資治通鑑宋紀四 太祖文皇帝 元嘉 十一年 434年
春正月 燕の和請と漢中回復戦
- 正月、北燕王馮弘は魏に使者を送って和を請うたが、魏主は許さなかった。
- 楊難当は漢中攻略を魏へ報告し、雍州流民七千家を長安へ送った。
- 蕭思話が襄陽に着くと、横野司馬蕭承之を先鋒として進ませた。承之は道中で兵を集め、千人ほどで磝頭に拠った。
- 楊難当は漢中を焼き掠めて西へ退き、趙温を梁州守備に残し、薛健を黄金山に置いた。蕭思話は隂平太守蕭坦に鉄城を攻めさせ、これを抜いた。
二月から閏月 趙温・薛健の敗走
- 二月、趙温・薛健らは蒲甲子とともに蕭坦を攻めたが、敗れて西水へ退いた。
- 臨川王義慶は裴方明に三千を与えて蕭承之を助けさせた。裴方明は黄金戍を奪って据え、趙温は州城を棄てて小城に退き、薛健と蒲甲子も下桃城に退いた。
- 蕭思話が着任すると、承之と協力して趙温らを繰り返し破った。王霊済は別働隊で洋川から南城を攻略し、守将趙英を捕えたが、南城は空虚で補給に乏しかったため、軍を返して承之に合流した。
- 魏主は西海公主を柔然の敕連可汗に嫁がせ、またその妹を自らの夫人とし、潁川王提を迎使として送った。敕連は異母兄の秃鹿傀に妹を送らせ、馬二千匹を献じた。魏主はこの妹を左昭儀とした。
- 三月、魏主は再び河西へ赴いた。
- 楊難当は子の楊和に兵を授け、蒲甲子らとともに蕭承之を包囲した。四十余日にわたり数十重に囲み、短兵相接して弓矢も使えないほどの激戦となった。氐兵は犀甲を着けていたが、蕭承之は矟を切り短くし、大斧で打ち込んで一撃で数人を貫いたため、氐軍は支えられず敗走した。
- 閏月、承之らは南城まで追撃して大勝し、漢中の旧地をすべて回復した。宋は葭萌水に戍を置き、防衛線を整えた。
- なお、南城は以前から梁州治所であったが、このたび氐に焼かれ、再び守るのに適さなくなったため、蕭思話は鎮所を南鄭へ移した。以後、梁州治は南鄭となる。
赫連昌の最期
- 甲戌、赫連昌が魏に叛いて西へ逃れたが、丙子に河西の斥候将に殺された。魏はその弟たちもあわせて誅した。
三月から六月 燕の服属と魏の圧力
- 辛巳、北燕王は高顒を魏へ送って称藩・謝罪し、末娘を後宮に入れたいと願った。魏主はこれを許し、太子王仁を入朝させるよう求めた。
- 燕王はかつての魏使于什門を返し、平城へ帰した。于什門は燕に二十一年抑留されながら節を屈しなかったため、魏主は蘇武になぞらえて顕彰し、治書御史に任じ、宗廟にも報告した。
- 四月、休屠の金当川が魏の陰密を包囲したが、常山王素に討たれ、魏主みずから河西へ赴いて壬戌にこれを捕え斬った。
- 甄法護は州鎮を棄てた罪で獄中死を賜った。
- 楊難当は使者を送って罪を謝し、宋帝はこれを赦した。
- 河西王牧犍も嗣位を報告し、宋は正式に都督涼秦等四州諸軍事・征西大将軍・涼州刺史・河西王に任じた。
- 六月、魏主が帰宮した。
燕の危機と劉滋の諫死
- 北燕王は太子を魏へ人質として送らなかった。散騎常侍劉滋は、蜀漢の劉禅も東呉の孫皓も険阻を頼んで滅びたのだから、今の燕が魏に抗えるはずはないと諫め、太子を早く送り、政事を修め、民を撫し、農桑を勧めて持久を図るよう勧めた。
- しかし燕王は怒って劉滋を殺した。
夏秋 魏の収奪と山胡討伐
- 辛亥、魏主は永昌王健らに燕を攻めさせ、田の穀物を刈り取り、人民を移して帰還した。
- 七月、魏主は美稷から隰城に至り、陽平王它に諸軍を督させ、西河の山胡白龍を討たせた。
- 山胡は匈奴系とも山戎・赤狄の後ともされ、離石以西から安定以東の山谷に広く住んでいた。魏主は山胡を軽んじて少数騎で偵察したため、白龍の伏兵に襲われ、墜馬して危うく捕えられそうになったが、内入行長の陳建が身を挺して防ぎ、多数の傷を負いながら救い出した。
- 九月、魏軍は大勝して白龍を斬り、その城を屠った。
- 十月には残党も五原で破り、数千人を誅し、妻子は将士に分け与えた。
冬