資治通鑑宋紀十四 太宗明皇帝 泰始 六年 470年

正月から二月 祭祀制度の変更と太子婚立

  • 正月乙亥、南郊祭祀を二年に一度、明堂祭祀も隔年で行う新制度を定めた。
  • 二月壬寅、司徒の休仁を太尉・領司徒としたが、本人は固辞した。明帝の不信を察していたためである。
  • 癸丑、江智淵の孫女を太子妃に迎えた。
  • 甲寅、大赦を行い、百官に献物を命じた。始興太守孫泰伯は琴書だけを献じたため、明帝は怒って毒薬を賜ったが、のちに許した。

北方・西方の魏

  • 魏では陸定国を司空とした。定国は陸麗の子である。
  • また、長孫観に吐谷渾討伐を命じた。
  • 四月、魏は大赦を行い、長孫観は曼頭山で吐谷渾王拾寅を破った。拾寅は敗走し、別駕康盤龍を入貢に遣わしたが、魏主はこれを拘禁した。
  • 癸亥、宋では皇子爕を晋熙王に立て、魏にいる晋熙王昶の後を継がせた。
  • 五月、魏は皇弟長楽を建昌王に封じた。

六月 王景文入相と宮中の醜態

  • 六月癸卯、王景文を尚書左僕射・揚州刺史とし、袁粲を右僕射とした。
  • 明帝は宮中で大宴を開き、婦人の裸体を並べて見物した。王皇后が扇で顔を隠すと、明帝は怒った。
  • 皇后は、楽しみ方はほかにもあるのに、姉妹親族が集まる場で裸婦を見せて笑うのは下品であり、寒陋な家の遊びだと諫めた。
  • 明帝は激怒したが、王景文は妹である皇后が家では気弱だったのに、今はよく剛直であると語った。

蕭道成への疑い

  • 南兗州刺史蕭道成は長く軍中にあり、民間では異相があり将来天子になるという噂が立っていた。
  • 明帝は疑って黄門侍郎・越騎校尉として召そうとした。道成は入朝を恐れて内遷したくなかったが、荀伯玉の策で、数十騎を魏境に入れて標榜を立てさせた。
  • 魏が果たして遊騎数百を国境に出したので、道成はこれを上聞し、明帝はやむなく道成を引き続き本職に留めた。
  • 秋九月、道成を淮陰へ移鎮させ、侍中・中領軍劉勔を都督南徐兗等五州諸軍事として広陵に鎮させた。

九月 総明観の設置

  • 戊寅、総明観を建て、祭酒一人を置き、儒学・玄学・文学・史学の学士をそれぞれ十人ずつ置いた。

柔然遠征

  • 柔然の部真可汗が魏に侵攻した。魏主は群臣に諮問した。
  • 南平公目辰は、天子の親征は都を危うくするとして、重きを持して守り、敵が深入りして兵糧が尽きるのを待って討つべきだと主張した。
  • これに対して張白沢は、荒愚の外敵に対して万乗の君が城に籠もるのは威信を損なうとし、親征こそ敵を震え上がらせると説いた。魏主は後者を採用した。
  • 魏主は諸軍を東西に分けて進め、自ら女水のほとりで柔然と戦い、大勝した。五万級を斬り、降者一万余、馬や兵器も莫大であった。
  • 十九日で往復六千余里を行軍し、女水を武川と改名した。
  • ただし司徒東安王劉尼は酩酊して軍陣を整えられず、免官された。

魏の官吏統制と張白沢の諫言

  • このころ魏の百官には俸禄が十分に支給されておらず、廉白を保つ者は少なかった。
  • 魏主は、監督下の者から羊一口や酒一斛を受け取った官吏は死刑、贈った側も従犯として論ずると定め、さらに尚書以下の罪を告発した者には、その官位の軽重に応じて官を与えるとした。
  • 張白沢は、俸禄もないままに贈答を厳罰化し、告発者に地位を与えれば、奸人が忠臣をうかがって誣告し、士気を失わせるだけだと諫めた。
  • また、古く下士にも代耕の禄があったことを引いて、旧法に戻し、廉吏に俸を支給すべきだと述べた。魏主はその意見を採り、新法を取りやめた。

十月 武陵王立嗣と慕容白曜誅殺

  • 十月辛卯、世祖の後継が絶えたことを惜しみ、皇子智随を世祖の子として武陵王に立てた。
  • 魏では、かつて乙渾が専政していたころ慕容白曜がややこれに近かったことを、魏主は恨んでおり、ついに謀反の名で白曜と弟如意を誅した。

李敷・李訢事件の回顧

  • 魏の南部尚書李敷、儀曹尚書李訢、盧度世はいずれも才幹により世祖・顕祖に寵任され、機密に参与していた。
  • のちに李訢が相州刺史として賄賂を受けたことで告発され、李敷はこれをかばった。
  • 顕祖は訢を檻車で召し、罪は死刑相当となったが、そのころ李敷の弟李奕が馮太后に寵せられていた一方で、帝意は李敷兄弟から離れていた。
  • 有司は李訢に、李敷兄弟の陰事を告げれば死罪を免じるとほのめかした。訢は恩義から当初これを拒み、自害すら試みた。
  • しかし娘婿裴攸の勧めで、かつて李敷に敗れて恨みを抱く馮闡に探らせ、さらに趙郡の范標が三十余条の罪状を列挙したため、顕祖は激怒して李敷兄弟を誅殺した。
  • 李訢は死刑を免れ、鞭打ち・髠刑のうえ配役とされたが、まもなく再び太倉尚書として南部の事務を兼ねた。

年末の諸事

  • 魏の陽平王新成が死去した。
  • 宋では周山図に兵を与えて浹口に屯させ、田流を討って平定した。
  • 柔然は于闐を攻め、于闐は使者素目伽を魏へ送って救援を求めた。
  • 魏の公卿は、于闐は平城から極めて遠く、柔然は野戦略奪を得意とするだけで、もし城を落とせるなら既に滅んでいるはずだから、救援軍を送っても間に合わないと議した。
  • 魏主はこの議を使者にも示し、当座の救援は不可能だが、一、二年のうちに自ら強兵を率いて患いを除くと約束し、警戒を怠らず大挙を待つよう于闐に命じた。