資治通鑑宋紀十 世祖孝武皇帝上 大明 二年 458年

春正月 北魏の禁酒・密察政治

  • 正月朔、北魏は酒造・酒売・飲酒を全面的に禁じ、違反者は皆斬ると定めた。婚喪などの行事のみ、日数を限って例外を認めた。
  • 北魏主は、士民が酒のために争い、国政の議論まで乱れることを理由にこれを断行した。
  • また内外の候官を増置し、各曹や州鎮を密かに監察させた。役人たちは時に微服で官府・寺署の間にまぎれ込み、百官の過失を探った。
  • 有司は厳しく取り調べ、拷問で自白を取った。百官で賄賂が二丈に満つれば皆斬るとし、律令に七十九章を増加した。

春 北魏の東巡

  • 乙卯、北魏主は広寧温泉宮へ赴き、さらに平州を巡った。平州はこの時、遼西・北平の二郡から成っていた。
  • 庚午、黄山宮に至った。
  • 二月、碣石山に登って滄海を観た。
  • その後、南下して信都へ至り、広川で狩猟した。
  • 乙酉、褚湛之を尚書左僕射とした。
  • 丙戌、建平王宏は病気で尚書令を辞し、三月丁未に死去した。
  • 丙辰、北魏高宗は平城へ戻り、太華殿を起こした。

高允の諫言

  • 太華殿の造営にあたり、給事中郭善明は迎合して大土木を勧めた。
  • 中書侍郎高允はこれに反対し、建国当初でさえ農閑期を待って建設したのに、今は永安前殿・西堂温室・紫楼で十分であり、もし拡張するにしても漸進的であるべきだと諫めた。工事に二万人、補給にさらに倍の民力が要ることを挙げ、帝の留意を求めた。
  • 帝はこれを受け入れた。
  • 高允はもとより切諫を好み、朝廷に不便があればたびたび召見を求めた。帝もしばしば左右をしりぞけて一日中話を聞き、ときにはその言葉が耳に痛くて扶け出させることがあっても、なお厚遇した。
  • 帝は群臣に対し、父に過ちがあれば子は人前で書面を出すのではなく、密室で諫めるものだ、君臣の間も同じであり、上表して君の短を世に示すのは忠ではないと述べ、高允こそ真の忠臣だと評した。
  • 高允はともに徴された游雅らがみな高位封侯となる中、長く郎官にとどまっていたが、帝はその功を思い、群臣の面前で、お前たちは弓刀を執って立つだけで、諫めることもなく、機嫌のよい時に官爵を乞うばかりだと叱り、高允を中書令に任じた。

高允の清貧と人物評

  • 当時の北魏百官には俸禄がなく、高允は子らに薪取りをさせて生計を立てていた。
  • 司徒陸麗がその貧しさを奏上すると、帝は直ちに高允の家を訪れた。草屋数間、粗末な布団、台所には塩菜しかなく、帝は嘆いて帛五百匹・粟千斛を賜り、長子の高悦を長楽太守に任じた。高允は辞退したが許されなかった。
  • 帝は高允を重んじて「令公」と呼び、名を呼ばなかった。
  • 游雅は、高允は四十年交わっても喜怒の色を見せず、内には文明があり外には柔順であるが、いざ崔浩事件のような危急に際しては、理を明晰に述べて帝を動かした、真の風節があったと讃えた。
  • さらに宗愛が権勢を振るった時、百官が庭に並んで拝する中、高允だけは階に上って長揖したという。游雅は、これをもって汲黯が衛青に抗礼したことになぞらえ、人物は容易に見抜けぬものだと感嘆した。
  • 四月、北魏の東平成王陸俟が死去した。

夏 宋の官制改変

  • 四月、皇子の子綏を安陸王に立てた。
  • 孝武帝は臣下に権が集まるのを嫌い、六月、吏部尚書を二人に分け、都官尚書謝荘と度支尚書顧覬之に任じた。また五兵尚書を廃した。
  • もともと散騎常侍は侍中に準ずる重職だったが、後には閑散職となって人選も軽くなっていた。帝はその地位を重んじ直そうとして、名士の孔覬・王彧を任じた。
  • しかし蔡興宗は、選曹は実権が重く、常侍は閑淡であるから、名だけ変えても実は変わらず、人心は動かないと評した。実際、その後も常侍の価値は上がらず、選部の重みも従来どおりだった。
  • 裴子野は論じて、周・漢では地方で才能を積み上げ、多くの目で人物が選ばれたので失敗が少なかったが、魏晋以後は一司に選挙が集中し、門第と交際ばかりが重視される風になったと批判した。孝武帝の二分も、実質を変えない小手先の措置にすぎないとする。

夏六月 妖妄事件と僧尼統制

  • 南彭城の民・高闍と沙門曇標が妖言で人心を惑わし、殿中将軍苗允らとともに乱を企て、高闍を帝に立てようとしたが、発覚して皆誅された。死者は数十人にのぼった。
  • これを受けて、朝廷は沙門の大規模な淘汰を命じ、戒律を守り修行の厳しい者以外は還俗させるよう詔した。
  • ただし尼僧は宮中に頻繁に出入りしていたため、この法は結局徹底されなかった。

王僧達の失脚と門地論

  • 中書令の王僧達は、幼くして聡明、文章にも長けたが、放縦で礼法に拘らなかった。帝の即位当初には僕射に抜擢され、顔竣・劉延孫より上位に置かれた。
  • 彼は自分の才地が当代第一だと考え、早くも宰相の地位を望んだ。しかし護軍に移されると不満を募らせ、外任を求め続け、帝の不興を買ってしだいに左遷され、五年で七度も官を移され、二度弾劾されるに至った。
  • 王僧達は恥辱と怨恨を深め、上表文でも言辞に高低をつけ、しばしば朝政を批判した。
  • ちょうど路太后の兄の子が王僧達を訪ねて榻に上がろうとすると、僧達はこれを担ぎ出して捨てさせた。路太后は激怒し、帝に強く僧達の死を求めた。
  • そこへ高闍の反乱事件が起こったため、帝はこれに乗じて、王僧達が高闍と通謀したと誣して捕え、八月、廷尉に付して死を賜った。
  • 沈約は、君子・小人の別は本来行いによるもので、周漢では才能本位だったのに、魏晋以後は門第で貴賤が決まるようになったと論じる。裴子野も、謝霊運や王僧達のような才華ある者が軽躁ゆえに滅んだのは、もし寒門出身ならまだしも、門地に頼って慢ったため、なおさら禍を招いたのだと評する。

秋冬 北魏北巡と清口の戦い

  • 九月、北魏主は平城へ帰還し、大赦を行った。
  • 十月、北魏主は柔然討伐のため北巡し、陰山に至った。雨雪に遭い帰還を考えたが、尉眷が、ここで退けば北狄に内乱を疑われると諫めたため、進軍を続けた。辛卯、車崘山に軍した。
  • 積射将軍殷孝祖は清水東岸に二城を築いた。北魏の封敕文がこれを攻めたが、清口戍主傅乾愛が撃退した。
  • 孝武帝は龐孟蚪を派遣して清口を救援し、青冀二州刺史顔師伯も茍思達を送って助け、沙溝で北魏軍を破った。
  • さらに卜天生・江方興が傅乾愛に合流し、たびたび勝利して、北魏の将・窟瓌公ら数名を斬った。

十一月 青州方面と北魏の柔然遠征

  • 十一月、北魏の皮豹子らが三万騎で封敕文を助け、青州へ侵攻した。顔師伯がこれを防ぎ、焦度が皮豹子を突いて落馬させ、その鎧・矟・具装を奪い、手ずから数十人を殺した。焦度は南安の氐人であった。
  • 一方、北魏主は自ら騎兵十万、車十五万両を率いて柔然を攻め、大漠を越えた。旗旌は千里にわたり、柔然の処羅可汗は遠く逃れ、別部の烏朱駕頹ら数千落が北魏へ降った。北魏主は石に功績を刻んで帰還した。

年末 戴法興らの専権

  • 孝武帝が江州にいた頃、山陰の戴法興・戴明宝・蔡閑は典籤を務めていたが、即位後はいずれも南台侍御史兼中書通事舍人とされた。蔡閑はこの年までに死んでいたが、起兵時の密謀参画の功で県男を追贈された。
  • この頃、帝は自ら朝政を見たが、大臣を信任せず、腹心耳目の委任先として戴法興・巣尚之・戴明宝らを重用した。法興は古今の知識があり、尚之は寒門出身ながら文史に通じ、いずれも中書通事舍人となった。
  • 選授・誅賞などの大きな処分は、帝が法興・尚之と「参懐」して決め、内外の雑務は明宝に多く委ねた。
  • 三人は当時たいへんな権勢をふるい、とくに法興・明宝は盛んに賄賂を受け、推挙すれば言は必ず行われた。天下の人々が門前に群がり、邸前は市のようになり、家産は千金を積んだ。
  • 吏部尚書顧覬之だけは彼らに媚びなかった。蔡興宗が、あまりに節義を際立たせれば危ういのではと気遣うと、覬之は辛毗の言を引き、彼らにへつらわなくてもせいぜい三公になれないだけだと答えた。
  • 顧覬之は、人の命運には定分があり、智力で動かせるものではない、恭しく道を守るべきで、みだりに僥倖を求めても得失には関わらず、雅道を損なうだけだと考え、その趣旨を弟子の原に述べさせて『定命論』を著した。