資治通鑑宋紀十四 太宗明皇帝 泰始 五年 469年
正月 藉田と東陽陥落
- 正月癸亥、明帝は藉田を耕し、大赦を行った。
- 沈文秀は東陽を守って三年にわたり魏軍に耐えた。外援はなく、兵士たちは昼夜戦い続け、甲冑に虱がわくほど困窮しても離反しなかった。
- 乙丑、魏軍はついに東陽を陥落させた。沈文秀は武装を解き、衣冠を正して節を持ち、斎内に座して捕縛を待った。
- 魏兵が沈文秀の所在を問うと、文秀は自ら名乗った。慕容白曜の前に送られて拝礼を求められても、両国の大臣同士なのだから拝む理由はないと拒んだ。
- 白曜はその節を感じて衣服を返し、食事を与えたうえで平城に送った。魏主は、いったん降伏を申し出ながら再び拒んだ罪を責めたが赦し、初めは粗末な待遇にとどめたものの、のちにその不屈を重んじて外都下大夫に任じた。
- これにより、青・冀の地はすべて魏に入った。
二月 慕容白曜の青州経営と魏の租税改革
- 魏の和其奴が死去した。
- 慕容白曜は都督青・斉・東徐三州諸軍事、征南大将軍、開府儀同三司、青州刺史となり、済南王に進んだ。
- 白曜は統治に手際があり、東方の人々は安心した。宋への未練を残していた民心も、よく撫育されたことでしだいに静まった。
- 魏では天安以後たびたび旱害と飢饉があり、さらに青徐での戦争で山東の民が疲弊していたため、顕祖は貧富に応じて三等に分ける租税法を定めた。
- 上等の者は平城へ、中等は他州へ、下等は本州へ納めることとし、従来の常賦以外の雑調十五種をすべて廃した。これにより民力はやや回復した。
廬江王禕の陰謀
- 河東の柳欣慰らが反乱を図り、太尉廬江王禕を擁立しようとした。
- 禕は、自分が明帝の兄であるのに軽んじられていることに不満を抱き、欣慰らと内通していた。
- 征北諮議参軍杜幼文がこれを告発し、丙申、禕は車騎将軍・開府儀同三司・南豫州刺史へ降格され、宣城へ出鎮することになった。楊運長が腹心として兵を率い、その監視に当たった。
- 柳欣慰らは誅殺された。
三月から四月 豫州戦線
- 三月、魏軍が汝陰を侵したが、太守楊文萇がこれを撃退した。
- 四月丙申、魏は大赦を行った。
五月 青斉の住民移配と仏教政策
- 五月、魏は青・斉の民を平城へ移し、升城・歴城の民が桑乾を望む地に平斉郡を置いて住まわせた。
- それ以外の者の多くは奴婢として百官に分け与えられた。
- 沙門統の曇曜は、平斉戸などのうち年ごとに穀六十斛を僧曹に納める者を僧祇戸とし、その穀を僧祇粟として凶年の救済に用いるよう上奏した。
- また、重罪人や官奴を仏図戸として諸寺の掃除・雑役にあてることも求め、魏主はともに許可した。以後、僧祇戸や寺戸は州鎮の各地に広がった。
六月 太子立后・廬江王禕の最期
- 六月、魏は皇子宏を太子に立てた。
- 宋では沈攸之が郢州刺史となった。
- 明帝はさらに有司に命じて、廬江王禕が怨みを含む言葉を発したとして追及させたが、いったん徹底捜査は許さなかった。
- そののち丁丑、禕は官爵を奪われ、大鴻臚が詔を奉じて罪を責め、その場で自殺を強いられた。子の充明も廃されて新安へ流された。
秋冬 和親再開と淮陰の強化
- 十月朔、再び日食があった。
- 魏の頓丘王李峻が死去した。
- 十一月丁未、魏は再び使者を送り、和親を修復した。これ以後、南北の使者は毎年往来するようになった。
- 閏月、孟陽を兗州刺史とし、初めて淮陰を治所とした。これは兗州本来の治所である瑕丘を失ったためである。
十二月 建安王休仁の退任
- 十二月、司徒の建安王休仁は揚州刺史を解かれた。
- 休仁は明帝と年齢も近く、もとより親しく、景和年間には明帝が禍を避けるのを助け、泰始初年の内乱でも自ら矢石に当たって大功を立てたため、朝野の信望がきわめて厚かった。
- そのため明帝は次第にこれを快く思わなくなり、休仁はその意を悟って自ら揚州の解任を願い出た。
- 己未、桂陽王休範が揚州刺史となった。
三巴校尉設置と孫謙の治政
- 荊州の巴東・建平、益州の巴西・梓潼の一部を分けて三巴校尉を置き、白帝を治所とした。三峡方面の蛮獠が毎年掠奪を行っていたためである。
- 孫謙が巴東・建平二郡太守に任じられた。赴任に際して千人を募って帯同するよう命じられたが、孫謙は、蛮夷が帰服しないのは朝廷の対応が節を失っているからで、兵を煩わせる必要はないとして固辞した。
- 着任後は恩信を開き布き、蛮獠はこぞって懐き、金宝を贈ろうとしたが、孫謙は慰撫するだけで受け取らなかった。
東南の海賊
- 臨海の賊帥田流が東海王を称し、海塩を掠め、鄞令を殺したため、東方一帯は大いに動揺した。