正月:魏の死刑減免規定
- 正月乙未、魏は死刑に当たる者でも、父母・祖父母が高齢で、ほかに成人した子孫や朞親がいない場合は、その事情を具状して奏聞させる制度を定めた。
皇子子響の復籍
- もとは皇子子響は豫章王嶷の後継として出されていたが、その後に嶷の実子ができて世子となったため、子響はたびたび朝見のたびに他の皇子と異なる車服であることを悔しがり、車壁を拳で打つほどだった。
- 皇帝は車服を皇子同様に改めさせ、ついに三月己亥、子響を巴東王に立てた。
春:角城での魏襲来
- 角城の戍将張蒲は濃霧にまぎれて船で清水流域に入り、薪採りを装って魏兵をひそかに引き入れた。
- 戍主皇甫仲賢はこれに気づき、門内で奮戦してかろうじて押し返したが、すでに魏の歩騎三千余が塹外まで来ていた。
- 淮陰の軍主王僧慶らが兵を率いて救援し、魏軍は退いた。
夏四月:桓天生の再侵と曹虎の勝利
- 桓天生はまた魏兵を引いて隔城に拠った。
- 皇帝は遊撃将軍曹虎に諸軍を督させて討伐させた。輔国将軍朱公恩が伏兵を踏み破って敵の遊軍と戦い、これを破った。
- 曹虎は進んで隔城を囲み、天生は魏兵一万余を率いて来戦したが、曹虎は奮撃して大破し、二千余を斬獲した。
- 翌日には隔城を抜き、襄城太守帛烏祝を斬り、さらに二千余を斬獲した。
- 天生は平氏城を棄てて逃げた。
陳顕達の北伐
- 同じころ、陳顕達は魏へ侵攻した。
- 甲寅、魏は豫州刺史拓跋斤に兵を与えて迎撃させた。
- 甲子、魏は大赦し、乙丑に魏主は霊泉池、丁卯に方山へ赴き、己巳に還宮した。
- 魏は醴陽に城を築いたが、陳顕達はこれを攻め落とし、さらに沘陽城を攻めた。
- 城中の将士は出撃を望んだが、鎮将韋珍は、敵は初到着で気鋭だから争うべきでなく、守って疲弊させてから撃つのがよいと判断した。
- 十余日後、韋珍は夜に門を開いて急襲し、陳顕達を退かせた。
夏秋:人事と行幸
- 五月甲午、梁彌承が河・涼二州刺史とされた。
- 七月から九月にかけて、魏主は霊泉池・方山への行幸を続けた。
- 九月壬寅、皇帝は琅邪城で講武を行った。
- 癸卯、魏の淮南靖王拓跋佗が死去した。魏主は宗廟祭祀の最中に訃報を聞き、祭を中止して臨視し、深く哀しんだ。
冬:時令の読上げ
- 冬十月庚申、立冬の日に皇帝は初めて太極殿に臨み、その季節の時令を読み上げさせた。
- 閏月辛酉、王奐が領軍将軍となった。
- 辛未、魏主は霊泉池に行き、癸酉に帰った。
年末:伊吾降伏と江南の税制議論
- 十二月、柔然の伊吾戍主高羔子は三千を率いて城ごと魏に降った。
- 斉では、穀帛が安くなりすぎていたため、尚書右丞李珪の議により、上庫や諸州の銭を出して買い上げを命じた。
- 西陵戍主杜元懿は、会稽が豊作で商旅も多いから、西陵牛埭などの渡し場・堰の税収を大幅に増やせると建言した。
- これに対し、会稽の行事顧憲之は、牛埭設置の本旨は急流の危険を救って物資輸送を助けることにあり、無理に税を取ることではないと反論した。
- とくに呉興では不作が続き、会稽へ向かうのは飢えのためなのに、ここで増税するのは災いに乗じて利をむさぼるものだと非難した。
- また、近年「便宜」と称する提案の多くは、民に今すぐ不利で、将来も公に益しないものばかりだとして、政体を損なうと論じた。
- 皇帝は顧憲之の議を採用し、増税案は止められた。
魏の安民策に関する李彪の上奏
- 魏主が安民の術を問うと、李彪は、豪貴の奢侈僭越を制限して第宅・車服の等級を定めるべきだと述べた。
- また、国家の興亡は太子教育にかかるとして、文成帝が若くして学問を十分修められなかったことを自省した故事を引き、古制にならって師傅を立てるべきだと論じた。
- さらに、前年の凶作時に移民を他郷へ送ったのは生活基盤を壊し国家にも損だとし、常平倉のようにあらかじめ粟を蓄え、凶年に売り出す制度を提案した。
- 河外諸州からも人材を登用して中央に引き上げ、新旧の隔てをなくすことも求めた。
- 罪人の父兄・子弟が恥を感じず平然としている風潮を改めるため、父兄や子弟にも謝罪や引責を求め、羞恥心を養うべきだとも述べた。
- さらに、親の喪中の官人がただちに復職して吉礼・宴会に加わるのは人の道に反するとし、祖父母・父母の喪は終服を許し、ただし職務上必要な者には喪服のまま最小限の執務をさせる案も出した。
- 魏主はこれらをことごとく採用した。以後、時に水旱があっても、魏の公私は比較的豊かで、民は困窮しにくくなった。
- この年、魏は百済を攻めたが、百済に敗れた。