正月:南郊祭祀と魏の大駕
- 正月辛亥、斉主は南郊を祭り、大赦した。
- 魏主も南郊を祭り、このとき初めて完全な大駕の儀を備えた。
王晏の勢い
- かつて皇帝が鎮西長史として郢州を管していたころ、主簿王晏は巧みにへつらって親近を得た。
- 以後、皇帝が太子であった時には中庶子となり、失寵の時には病を口実に距離を置いたが、即位後は丹陽尹に任ぜられ、旧来どおり朝夕の対面を許された。
- 皇帝は豫章王嶷や王儉よりも一段低い礼で彼らに接し、王晏とは特に親しく朝政を議した。
- 二月壬寅、王晏は江州刺史に出されたが、これを望まず、再び中央に留まって吏部尚書となった。
皇子の封建
- 三月甲寅、皇子子岳が臨賀王、子峻が広漢王、子琳が宣城王、子珉が義安王に立てられた。
四月:散物中止
- 四月丁丑、魏主は楼上から物をまいて百姓に賜る慣習をやめた。人馬が争って踏み合い、傷を負う者が多かったためで、その分を老病貧独の者へ直接与えるよう改めた。
- 丁亥、魏主は霊泉池から方山へ赴き、己丑に還宮した。
王儉の最晩年
- 皇帝は南昌文憲公王儉を格別に礼遇し、三日に一度は朝参するよう命じた。
- しかし往来が煩わしいと見て、尚書省へ戻して月に十日は外出を許した。
- 王儉はなおも選曹の負担からの解任を求めたため、中書監に改めて選事を参掌させた。
- 五月乙巳、王儉は死去した。
- 王晏は選事の権を継いだが、もとより王儉と不和で、諡号を王導と同じ「文献」とする案が出ると、宋以来異姓にそれほど高い諡を与えていないと奏して難色を示した。私下では「平頭の憲が実現した」と嘲るように語った。
徐孝嗣の登用
- 徐湛之が誅されたとき、その孫徐孝嗣は胎中にいて難を免れた。
- 八歳で枝江県公を継ぎ、宋の康楽公主を妻とした。
- 皇帝即位後は御史中丞となり、風采端正で簡厳だったため、王儉は将来宰相になる人物だと評していた。
- 皇帝が後継者を問うた際にも、王儉は東都の故事になぞらえて徐孝嗣を挙げた。
- 王儉の死後、徐孝嗣は呉興太守から召されて五兵尚書となった。
尚書令人事
- 庚戌、魏主は方沢を祭った。
- 皇帝は領軍将軍王奐を尚書令にしようと考え、王晏に意見を求めた。王晏は王奐と不仲だったため、柳世隆には勲望があり、奐をその上に置くのはよろしくないと答えた。
- 甲子、柳世隆が尚書令、王奐が左僕射となった。
六月:魏の宗室汚職裁断
- 六月丁亥、皇帝は琅邪城へ赴いた。
- 魏では懐朔鎮将の汝陰霊王天賜と、長安鎮都大将・雍州刺史の南安惠王楨が、いずれも収賄で死罪相当となった。
- 馮太后と魏主は皇信堂に王公を集め、親族を保って法を壊すべきか、親族を罰して法を明らかにすべきかを問うた。
- 群臣は二人が景穆皇帝の子であることを理由に減刑を願った。太后は応じなかったが、魏主は最終的に、文成帝との兄弟の恩と、南安王の孝を考慮し、死は免じて官爵を削り、終身禁錮とした。
- 以前、魏朝は楨の貪暴を疑って閭文祖を長安へ調査に遣わしたが、文祖は賄賂を受けて隠蔽していたことも発覚し、これも罪に問われた。
- 太后は、人の心は信用しがたいと語り、魏主は、自らの貪心を抑えられない者は辞職して帰宅してもよいとまで言った。
- 慕容契は、人心は常ならず、法は常であるから、自分も罷免してほしいと進言したが、魏主は、貪欲を悪と知るならなおのこと退く必要はないとして、かえって彼を宰官令に遷した。
秋:魏と斉の通交再開
- 秋七月丙寅、魏主は霊泉池に行幸した。
- 魏主が、長く斉と断交していたが今後は通使したい、どうかと群臣に問うと、游明根は、使者を送らなかったのも、醴陽城を築いて相手の境を侵したのも、道理に背いたのは蕭賾ではなく魏側だと率直に述べた。
- 魏主はこれに従い、八月乙亥、邢産らを兼員外散騎常侍として斉へ派遣した。
秋冬:北辺・南朝の小事
- 九月、魏は宮人を北鎮の妻のない貧者に与えた。
- 十一月己未、魏の安豊匡王猛が死去した。
- 十二月丙子、河東王茍頽が死去した。
- 斉では平南参軍顔幼明らが魏を訪れた。
- 魏では尉元が司徒、穆亮が司空となった。
年末:豫章王嶷の退居願いと中正人事
- 豫章王嶷は、自らの地位があまりに高いことを常に恐れ、退いて自邸に帰ることを願った。この年、揚州鎮を世子の子廉に代わらせるよう求めた。
- 太子詹事張緒が揚州中正を兼ねていた際、長沙王晃は、自分が用いたい聞人邕を州議曹にしてほしいと頼んだ。
- 張緒がこれを許さないと、晃は書佐を通じて重ねて求めたが、緒は厳しい顔で、ここは自分の本拠の州郷なのに、王がどうして私に圧力をかけるのかと言い返した。
江斆と紀僧真
- 侍中江斆が都官尚書であったころ、中書舍人紀僧真は皇帝の寵愛を受け、姿も士人風だったため、士大夫の仲間入りを望んだ。
- 彼は、自分は本県の武吏の出だが、今や高位にあり、子の婚姻も荀昭光の娘を得られれば望みはない、ただ陛下に士大夫として扱ってほしいと願った。
- 皇帝は、それは江斆や謝瀹のような名族がいるので自分にもどうにもならぬ、自分で頼みに行けと言った。
- 僧真が江斆のもとへ行くと、江斆は榻に上がった彼を見て、左右に寝台を遠ざけさせ、「客用」を別にした。僧真は気を失うほど恥じて退き、皇帝に、士大夫とは天子の一言で作れるものではないのだと言った。
- 江斆は徐湛之の孫、謝瀹は謝朏の弟で、いずれも名義を守り、万乗の主でも門地秩序を容易には動かせなかった。
柔然からの降人