斉の武帝は太廟で殷祭を行った。殷祭は大祭のこと。
  • 庚戌、北魏では安定王休を大司馬、馮誕を司徒に任じた。馮誕は馮熈の子で、文明太后の兄の家にあたる。

年末 使節往来・『宋書』編纂・林邑・李氏外戚

  • 北魏では太極殿が完成した。
  • 十二月、斉の司徒参軍蕭琛・范雲が北魏へ聘問した。孝文帝は斉人をことのほか重んじ、自ら親しく対談した。
  • その際、「江南には良臣が多い」と言うと、侍臣の李元凱が「江南は良臣が多い代わりに年ごとに主が替わり、江北は良臣が少ない代わりに百年に一度しか主が替わらない」と答え、孝文帝は大いに恥じた。
  • 武帝は太子家令の沈約に『宋書』を撰ばせた。袁粲伝を立てるべきか迷って問うたところ、武帝は、袁粲は宋室の忠臣だと述べた。
  • また沈約が宋の孝武帝・明帝の鄙猥な事蹟を多く載せたため、武帝は、孝武帝の事績は急に全部隠すことはできないが、自分は明帝の事を実際に知っているので、尊者の悪を覆う義を考えよとして、多くを削らせた。
  • この年、林邑では范陽邁の孫・諸農が種人を率いて范当根純を攻め、再び国を回復した。朝廷は諸農を林邑王に任じた。
  • 北魏では、かつて誅殺された李恵の一族について、思皇后の兄弟はみな死に絶え、従弟の鳳も長楽王事件に連座して死んでいたが、その子の安祖ら四人は逃れて赦後に出た。
  • 孝文帝は舅氏の生存者として彼らを探し出し、侯に封じ将軍号も授けたが、引見して、官職は賢才のために設けるもので、外戚だからといって登用するのは末世の法だとして、特別な才能がない者は家に帰れと命じた。のちには爵を伯に下げ、将軍号も除いた。
  • 当時の人々は、馮氏には厚く、李氏には薄い処遇だと見た。高閭もそれを進言したが、孝文帝は聞き入れなかった。世宗の代になってようやく李氏外家が尊ばれ、李恵にも開府儀同三司・中山公が追贈され、諡を荘とした。
  • また、文明太后に寵任された宦官の苻承祖は、贓罪で死刑相当となったが特赦され、官職を削られ禁錮のうえで、皮肉にも「悖義将軍」「佞濁子」に封じられ、ほどなく死んだ。
  • 承祖の一門は利を求めて彼に群がったが、姨にあたる姚氏だけはこれを拒み、与えられた衣服や奴婢も受けず、受けても埋め、貧衣をまとって自ら働いた。そのため一族から「癡姨」と呼ばれた。
  • 承祖失脚後、他の二人の姨は処罰されたが、姚氏だけは貧窮の様子を見た皇帝に特赦された。