正月:斉の大規模加官と范雲の評価
- 正月丁亥朔、魏主は楽章を正し、雅でないものを除かせた。
- 戊子、斉では豫章王嶷を大司馬、竟陵王子良を司徒、臨川王映・王儉・王敬則をいずれも開府儀同三司に進めた。
- 子良が記室の范雲を郡守に推したところ、皇帝は、彼が日ごろ互いに悪口を言い合っていると聞くので、法で追及せず遠ざけるだけで済ませるつもりだと言った。
- 子良は、范雲の言葉は悪口ではなく諫言であるとして、規諫の文書百余紙を奏上した。内容はみな率直で切実であり、皇帝は感嘆して、范雲がこれほどの人物とは思わなかった、むしろ子良を補佐させるべきだとして、外任に出すのをやめた。
范雲の諫言と皇太子への忠告
- 文惠太子が東田に出て刈り取りを見物し、これはなかなかの眺めだと言ったとき、列席者がみな追従する中で、范雲だけは、耕作・除草・収穫はいずれも大きな労苦である、殿下には農事の艱難を知り、一時の遊楽に流されないでほしいと述べた。
桓天生の蜂起と討伐
- 荒人の桓天生は自ら桓玄の一族を称し、雍州・司州の蛮を扇動して南陽故城に拠り、魏に兵を求めて南侵しようとした。
- 丁酉、皇帝は丹陽尹蕭景先に節を仮し、歩騎を総帥して義陽へ向かわせ、司州方面の諸軍をその節度下に置いた。
- さらに陳顕達にも節を与え、戴僧静らの水軍を率いて宛・葉方面へ進ませ、雍司諸軍を統率させた。
高允の死
- 魏の光禄大夫高允は、太武・景穆・文成・献文・高祖の五代に仕え、三省を出入りして五十年以上、譴責を受けたことがなかった。
- 馮太后と魏主は彼を非常に重んじ、黄門に扶持させていた。
- 彼は仁恕・簡静で、貴位にあっても寒素のように振る舞い、終日読書し、人にも倦まず善を説いた。
- 北方へ移された旧青徐の名族たちが離散して困窮したときには、家財を傾けて救い、その才行に応じて朝廷に推薦した。
- ある者が新附の人々を警戒しても、高允は、賢能を任用するのに新旧は問うべきでないと主張した。
- やがて軽い不調を覚えながらも日常どおり起居し、数日後に九十八歳で没した。贈官・賻襚はいずれも厚く、魏初以来これに及ぶ者はいなかった。
桓天生との戦い
- 桓天生は魏兵一万余を引いて沘陽に至った。
- 陳顕達は戴僧静らを深橋でこれに当たらせ、大破して多数を殺獲した。天生は沘陽に退保し、戴僧静は包囲したが落とせず帰還した。
- 胡丘生が懸瓠で呼応して起ったが、魏人に破られて斉へ逃れた。
- 天生は再び魏兵を率いて舞陰を侵したが、舞陰戍主殷公愍がこれを破り、副将張麒麟を殺した。天生も傷を負って退いた。
三月から六月:陳顕達の進軍と魏の旱魃
- 三月丁未、陳顕達が雍州刺史となり、舞陽城へ進んだ。
- 五月、魏主は霊泉池に行き、還って平城に戻った。
- その後、魏では七廟の子孫と外戚で緦麻以上の親族について、賦役を免除する詔が出た。
- 魏の公孫邃・張儵らは桓天生とともに再び舞陰を攻めたが、殷公愍に敗れた。天生は荒中へ逃げ込んだ。
- このころ魏では春夏の大旱があり、とくに代地で甚だしく、牛疫も重なって飢え死にする者が多かった。
六月・七月:韓麒麟の上言と飢饉対策
- 六月癸未、魏主は内外の臣に隠さず意見を尽くすよう求めた。
- 斉州刺史韓麒麟は、古の王者は九年の蓄えを持ったが、今は京師で農業に従わず遊食する者が多く、奢侈が横行していると論じた。富者の衣食は華美なのに農夫は糟糠にも不足し、蠶婦は粗衣も欠き、耕す者は日々減って田は荒れているとした。
- そこで、珍異の物を禁じ、吉凶の礼に明確な格式を設け、農桑を奨励し、賞罰を厳格にすべきだと説いた。
- さらに、租税のうち穀の比率を増やし、豊年には蓄積して凶年に放出するのがよいと述べた。
- 秋七月己丑、魏は倉を開いて民を賑貸し、関所を越えて食を求めることを許し、去留を登録し、行く先々で三長に扶養させた。
柔然の内紛と魏の勝利
- 伏名敦可汗は残暴で、臣の侯医垔石洛候がしばしば諫めて魏との和親を勧めたが、怒ってその一族を誅した。これにより部衆は離心した。
- 八月、柔然が魏辺に侵入すると、魏は尚書陸叡を都督として出し、大破した。
- もともと高車の阿伏至羅は十余万の部落を率いて柔然に属していたが、伏名敦が魏を侵した際に諫め入れられず、従弟窮奇とともに西へ走って自立した。国人は阿伏至羅を候婁匐勒、窮奇を候倍と呼び、これは華語で天子・太子に当たるという。
- 二人は南北に分かれて統治し、伏名敦が追撃してもたびたび敗れ、ついに東へ移った。柔然はここから衰え始めた。
九月から年末:魏の節倹政策と国書編纂
- 九月辛未、魏は起部の無益な工事を停止し、機織りをしない宮人を宮外に出した。
- 冬十月丁未には尚方の錦繍・綾羅の工もやめ、民が自分で作る分には禁じないとした。
- 魏は長く太平で府庫が満ちていたため、御府・太官・太僕・内外庫の衣服・珍宝・器物・武器・繒布・糸綿の多くを出して、百官から工商・皁隷、六鎮守兵、畿内の貧民にまで広く分け与えた。
- 秘書令高祐と李彪は、国書を編年体から紀伝表志体へ改めるよう奏請し、魏主はこれを許した。
- 十二月、李彪は著作郎崔光とともに国書の改修を命じられた。
- 魏主が高祐に盗賊を止める方法を問うと、彼は、宋均や卓茂の例を引き、結局は守宰が善政を行えばよいと答えた。
- また、人事登用は治績で決めるべきで、年功や旧勲だけで地方を任せてはならぬと上奏した。魏主はこれを善しとし、高祐を西兗州刺史として滑台に鎮させた。
- 高祐は郡国だけでなく県や郷党にも学問の場が必要と考え、県学・小学を立てた。