資治通鑑齊紀二 世祖武皇帝 永明 三年 485年

春正月:交州刺史李叔献討伐の命

  • 春正月丙辰、大司農劉楷を交州刺史とし、南康・廬陵・始興の兵を発して李叔献討伐に向かわせた。
  • 叔献は命を聞くと、数年の猶予を願い出て、銀の兜や孔雀の羽飾りなどを献上したが、皇帝は許さなかった。
  • 叔献は劉楷の襲撃を恐れ、本道を避けて間道から湘州を経て帰朝した。

魏の図讖・巫覡禁止

  • 戊寅、魏では図讖・秘緯の類をすべて焼き捨て、所持者は死罪とする詔が出た。
  • さらに、正統の経典に載らない巫覡や路上の卜筮も厳禁された。
  • 冯太后は『皇誥』十八篇を作り、癸未に太華殿で群臣へ頒布した。
  • 辛卯、斉では南郊を祭って大赦し、国学を再興して先師への釈奠を上公礼で行うことにした。

二月・三月:魏の諸王と学館

  • 二月、魏では皇子・皇孫で爵位を有する者に年禄の等差を設けた。
  • 三月丙申、魏主は弟たちを咸陽王・河南王・広陵王・潁川王・始平王・北海王に封じた。
  • 文明太后は学館を設け、師傅を選んで諸王を教育させた。なかでも拓跋勰は兄弟中もっとも賢敏で学問と文才に秀で、魏主から特に愛された。

四月・五月:総明観の廃止と王儉の学士館

  • 四月から五月にかけて、魏主は方山に行幸した。
  • 斉では、国学が再建されたことにより、宋以来の学術施設である総明観を五月乙未に廃止した。
  • 王儉は国子祭酒を兼ねており、その邸宅に学士館を開かせ、総明観にあった四部分類の書籍を移した。
  • さらに、その家をあたかも官府のように用いることまで許された。
  • 宋の後期以来、士大夫は文章を競い、経学を専業とする者が少なかったが、王儉は若いころから礼学と『春秋』を好み、言論・所作の端々まで儒者の気風を保っていた。
  • そのため、朝野ではふたたび儒学が重んじられるようになった。

王儉の政務手腕

  • 王儉は朝儀を撰定し、晋・宋以来の制度や故事に精通していた。政務処理は流れるようで、広く議論する際には必ず典拠を挙げ、八座や丞郎も異論を挟めなかった。
  • 令史の諮問や来客に同時に応じても滞ることがなく、発言も文章も美しかった。
  • 十日に一度は学館へ戻って諸生を試験し、儀容も堂々としていた。頭飾りの結い方や挿し方さえ朝野がまねた。
  • 王儉は、江南で風流の宰相といえば謝安のみだと語り、ひそかに自らをそれになぞらえていた。
  • 皇帝は彼を深く信任し、士流の登用はその奏上に逆らわなかった。

六月から八月:魏の対西方・均田議論

  • 六月庚戌、河南王度易侯が車騎将軍に進み、丘冠先が河南へ使者として送られ、柔然使も送り返した。
  • 七月癸未、魏は梁彌機の兄の子梁彌承を宕昌王とした。先に梁彌機の子彌博は吐谷渾に圧迫されて仇池へ逃れており、彌承が部衆に推されたため、魏は穆亮に兵を与えて吐谷渾を撃退し、彌承を立てて帰還させた。
  • 八月ごろ、魏では豪強のもとに戸口が隠れ住み、課役を逃れる一方で、豪家は公租以上の搾取をしていた。李安世が、飢饉と兼併で失われた田地を再配分し、争論の古い田は現有者に帰属させるべきだと上言した。
  • 魏主はこれをよしとして、均田制度を議する端緒となった。

冬十月:魏の均田制開始

  • 冬十月丁未、魏は使者を州郡に巡行させ、牧守とともに天下の田地を均等に分給させた。
  • 十五歳以上の男子には露田四十畝、女子には二十畝を支給し、奴婢や牛にも一定の基準を設けた。耕作地の輪作条件に応じて受給面積を増減し、老免・死亡の際には返還させた。
  • また男子には二十畝の桑田を与え、五十株の桑を植えさせた。桑田は世業として相続を認め、返還不要とした。
  • 官には近隣の公田を役職に応じて給し、交替時に引き継がせ、売買を禁じた。
  • これは後世の口分田・世業田の起点となる制度である。

年末の魏政と南朝の戸籍問題

  • 辛酉、魏の魏郡王陳建が死去した。
  • 魏使李彪らが再び斉に来た。
  • 十二月乙卯、魏では淮南王拓跋佗が司徒となった。
  • 柔然が魏塞を侵したため、任城王拓跋澄が拒んで追い払った。さらに氐羌が反乱したので、澄は梁州刺史として出てこれを平定した。
  • 斉では、太祖の時から黄籍の整理が続いていたが、現帝は即位後さらに校籍官を置き、一日に扱える件数まで定めて厳しく戸籍の再審査を進めた。
  • これが連年続いたため、民衆の怨みが高まり、中領軍系統の外監呂文度は、籍から排除された者を遠方守備に充てるよう奏請した。人々は罪を避けて逃亡し、富陽の唐㝢之が妖術で衆を惑わして叛乱を起こした。
  • 彼は富陽を落とし、三呉の戸籍外となった人々がこれに走って、勢力は三万人に達した。
  • 呂文度・茹法亮・呂文顕はみな奸佞で皇帝に寵任され、文度は兵権まで握って、領軍の地位を空虚なものにしていた。
  • この年、柔然では真可汗が死に、子の豆崙が立って伏名敦可汗と号し、年号を太平と改めた。