春正月:人事異動と竟陵王子良の文士集団
- 春正月乙亥、柳世隆が尚書右僕射となり、竟陵王蕭子良は護軍将軍・司徒兼領兵として西州に鎮した。
- 子良は若いころから清雅な気風を好み、賓客を厚遇した。才能ある文士たちがその門に集まり、西邸を開いて古器物や古服を多く置き、文化的なサロンのような場を作った。
- 范雲・蕭琛・任昉・王融・蕭衍・謝朓・沈約・陸倕らは、とくに親しく遇され、「八友」と呼ばれた。さらに柳惲・王僧孺・江革・范縝・孔休源らもここに出入りした。
- この一座には、名門や名士の子孫が多く含まれており、家柄と文才を兼ねた人々が集っていた。
子良の仏教信仰と范縝の無仏論
- 子良は仏教への信仰が厚く、高僧を招いて仏法を講じさせた。僧俗の集まりの盛況は江南でも未曾有というほどで、自ら僧に食事を分け、水を配ることすらあった。
- 世間では、宰相級の人物としては行き過ぎだと見る者もいた。
- 范縝は仏の存在を強く否定し、因果応報説にも懐疑的だった。子良が富貴貧賤の差を因果で説明しようとすると、范縝は同じ木の花が風に散って、あるものは御簾や敷物の上に落ち、あるものは汚れた場所に落ちるようなものだとたとえ、そこに因果を見ることはできないと論じた。
- 子良はこれに十分反駁できなかった。
- 范縝はさらに『神滅論』を著し、精神は肉体の作用にすぎず、刀がなくなれば切れ味が残らないように、形が滅べば神も存続しないと説いた。朝野は大いに騒ぎ、反論も多く出たが、ついに彼を屈服させられなかった。
- 王琰が祖先の神霊を知らぬのかと論難すると、范縝は、もし神霊の居所を知るならなぜそこへ身を投じて従わないのかと切り返した。
- 子良は王融を使って范縝に、このような議論は出世の妨げになるから捨てるよう勧めた。范縝は大笑いして、もし論説を売って官を得る気なら、中書郎どころかもっと高位にもなれたはずだと応じた。
蕭衍への高評価
- 蕭衍は計略を好み、文武両面の才幹を備えていた。王儉は彼を深く評価し、三十歳を過ぎればその貴さは言い表せないほどになるだろうと語った。
官職の交替
- 壬寅、柳世隆は尚書左僕射に移り、丹陽尹李安民が右僕射となり、王儉が丹陽尹を兼ねた。
魏の巡幸と使節
- 夏四月から五月にかけて、魏主は方山・鴻池などにしばしば行幸した。
- 五月甲申、魏は員外散騎常侍李彪らを斉へ派遣した。
六月:中書舍人「四戸」の専権
- 六月壬寅朔、中書舍人の茹法亮が望蔡男に封じられた。
- 当時、中書舍人四人がそれぞれ一つの省に居住し、「四戸」と呼ばれていた。茹法亮・呂文顕らはそこから重い権限を握り、朝廷の人事を左右した。
- 地方官はたびたび入れ替えられ、その赴任・離任に際して各地から多額の贈答が集まった。法亮は、一戸にいるだけで年に百万の利益になるのだから外官の俸禄など求める必要はない、と公言したほどだった。
- 後に天文異変があると、王儉は文顕らの私曲専横を強く非難し、災異は四戸に起因すると上奏した。皇帝は詔で応えたが、制度は改めなかった。
魏の班禄制度
- 魏では従来、戸ごとに帛・絮・糸・穀を納め、さらに州庫向けの帛も負担していた。
- 丁卯、魏主は旧典に基づいて俸禄制度を復活し、戸調を増やして官吏の俸給に充てることを定めた。同時に、賄賂・収賄の取り締まりを厳格化し、贓物一匹に達すれば死罪とした。
- 大赦も行われた。
秋から冬:魏の汚職摘発と高閭の建策
- 秋七月、斉では皇子子倫が巴陵王に立てられた。
- 九月、魏では班禄を十月から開始し、季ごとに支給することとした。
- 旧法よりもはるかに厳しい贓罪処分が実施され、守宰の貪汚を摘発するため使者が派遣された。外戚として勢力のあった秦・益二州刺史李洪之は、班禄後まもなく収賄で失脚し、平城に護送された。魏主は百官を集めて自ら罪状を数え上げた。
- その後も、収賄で死罪となる地方官は四十人を超え、俸禄を受ける官吏たちは恐れて身を慎むようになった。賄賂はほぼ絶えた。
- 一方で、他の犯罪については魏主は比較的寛大で、疑わしい案件は死刑を減じて辺境流刑とすることが多く、都での死刑執行は年に数人程度に抑えられていた。
- 淮南王拓跋佗が俸禄停止の旧制復活を求めたが、文明太后は群臣に諮問した。高閭は、俸禄がなければ廉潔な官も生活できず、結局は貪官だけが得をすると反論し、その意見が採用された。
- 高閭はさらに、蠕蠕の機動力を野戦で受けず、六鎮の北方に長城を築き、要地に小城と関門を設けるべきだと上表した。魏主は丁重な詔でこれに答えた。
冬十月:長沙王晃の私兵問題
- 冬十月丁巳、南徐州刺史長沙王晃が中書監となった。
- 先帝は臨終に際し、晃を都の近くに置いて遠方に出すなと命じ、宋が骨肉相残で弱ったために異姓に国を奪われたのだと戒めていた。
- 旧制では、在京の諸王には四十人の護衛しか許されなかったが、晃は武備を好み、南徐州からの帰還に際して数百人の武装兵を密かに伴って建康に入ろうとした。これが発覚し、兵器は江中に投棄された。
- 皇帝は激怒して処罰しようとしたが、豫章王嶷が涙ながらに助命を願ったため、大事には至らなかった。ただし、以後も特に寵遇されることはなかった。
- 議論する者は、皇帝の兄弟への扱いは魏の文帝よりは温情があり、漢の明帝には及ばないと評した。
武陵王曄と骨肉への皮肉
- 武陵王曄は多才だったが、粗暴で感情が激しく、皇帝に愛されなかった。
- 宴席で酔って地に伏し、貂の服で肉皿をさらうように食べたところ、皇帝が「肉で貂を汚した」と笑った。曄は「陛下は羽毛を愛して骨肉を疎んじられる」と答え、皇帝を不快にさせた。
- 曄は財を軽んじ施しを好んだため蓄えが少なく、後堂の山を「首陽」と名づけて、自らの貧しさを嘆く気持ちをにじませた。
高麗と益州情勢
- 高麗王璉は魏にも斉にも朝貢した。当時高麗は強勢で、魏が諸国の使者館を設けた際、斉使が第一、高麗使が第二とされた。
- 益州の大度獠は険阻を頼んで驕り、歴代刺史も抑えられなかった。陳顕達が刺史となり租税を求めると、獠の首長は、隻眼の刺史ですら自分たちに課税しなかったのに、片目の刺史などなおさら無理だと嘲って使者を殺した。
- 陳顕達は狩猟に出るふりをして夜襲し、男女老少を問わず斬った。
十一月:始興王鑑の赴任
- 十一月丁亥、皇帝は初めて始興王鑑を益州刺史に任じ、陳顕達を中護軍として召還した。晋以来、益州刺史はふつう名将が任じられる地だったが、今回は皇子が送られた。
- その前から韓武方という賊帥が千余人を集めて川を塞ぎ、郡県でも取り締まれなかった。鑑が上明に着くと韓武方は降伏し、側近たちは殺すよう勧めたが、鑑は信義を失うとしてこれを赦した。すると巴西の蛮夷たちも次々に帰順した。
- 鑑は十四歳での赴任だった。新城まで来たとき、陳顕達が兵を選って召還命令に従わないという流言が立ったため、鑑は張曇晢を派遣して様子を見させた。
- ほどなく陳顕達の使者が来ると、周囲はこれを捕えるよう勧めたが、鑑は顕達は朝廷に節義を立てた人で、そのようなことはしないと判断した。
- 張曇晢が戻って、顕達はすでに家を移して城外に出、殿下の到着を待っていると報告したため、鑑は安心して進んだ。
- 鑑は文学を好み、衣服や調度も質素な士人のようで、蜀の人々に喜ばれた。
年末の人事と豫章王嶷の待遇
- 乙未、魏の李彪らが再び来聘した。
- この年、豫章王嶷の封邑が四千戸に増やされた。
- 宋の元嘉年間には、諸王が内廷で平服に近い服で君主に会うことが許されていたが、この制は絶えていた。皇帝は嶷を特に親愛し、宮中の私宴では元嘉旧例に従ってよいと許したが、嶷は固辞した。皇帝が自邸に来た時だけ平服姿で侍した。
- 嶷は衣服・器物・制度にいたるまで必ず上表して許可を求め、専断を避けて節減に努めた。揚州を竟陵王子良に譲りたいとも願ったが、皇帝は生涯そのままでよいとして許さなかった。
- 嶷は容貌・威儀ともに優れ、百官の上に立つにふさわしい風采を備えていた。
- また交州刺史李叔献は、赴任後に外夷からの貢物を自ら横取りしていたため、皇帝は討伐を考え始めた。