資治通鑑宋紀四 太祖文皇帝 元嘉 十年 433年

春正月 魏の遼西救援と関中安定策

  • 正月、魏主は永昌王健に諸軍を督させ、遼西救援に向かわせた。これは北燕から魏へ降ろうとして包囲された馮崇を援けるためである。
  • 魏では大赦を行い、楽安王範を長安鎮都大将に任じたが、年少であったため、崔徽と張黎を副えて実務を補佐させた。
  • 範は謙虚で寛大、崔徽は大局を重んじ、張黎は清廉公正で、租税を軽くしたため、関中は安定した。

二月 安定の乱と陸俟

  • 二月、魏は馮崇を遼西王に封じ、幽平二州牧・車騎大将軍として遼西十郡を食ませ、尚書刺史以下の官を仮授する権も認めた。
  • 同じ頃、平涼休屠の金崖と羌の涇州刺史狄子玉は、安定鎮将延普と権力を争って挙兵したが、胡空谷に退いて守るところを、魏の陸俟に討たれて捕えられた。
  • 陸俟はのちに懐荒鎮へ出たが、厳格すぎると高車諸部に訴えられて更迭された。陸俟は、後任の郎孤が一年も経たぬうちに失敗し、高車が叛くと予言した。実際その通りとなり、魏主は驚いて陸俟に理由を問うた。
  • 陸俟は、高車には上下秩序がなく、最初は威と法で教えねばならないが、郎孤は評判を得ようとして甘く接し、のちに法で締め直そうとして怨みを招いたのだと説いた。魏主はその見識を賞した。

二月から三月 魏との婚姻交渉と成都防衛

  • 魏主は河西へ赴き、兼散騎常侍宋宣を宋へ派遣して、皇太子晃の婚姻を求めたが、宋帝はまたも曖昧に答えた。
  • 劉道濟が死ぬと、梁雋之・裴方明らはその死を隠し、遺体を密かに埋めて、なお道濟の命令が出ているよう装い、城内の動揺を防いだ。
  • 程道養は毁金橋で天を祭り王位を誇示したが、裴方明が三千で出撃し、これを大破して広漢へ退かせた。
  • 臨川王義慶は周籍之に二千を授けて成都救援に向かわせた。

三月 司馬天助と蜀反乱の挫折

  • 亡命者司馬天助が魏に降り、自ら晋の会稽世子司馬元顕の子だと称したため、魏は彼を青徐二州刺史・東海公にした。
  • 趙広らは広漢から郫に進んで多数の陣営を連ねたが、周籍之と裴方明らが合流して郫を奪回し、さらに広漢で撃破した。
  • 趙広らは涪と五城へ逃げた。

夏四月 蕭思話の再起と河西王の交代

  • 四月、朝廷ははじめて劉道濟の喪を発した。
  • 宋帝は甄法護が梁・南秦二州で統治を失敗し、氐羌の心を離れさせていると聞き、かつて青州放棄で罪を得た蕭思話を獄から起用して梁南秦二州刺史とした。
  • 河西では沮渠蒙遜が病篤く、国人は幼い世子菩提に代えてその兄の敦煌太守牧犍を世子とし、内外の軍政を総攬させた。
  • やがて蒙遜が死に、諡を武宣王、廟号を太祖とした。牧犍が河西王として即位し、大赦して永和と改元、子の封壇を世子に立てた。
  • 牧犍は使者を魏へ送り、承認を求めた。聡明で学を好み、穏雅で度量があるため、国人の支持を受けての即位であった。
  • 先に魏主は李順を通じて武宣王の娘を迎えようとしていたが、蒙遜の死に遭ったため、牧犍は父の遺志だとして妹の興平公主を送り、魏に右昭儀として入内させた。魏主は以前の李順の予言が当たったことを喜び、賞賜を加え、政治上も厚遇した。
  • 魏主はさらに李順を遣わして牧犍を河西王・涼州刺史などに正式に冊立した。牧犍は功なくして重賞を受けるのを恥じ、安平・平西のような将軍号ひとつでもよいと固辞したが、魏は優詔で退けた。
  • 牧犍は敦煌の学者劉昞を国師として敬い、官僚以下に北面して学ばせた。

五月から六月 魏の北方行幸と燕討ち

  • 五月、魏主は山北に赴いた。
  • 林邑王范陽邁は使者を送り、交州の領有を求めたが、道遠を理由に宋は許さなかった。
  • 裴方明は涪城へ進み、張尋・唐頻を破り、程道助を捕え、厳遐を斬ったため、趙広らは散り散りになった。
  • 六月、魏では永昌王健・安原らが和龍を攻め、別将楼勃が凡城を包囲した。燕の守将封羽が降ったため、その三千余家を収めて帰還した。
  • 辛巳、魏は秦雍から一万人を徴し、長安城内に小城を築いた。

秋から冬 楊難当の漢中侵攻と謝霊運の最期

  • 八月、馮崇は父を説いて降らせるための説得を願い出たが、魏主は許さなかった。
  • 九月、甄法崇が成都に着くと、費謙を捕えて誅した。程道養・張尋は二千余家を率いて郪山へ逃げ、残党は山谷に散ってなお寇掠を続けた。
  • 戊午、魏は崔賾を遣わして楊難当を征南大将軍・秦梁二州牧・南秦王に封じた。
  • しかし楊難当は蕭思話の未着任、甄法護の退陣を見て梁州を襲い、白馬を破って晉昌太守張範を捕え、さらに葭萌を攻めて晉寿太守范延朗を捕えた。
  • 冬十一月、甄法護は州城を棄てて洋川西城へ逃れ、楊難当はついに漢中を手に入れ、司馬趙温を梁秦二州刺史に任じた。
  • 魏主は還宮後ふたたび陰山北へ赴いた。
  • この年、謝霊運は山水遊歴を好み、しばしば大勢を従えて険地を開いたため、百姓は山賊と恐れた。会稽太守孟顗は以前からの遺恨もあり、異志ありとして上表した。
  • 宋帝は一度これを弁明させ、臨川内史に任じたが、謝霊運は相変わらず放縦で郡務を顧みず、ついに司徒府の属官が逮捕に向かうと、これを拘束して逃亡し、詩で自ら張良や魯仲連になぞらえた。
  • ほどなく討たれて捕えられ、廷尉は反叛として斬罪を奏上した。宋帝は才能を惜しんで減刑し広州流罪としたが、さらに兵器を集めて三江口で変を起こそうとしたとの告発があり、ついに広州で処刑された。才に驕り人を侮ったため禍を招いたとされた。
  • また魏は外黄に徐州を置き、刁雍を刺史とした。