資治通鑑宋紀十五 太宗明皇帝 泰始 七年 471年

二月 越州の新設

  • 交州・広州を分けて越州を置き、州治を臨漳に定めた。

明帝晩年の政治と猜疑

  • 明帝は諸王時代には寛厚で評判もよく、即位当初も義嘉派の多くを許し、才能に応じて旧臣同様に登用した。
  • しかし晩年になると猜疑心と残忍さが強まり、鬼神を信じ、凶事や不吉を連想させる文字・言葉を過度に忌避し、少しでも触れた者を処罰した。文字の形まで嫌って改めさせることもあった。
  • 淮水・泗水方面での対魏戦争で国家財政は疲弊し、百官の俸給も止められたが、宮中の奢侈は改まらなかった。器物は正用・副用など同じものを大量に作らせ、寵臣たちは賄賂をほしいままにした。
  • 皇子に恵まれなかったため、諸王の妾で妊娠した者を密かに宮中へ入れ、男子を産めばその母を殺し、寵姫の子として育てさせた。

二月 晋平王劉休祐の殺害

  • 病に伏した明帝は、幼い太子の将来を案じ、諸弟を深く警戒した。なかでも南徐州刺史の晋平王劉休祐は気性が激しく、かつて江陵で貪虐だったうえ、たびたび帝に逆らっていたため、帝は前々から抑えきれぬ憎しみを抱いていた。
  • 甲寅、岩山での狩りの帰り、帝は近習に命じて劉休祐を馬から落とさせ、取り囲んで殺させた。表向きは落馬事故のように装い、医師も派遣したが、到着時にはすでに絶命していた。
  • その後、司空を追贈し、礼をもって葬った。

三月 巴陵王劉休若への疑い

  • 都では、荊州刺史の巴陵王劉休若に「至尊の相がある」との流言が広がった。明帝はこれを伝え、劉休若は大いに恐れた。
  • 戊午、劉休若を南徐州刺史に移し、休祐の後任とした。
  • 側近の王敬先は、帝は重病で、近習たちは宗室を皆殺しにして私利を図ろうとしている、荊州の大軍を率いて朝廷を正せと劉休若に勧めた。劉休若は表面上うなずいたが、すぐ王敬先を捕えて奏上し、王敬先は誅殺された。

三月〜四月 北魏の使節と敕勒の反乱

  • 辛酉、北魏は員外散騎常侍の邢祐を宋へ派遣した。
  • 北魏では、殿中尚書の胡莫寒が西部敕勒から殿中武士を選ぶ際に賄賂をむさぼったため、部衆の怒りを買い、殺された。高平の仮鎮将奚陵も殺された。
  • 夏四月、諸部の敕勒がこぞって北魏に叛した。魏主は汝陰王元天賜に討伐を命じたが、前鋒の羅雲は偽降に遭って殺され、元天賜も辛うじて逃れた。

五月 建安王劉休仁の死

  • 晋平王の死後、建安王劉休仁はいっそう不安を募らせた。明帝もまた、近習の楊運長らとともに身後の政局を案じ、劉休仁が権力を握るのを恐れた。
  • 宮中でも役人たちは、帝の死後は劉休仁が実権を取ると見て、その側近との関係づくりに走った。帝はこれを聞いてますます憎んだ。
  • 戊午、帝は劉休仁を召し、夜は尚書下省に泊まって翌朝早く来るよう命じたが、その夜のうちに薬を送って自害させた。
  • 劉休仁は、帝が天下を得たのは誰の力かと罵り、孝武帝が兄弟やその子孫を滅ぼしたように、今またお前がそれを繰り返すなら宋の国運は長くないと嘆いた。
  • 帝は変事を恐れ、病身を押して端門に出て事の成り行きを見届けたのち、劉休仁の死を確認して宮中へ戻った。
  • 詔では、劉休仁が禁兵を結んで反逆を企て、恩に背いて自殺したと発表し、その子らを降封した。
  • さらに大臣や方鎮には、劉休仁と劉休祐が深く結んでいたこと、休仁が自らの不調時にひそかに喜んでいたことなどを並べ立て、やむなく処分したのだと弁明した。
  • とはいえ帝は劉休仁と若いころから親しく、殺した後もたびたび涙を流し、自分でも抑えられないほど嘆いた。

褚淵の召還と要職登用

  • 明帝は病勢が重くなると、旧来親しかった褚淵を急ぎ召し返した。
  • 対面した帝は涙ながらに、自分は危篤なので、乳母の着る黄色の上衣を着てもらいたい、つまり幼主の後見を託したいと述べた。
  • 帝は劉休仁誅殺の相談も褚淵に持ちかけ、褚淵は当初反対したが、帝の怒りを恐れて従った。
  • 庚午、袁粲を尚書令、褚淵を左僕射とした。

寿寂之・劉休祐の処分

  • 帝は勇健な寿寂之を嫌っていたところ、邏尉を勝手に殺した罪が奏上されたため、越州へ流す名目を立て、途中で殺した。
  • 丙戌、すでに死んでいた晋平王劉休祐を追って庶人に落とした。

六月〜七月 巴陵王劉休若の死

  • 巴陵王劉休若は京口に着いて建安王の死を知り、いっそう恐れた。
  • 明帝は、劉休若が温厚で人心をまとめる力があり、幼主の将来に脅威となりうると考えた。露骨な追討では命令に従わないおそれがあり、召還も猜疑を招くため、休若を江州刺史に移す形で手厚く召し寄せた。
  • 丁未、劉休若が建康に到着すると、乙丑、邸で毒を賜って死なせた。侍中・司空を追贈し、桂陽王劉休範を改めて江州刺史とした。
  • この時点で明帝の弟たちはほとんど尽き、残るのは凡庸と見なされていた休範だけとなった。

史論 宗室誅滅が招いた禍

  • 沈約は、文帝が彭城王義康の件で兄弟の間に深い溝を作り、それを前例として明帝が諸弟を次々と除いた結果、幼主が孤立し、ついには国運が傾いたのだと論じる。
  • 裴子野もまた、骨肉を滅ぼして他人を近づける亡国の常道を指摘し、兄弟を大切にしていれば宗廟が絶えることもなかったと評した。

七月 呉喜の誅殺

  • 呉喜は会稽平定や荊州攻略で功を立てていたが、会稽討伐の際に尋陽王子房らを現地で殺すと約束して生け捕りにしたことを、帝は内心怨んでいた。
  • さらに荊州平定後の略奪も莫大であり、寿寂之が殺されたことから自分にも禍が及ぶと恐れ、中散大夫への転任を願い出た。
  • ある者が蕭道成に北魏への二心があると讒言したため、帝は密かに毒酒を送って呉喜に自ら持参させた。呉喜は危険を悟って蕭道成に事情を打ち明け、自ら先に飲んで見せたため、蕭道成もこれを飲み、帝の疑いはひとまず解けた。
  • しかし呉喜が帰朝して蕭道成の潔白を保証したことがかえって帝の疑いを深め、結局内殿で歓談したのち賜宴し、まもなく殺した。
  • 詔では、呉喜は狡猾で、三呉で異様な人望を集めており、幼主の下では必ず危険な存在になるから、功があっても除かざるをえなかったと説明した。

北兗州設置と蕭道成の入朝

  • 戊寅、淮陰を北兗州とした。
  • 同時に蕭道成を召した。周囲は、最近朝廷が大臣を次々と誅しているので応じるなと勧めたが、道成は、帝が恐れているのは諸弟だけであり他人ではない、今は速やかに出頭すべきだと判断した。
  • また、骨肉の相残は天命の長続きしない兆しであり、近く大乱が起こるだろう、その時こそ力を尽くすべきだと語った。
  • 建康に着くと、散騎常侍・太子左衛率に任じられた。

八月 皇子の継嗣と北魏の禅譲騒動

  • 戊子、皇子劉躋を江夏王義恭の後継とした。
  • 庚寅、帝の病がやや軽くなり大赦があった。
  • 戊戌、皇子劉凖を安成王に立てたが、実際には桂陽王劉休範の子だった。
  • 北魏では、顕祖が黄老・仏教に傾き、帝位を叔父の京兆王子推へ譲ろうとした。
  • しかし任城王雲・源賀・陸馛・趙黒・高允らが、父子相伝の正統を乱し昭穆を紊すべきでないと強く諫めた。
  • 顕祖はついに太子宏を立てることに同意し、陸馛を太保として補佐にあてた。
  • 丙午、太子宏が即位し、改元して延興とした。
  • 丁未、顕祖は退位詔を出し、のち群臣の請により「太上皇帝」の尊号を受けた。
  • 己酉、崇光宮へ移り、簡素な住まいにして、北苑西山には鹿野の仏塔を建て、禅僧を住まわせた。

十月 北魏の敕勒再叛と源賀の建議

  • 北魏では沃野・統万の二鎮で敕勒が反乱を起こし、源賀が討って大破し、多数の首級・男女・家畜を得た。
  • その後、源賀は漠南に駐屯し、従来のように毎年秋冬に三道から出兵し春に帰る方式では往復の疲弊が大きいとして、諸州鎮から精兵を募って三城を築き、冬は訓練・春は耕作にあてる屯田策を進言したが、採用されなかった。

十月〜十一月 垣崇祖の淮北進出と湘宮寺

  • 庚寅、北魏は南安王楨を涼州および西域防衛の総責任者とした。
  • 宋では、垣崇祖に淮北経略を命じた。崇祖は郁洲から数百人で北魏領七百里の蒙山まで進出したが、十一月、北魏東兗州刺史于洛侯の攻撃を受けて引き返した。
  • 明帝は旧宅を湘宮寺とし、極めて華麗に造営した。十層の仏塔を建てようとしたが資力が足りず、二つに分けて建てた。

虞愿の直諫

  • 新安太守巣尚之が帰朝して帝に会った際、帝は湘宮寺こそ自分最大の功徳で、多くの費用をかけたと自慢した。
  • 側にいた会稽の虞愿は、これはすべて百姓が子を売り妻を質に入れて集めた金だ、仏に知覚があるならむしろ憐れむはずで、こんな仏塔に何の功徳があるかと率直に諫めた。帝は怒ったが、虞愿を長年の旧臣として最終的には許した。
  • また帝が囲碁を好むのを見て、尭が愚かな子の教育のために作らせた遊びであり、人主の嗜みではないとも諫めた。

王景文の不安と帝の言葉

  • 王景文は外戚として勢いが強く、たびたび身の危うさを感じて辞職を願ったが、帝は許さなかった。
  • 帝は、袁粲のように高位にあっても淡泊でいれば人心も静まるのだから、自分の心次第だと慰めた。
  • ただしこの評価は、袁粲の才を見誤っていた面もあったと後に批される。