資治通鑑宋紀十五 太宗明皇帝 泰豫 元年 472年

正月 改元と朝賀

  • 正月甲寅朔、明帝は病が長引いて平癒しないため、改元して泰豫とした。
  • 戊午、皇太子が東宮で四方からの朝賀を受け、貢納・会計報告もここで受けた。

大陽蛮桓誕の北魏帰附

  • 大陽蛮の酋長桓誕が、沔水以北・滍水や葉県以南の八万余落を率いて北魏に降った。
  • 桓誕は自らを桓玄の子と称し、かねて蛮中に潜んで智略で諸蛮の尊崇を集めていたという。
  • 北魏は彼を征南将軍・東荊州刺史・襄陽王とし、郡県の官吏選任も許した。韋珍を派遣して新附の民を安撫させ、諸事はよく整った。
  • 以後、諸蛮は魏を後ろ盾として宋領への侵擾を行うようになった。

二月 北魏の柔然追撃

  • 柔然が北魏に侵入すると、太上皇は自ら出征した。東部敕勒も叛いて柔然へ走った。
  • 太上皇は石磧まで追ったが追いつけず、引き返した。

二月 王景文の死

  • 明帝は重病ののち、自身が死ねば皇后の臨朝と外戚王景文の執政が起こると恐れた。王景文は皇太后の兄で門地も強く、異図を抱くかもしれないと疑われた。
  • 己未、使者に薬を持たせて王景文へ自殺を命じた。
  • 明帝は手ずから書いて、これまで厚く遇してきたが、あなたの一門を全うさせるためにこの処分をするのだと伝えた。
  • 王景文は客と碁を打っていたが、書を見ても平然と対局を終え、碁石をしまってから初めて死を賜る詔を客に示した。
  • 親兵の焦度や趙智略は挙兵して抗おうとしたが、王景文は一族百口のためだと言って退け、詫びの返書をしたためたのち薬を飲んで死んだ。開府儀同三司を追贈された。

夢による誅殺

  • 明帝は夢で、豫章太守劉愔が反乱すると告げられたとし、目覚めると使者を送ってその地で殺させた。

四月 垣崇祖の転任と明帝の崩御

  • 庚午、北魏皇帝が籍田を耕した。
  • 宋では垣崇祖に徐州の政務を行わせ、龍沮へ移して守らせた。
  • 己亥、明帝は危篤となり、桂陽王劉休範を司空とし、褚淵を護軍将軍、劉勔を右僕射に加えた。
  • また、褚淵・劉勔・袁粲・蔡興宗・沈攸之に遺詔を託し、蕭道成を右衛将軍・衛尉とし、機密政務をともに掌らせた。
  • その夜、明帝は三十四歳で崩御した。
  • 庚子、太子が即位し、大赦が行われた。これが蒼梧王で、時に十歳であった。

新帝即位後の政局

  • 袁粲と褚淵が政権を握り、明帝の奢侈の弊を改めて節倹を進めようとした。
  • しかし阮佃夫・王道隆ら近習が賄賂政治を続け、これを止めることはできなかった。
  • 乙巳、安成王劉凖を揚州刺史とした。
  • 戊寅、明帝を高寧陵に葬り、廟号を太宗とした。
  • 六月乙巳、皇后を皇太后とし、妃の江氏を皇后に立てた。

秋〜冬 北魏・柔然・沈攸之

  • 七月、柔然の部帥無盧真が三万騎で北魏に侵入したが、敦煌鎮将尉多侯・晋昌守将薛奴がこれを撃退した。
  • 戊午、北魏皇帝は陰山へ赴いた。
  • 戊辰、宋では帝の生母陳貴妃を皇太妃とし、諸国の太妃は太姫と改称した。
  • 王道隆は、強直な蔡興宗を上流に置きたくなかったため、閏月甲辰、名目上は中書監に移し、荊州刺史には沈攸之を任じた。蔡興宗は辞退して受けなかった。
  • 沈攸之は夏口から荊州へ移ると、郢州の精兵・兵器・良馬を多く帯同し、蛮討を名目に大規模な軍備拡張を行った。
  • 重税で武器・甲冑を整え、朝廷に送るべき物資も留め、戦艦・軍馬・倉庫を充実させた。流民・亡命者をかくまい、逃亡者は遠近を問わず追捕した。
  • 政務は苛烈で、士大夫にも鞭打ちや面罵を加えたが、吏治は明敏で盗賊は息み、夜も戸を閉ざさぬほどだった。
  • ただし五溪蛮への賧罰を厳しくし、魚塩の利益も禁じたため、蛮族の怨みを招いた。酉溪蛮では王位簒奪が起き、群蛮が武陵城下まで侵攻したが、武陵内史蕭嶷が張英児を派遣してこれを平定し、正統の田都を立てて鎮めた。

八月〜十一月 蔡興宗死去と北魏の対柔然戦

  • 八月戊午、蔡興宗が死去した。
  • 九月辛巳、北魏皇帝は平城へ帰還した。
  • 十月、柔然が再び北魏に侵入し五原まで達すると、太上皇が自ら討った。漠を越えようとすると柔然はさらに北走したため、追いきれず帰還した。
  • 丁亥、北魏は太上皇の弟の略を広川王に封じた。
  • 己亥、宋では劉秉を尚書左僕射とした。彼は宗室で清名があり穏和だったため、袁粲・褚淵が引き立てたが、実務能力は乏しかった。

阮佃夫の専権

  • 中書通事舎人の阮佃夫は給事中・輔国将軍に進み、権勢をいよいよ強めた。
  • 自派の張澹を武陵郡に用いようとし、袁粲らが反対しても、佃夫は「勅命」と称して押し切った。
  • 袁粲らはそれ以上抗えなかった。

北魏の祭祀整理と宋の改元予兆

  • 北魏では祠祀が千を超え、年間に膨大な数の牲畜が用いられていた。太上皇は殺生の多さを嫌い、天地・宗廟・社稷以外の祭祀では牲をやめ、酒と乾肉のみを供えるよう命じた。
  • 宋の蒼梧王はこののち改元することになる。