資治通鑑齊紀二 世祖武皇帝 永明 四年 486年

正月:魏の朝会服制と唐㝢之の乱

  • 正月癸亥朔、魏の高祖は朝会で初めて袞冕を着用した。華夏の礼制を採り入れていく象徴的な変化だった。
  • 壬午、柔然が魏辺を侵した。
  • 南朝では唐㝢之が錢唐を陥れ、呉郡諸県では令が城を棄てて逃げる者が多かった。㝢之は錢唐で帝を称し、太子を立て、百官を置いた。
  • 彼は将高道度らを派遣して東陽を落とし、東陽太守蕭崇之を殺した。また孫泓に山陰方面を攻めさせたが、浹口戍主湯休武がこれを破った。

官軍の鎮圧

  • 皇帝は禁兵数千と馬数百を発して東方に討伐させた。
  • 官軍が錢唐に到着すると、唐㝢之の軍は寄せ集めで騎兵を恐れ、一戦で潰走した。㝢之は捕えられて斬られ、諸郡県も平定された。
  • ただし官軍は勝ちに乗じて略奪を行い、帰還後にそのことが皇帝に伝わると、前軍将軍陳天福は棄市、左軍将軍劉明徹は免官・削爵のうえ東冶に付された。
  • 陳天福は皇帝の寵臣だったが、それでも誅されたため、内外は震え上がった。
  • 通事舍人劉係宗が軍に随行して被害地を慰撫し、賊に脅されて従っただけの百姓は一切罪に問わなかった。

閏月・二月:南北の王侯

  • 閏月癸巳、皇太子貞が邵陵王、皇孫昭文が臨汝公に立てられた。
  • 氐王楊後起が死に、その弟後明は白水太守となった。楊集始は北秦州刺史とされ、魏からも武都王・南秦州刺史として認められ、魏へ入朝した。
  • 二月己未、皇弟銶が晋熙王、鉉が河東王に立てられた。

二月:魏の三長制

  • 魏には郷党の制度がなく、宗主と督護を立てるのみで、民はしばしば戸口を隠していた。三十戸、五十戸をまとめて一戸として扱うようなこともあった。
  • 内秘書令李冲は、古法にならって五家を鄰、五鄰を里、五里を党とし、それぞれ鄰長・里長・党長を置き、郷人の中から強く慎み深い者を選ぶべきだと建議した。長には役免の特典を与え、課調の基準も明確にした。
  • 孤独・老疾・貧困者については、三長の内部で交代して養うことも提案した。
  • 群臣には反対が多く、急な法改正による混乱を恐れる声が上がったが、文明太后は、これによって隠戸をあぶり出し、幸運だけで負担を免れる者を止められると述べて支持した。
  • 甲戌、ついに党・里・鄰の三長制が施行され、戸籍が定められた。民衆は当初は苦しんだが、やがて課調が大いに軽くなり、上下ともに安んじた。

三月から四月:柔然使と魏の対外慎重論

  • 三月丙申、柔然が使者牟提を魏に送った。
  • その頃、敕勒が柔然に叛き、伏名敦可汗は自ら征討して西方の大漠まで追撃した。
  • 魏の左僕射穆亮らは、その隙を突いて柔然を討つべきだと主張したが、高閭は、秦漢のように天下が統一されているわけではなく、今は南に斉という敵がいる以上、深く虜庭に入るべきでないと諫めた。
  • 魏主も、兵はやむをえず用いる凶器であり、今は太平を継いだ以上、むやみに戦を起こすべきでないとして、使者を厚く遇して帰した。

四月:魏の服制整備

  • 四月辛酉朔、魏は五等の公服を制定した。
  • 甲子、法服を着して輦に乗り、南郊を祭った。
  • 癸酉、魏主は霊泉池に行幸し、戊寅に還宮した。

湘州蛮の反乱

  • 湘州の蛮が反乱したが、刺史呂安国は病気で討てなかった。
  • 丁亥、柳世隆が尚書左僕射から湘州刺史に転じ、これを討って平定した。

夏秋冬:魏の礼制拡充

  • 六月から七月にかけて、魏主は方山に再三行幸した。
  • 六月己卯、文明太后は皇子恂に名を賜い、大赦した。
  • 八月乙亥、魏は尚書の五等爵以上に朱衣・玉佩・組綬を支給した。
  • 九月辛卯、魏は明堂と辟雍を造営した。
  • 十一月、戸数に応じて地方官へ俸給を与える制度が議定された。
  • 十二月、柔然が再び魏辺を犯した。
  • この年、魏は中書学を国子学と改称し、州郡を再編して三十八州とした。河南に二十五州、河北に十三州が置かれた。