資治通鑑宋紀十一 世祖孝武皇帝 大明 三年 459年

正月・兗州の戦いと朝廷人事

  • 春正月、兗州軍は高平で北魏の皮豹子と戦ったが敗れた。
  • これにともない、柳元景が尚書令、劉遵考が領軍将軍に任じられた。
  • 北魏では河南公の伊馛が死去した。

三月・王畿の再編

  • 揚州の六郡を王畿とし、従来の東揚州をあらためて揚州とし、州治を会稽へ移した。これは先年の星変を気にかけた処置であった。
  • 義興太守の垣閬が兗州刺史となった。垣閬は垣遵の子である。

四月・竟陵王誕への疑惑

  • 北魏では皇帝が弟の子推を京兆王に立てた。
  • 一方、宋では竟陵王劉誕が皇帝の猜疑を悟って密かに備えを進め、北魏侵攻を口実に城郭修築・壕の浚渫・兵器整備・食糧備蓄を行った。
  • 誕の記室参軍江智淵はその異志を察して休暇を願って建康へ帰り、のち中書侍郎に抜擢された。沈懐文はその人格を高く評価していた。江智淵は江夷の一族で、若くして節操と行いで知られた。
  • 当時、都では誕の反意をうわさする声が満ちていた。

誣告を利用した誕追及

  • 呉郡の劉成が、子の息道龍がかつて誕に仕えた際、石頭城で天子の儀仗のようなものを整え、警蹕の練習を見たと上書した。だがこれは、誕が揚州刺史時代のことをこじつけた誣告とみられる。
  • また豫章の陳談之は、弟の詠之が誕の側近として、皇帝の年齢や諱を書いて巫者の家で呪詛したのを見て密告し、そのため誕に殺されたと訴えた。これも、誕に殺された者の親族による報復のための誣告と考えられる。
  • 皇帝はこれを受けて誕の罪を有司に奏させ、廷尉で裁くよう求め、ひとまず爵位を侯に落として封国へ赴かせる詔を出した。

広陵での挙兵

  • だが詔書が正式に届く前に、羽林禁兵を垣閬に付し、兗州赴任を名目として、給事中の戴明宝とともに広陵の誕を急襲させた。
  • 戴明宝は夜中、誕の典籤の蔣成に連絡し、翌朝門を開いて内応するよう求めたが、蔣成はこれを府舍人の許宗之に告げ、許宗之が誕へ通報した。
  • 誕は驚いて起き、養っていた数百の私兵を集め、蔣成を捕らえて兵を整えた。
  • 夜明けに戴明宝と垣閬が精兵数百で急襲したが、城門は開かず、誕はすでに兵を城上に並べていた。誕は門上で蔣成を斬り、徒刑囚や繋囚を赦して戦力に加え、門を開いて垣閬を討ち、これを殺した。戴明宝は間道から逃げ帰った。

朝廷の討伐態勢

  • 朝廷は内外に厳戒態勢を敷き、始興公沈慶之を車騎大将軍・開府儀同三司・南兗州刺史として討伐軍を率いさせた。
  • 皇帝自身も禁兵を統率して宣武堂に駐した。
  • 司州刺史劉季之は、もと誕の旧将で、宗慤とも不仲であったため、誕の反乱を聞いて自分が疑われることを恐れて官を捨て帰順したが、盱眙太守鄭瑗に誕との共謀を疑われて殺された。

沈慶之の進軍と誕の主張

  • 沈慶之が欧陽まで進むと、誕は慶之の同族沈道愍に書を持たせ、玉環刀を贈って説得を試みたが、慶之は逆にその罪を並べて退けた。欧陽は江淮水運上の要地で、のちの真州付近にあたる。
  • 誕は城外の町を焼き、住民を城内に押し込み、籠城態勢に入った。また各地に檄を送り、遠近の勢力を糾合しようとした。
  • 山陽内史梁曠には、広陵にいる妻子を人質にして誘降を迫ったが、梁曠は使者を斬って拒否したため、誕はその一家を滅ぼした。
  • 誕は城外に上表を投じ、自分は讒言で罪を着せられ、無名の小人物に急襲されたのでやむなく兵を挙げたのだと訴えた。さらに兄弟なのに異民族のように扱われたと恨み、宮中の醜聞までほのめかしたため、皇帝は激怒した。
  • 建康にいた誕の近親や腹心の家族は、同籍の一族・朞親にいたるまで多数処刑され、死者は数千に及んだ。

包囲戦の進展

  • 沈慶之が城下に到着すると、誕は楼上から老齢の慶之に出陣の苦労を問い、慶之は「朝廷はお前を若者が出るほどの敵とも見ていない」と言い返した。
  • 皇帝は誕が北魏へ逃れるのを恐れて、その退路を断つよう命じた。
  • 慶之は白土、新亭へと陣を進め、宗慤・劉道隆らも兵を率いて合流した。沈僧明も援軍を送った。
  • 誕はあらかじめ「宗慤は自分の味方だ」と兵に言い聞かせていたが、宗慤は城を巡って自ら名乗り、偽りを打ち砕いた。

誕の脱出失敗と内部の離反

  • 誕は諸軍の集結を見て、一時は城を棄てて海陵方面へ逃れようとし、中兵参軍申霊賜に守備を任せ、自ら数百騎歩兵を率いて北門を出た。
  • だが兵たちは離脱を望まず、口々に帰城を求めた。誕が「戻るのは容易だが、力を尽くせるか」と問うと皆が承諾したため、誕は城へ戻って壇を築き、血をすすって誓いを立てた。
  • 誕は府州の文武に加秩し、主簿劉琨之を中兵参軍にしようとしたが、琨之は老父が朝廷にいるため忠孝を両立できないとして拒絶した。十余日幽閉されても受命せず、ついに殺された。
  • 垣護之・殷孝祖ら、北魏から戻った将軍たちも沈慶之の指揮下に入った。
  • 誕は慶之に食糧を届けさせたり、函表を投じて朝廷への取り次ぎを頼んだが、慶之は詔命を受けた身として拒んだ。

顔竣の失脚と死

  • 東揚州刺史顔竣は母喪で帰京していたが、以前から不満の言葉があり、王僧達の死に際の証言もあって、庾徽之の弾劾により免官された。
  • さらに誕の反乱を機に、皇帝は顔竣が誕と通じたと決めつけ、五月に逮捕して廷尉へ送り、先に足を折ってから死を賜った。妻子は交州に流され、男子の口も宮亭湖で沈められた。

六月〜七月・広陵総攻撃

  • 六月、北魏主は陰山へ赴いた。
  • 皇帝は桑里に三つの烽火台を設け、外城攻略・内城攻略・誕生捕の段階ごとに烽を上げよと命じ、たびたび急かした。
  • 慶之は東門を焼き、壕を埋め、攻城路を築き、行楼や土山など攻城具を整えたが、長雨で進まなかった。皇帝は庾徽之に命じて慶之罷免の奏を出させ、あえて不問として彼を奮起させた。
  • 七月に雨が止んでも城が落ちないため、皇帝は自ら渡江出征しようとしたが、太宰義恭が強く諫めて思いとどまらせた。

籠城側の忠義と惨事

  • 誕が最初に使者を拒んだ時、記室参軍賀弼は強く諫めたが、誕は刀を抜いて威嚇した。
  • 戦いが続くと、将佐の多くは城を越えて降伏したが、賀弼は「挙兵自体には賛成できないが、厚恩を受けた以上、背くこともできない」として毒を飲んで自殺した。
  • 参軍何康之は官軍を迎え入れようとして失敗し、城門を破って降伏した。誕は何康之の母を高楼上に置いて食を与えず、母は数日子を呼び続けて死んだ。
  • 中軍長史范義は、母妻子が城内にいてもなお逃げず、「人の臣下たる以上、母を捨てず、君にも背かない」と言って節を守った。

七月乙巳・誕の最期

  • 沈慶之は自ら矢石を冒して先頭に立ち、七月乙巳、まず外城を破り、その勢いで小城も落とした。
  • 誕は兵が侵入したと聞き、後園へ逃れたが、隊主沈胤之らに追いつかれて傷を負い、水中へ落ちたところを引き出されて斬られた。誕の母と妻も自殺した。

広陵平定後の虐殺

  • 広陵平定を聞いた皇帝は宣陽門から出て左右に万歳を唱えさせたが、侍中蔡興宗だけは同意せず、「今日なすべきは涙して誅することで、万歳ではない」と諫めた。
  • 皇帝は不快に思い、誕の姓を劉から留に貶めたうえ、広陵城中の士民を老幼の別なく皆殺しにするよう命じた。
  • 沈慶之が五尺以下の子どもだけは助けるよう求めたため、それだけは許されたが、男子はほぼ皆殺し、女子は軍功の賞として配分され、なお三千余人が殺された。
  • 長水校尉宗越は処刑の際、腹を裂き目をえぐるなど残忍なやり方を好み、その首級は石頭城南岸に積まれて京観とされた。沈懐文が諫めても聞き入れられなかった。

余波

  • 誕は敗北を予期して、黄門呂曇済に世子景粹を託して民間へ隠させたが、同行者たちは逃げ、呂曇済だけが十余日背負って守った末に捕らえられ、景粹とともに斬られた。
  • 臨川内史羊璿は、誕と親しかった罪で獄死した。
  • 梁曠は後将軍に抜擢され、劉琨之には給事黄門侍郎が追贈された。
  • 蔡興宗は広陵慰撫を命じられ、旧知の范義の遺体を収めて豫章へ送り返した。皇帝に王法に触れるととがめられても、故交を葬るのは当然だと答え、皇帝も恥じた。
  • 宗越は酷虐である一方、軍営の整備はきわめて厳整だったという。
  • 辛未、大赦が行われた。続いて劉秀之が尚書右僕射、沈慶之が司空となり、南兗州刺史はそのままとされた。

秋以後の朝廷と制度

  • 八月、北魏主は雲中へ赴いて平城へ帰還した。
  • 九月、玄武湖北に上林苑を築いた。
  • かつて南郊壇が巳位にあったのを、徐爰が非礼と論じて牛頭山西、宮城の午位へ移した。
  • のち廃帝即位後、旧地が吉地とされて元の場所へ戻された。
  • さらに荀万秋に五路の車を造らせ、金根車に似せて羽葆蓋を加えたが、古礼には合わないと見られた。