資治通鑑宋紀四 太祖文皇帝 元嘉 十二年 435年
春正月 日食・南郊・燕の称藩
- 正月朔に日食があった。
- 辛酉、大赦が行われ、辛未には南郊で祭祀が行われた。
- 北燕王は魏の度重なる攻撃に苦しみ、建康へ使者を送り称藩して貢を奉った。癸酉、宋はこれを燕王に封じた。江南では和龍に都することから「黄龍国」と呼んだ。
- 甲申、魏は大赦して太延と改元した。
河西王に届いた不吉な投書
- 敦煌の東門に老人が投書して立ち去り、捕えられなかった。文面は「涼王三十年、もし七年」といった不思議な予言であった。
- 河西王牧犍が奉常張慎に意味を問うと、張慎は虢の国が亡ぶ前に神が莘に降った故事を引き、神託よりも徳政の有無が国の存亡を決めると説いた。
- そして牧犍に、徳を修め政治を正せば三十年の福を保てるが、遊猟や酒色に溺れれば七年ほどで大変が起こるだろうと戒めた。牧犍はこれを喜ばなかった。
二月から三月 燕の先送りと宋朝内部の対立
- 二月、魏主は還宮した。
- 三月、燕王は大将湯燭を魏へ送り、太子王仁が病気だとして入朝延期を弁明した。
- 宋では、領軍将軍劉湛と僕射殷景仁の対立が深刻化した。もともと両者は親しかったが、劉湛は自分より後から重く用いられた殷景仁が中枢を握るのを怨み、殷が帝に讒して自分を遠ざけていると疑うようになった。
- 司徒彭城王義康が朝政を専断していたため、劉湛は旧主従関係を利用して義康に密着し、その力で殷景仁を排斥しようとした。
- 四月、宋帝は殷景仁を中書令・中護軍とし、自宅で府を開かせた。劉湛も太子詹事を加えられたが、かえって不満を強め、義康を通じて殷景仁を中傷した。宋帝はむしろ景仁をいっそう重んじた。
- 殷景仁は「自分が引き立てた人物に噛みつかれるとは」と嘆き、病を称して辞職を求めたが許されず、自宅で療養する形となった。
- 劉湛は盗賊に仮託して殷景仁を襲わせようとまで考えたが、宋帝がうすうす察して景仁の府を宮中近くへ移したため、実行に移せなかった。
- 劉湛派の人々は殷家への出入りを断つほどで、義康の主簿劉敬文は、父が事情を知らず景仁に郡を求めたことを詫び、門内で恥じ入った。
- ただ後将軍司馬庾炳之だけは、劉湛・殷景仁の双方と交わりながら、ひそかに朝廷へ忠誠を尽くし、帝と景仁の連絡役を務めた。湛は疑わなかった。
五月 魏の封王と西域諸国
- 五月、魏主は宜都公穆寿を宜都王、長孫道生を上党王、奚斤を恒農王、楼伏連を広陵王に進め、穆寿には征東大将軍を加えた。
- 穆寿は、自家が累代恩賞を受けてきたのは梁眷の忠功あってのことなのに、その子孫が顕彰されていないのは心苦しいとして辞退した。魏主はこれを喜び、梁眷の孫を探し出して郡公に封じた。
- 龜茲・疏勒・烏孫・悦般・渇槃陁・鄯善・焉耆・車師・粟特の九国が魏へ朝貢した。
- 魏主は、漢代以来西域は遠隔を頼んで朝貢も気まぐれであり、こちらからの使節派遣は労多く益少ないとして消極的だったが、有司が来貢を拒むべきでないと強く勧めたため、王恩生ら二十人余を西域へ派遣した。
- ところが使節は流沙を越えたところで柔然に捕えられた。王恩生は魏の節を守って屈せず、魏主はこれを聞いて敕連可汗を厳しく責めた。柔然は王恩生らを返したが、結局西域には到達できなかった。
六月 高句麗・水害・禁酒
- 甲戌、魏主は雲中へ赴いた。
- 甲午、魏主は時和年豊・吉瑞頻発を理由に、五日間の大規模な宴祭を行って百神に報いた。
- 丙午、高句麗王璉が魏に使者を送り、朝貢するとともに魏皇帝の諱を知りたいと願った。魏主は帝系と諱を録して与え、璉を都督遼海諸軍事・征東将軍・遼東郡公・高句麗王に封じた。
- 戊申、魏は楽平王丕・徒河屈垣らに騎兵四万を授けて北燕を討たせた。
- 同じ頃、揚州諸郡で大水があり、宋は徐州・豫州・南兗州の穀を運んで救済した。
- 揚州西曹主簿沈亮は、酒は穀を浪費するだけで飢えを救えないとして、一時的な禁酒を提案し、朝廷はこれを採用した。
夏秋 和龍への圧力と安原の失脚
- 七月、魏主は稒陽で狩猟した。
- 己卯、魏の楽平王丕らが和龍に至ると、燕王は牛酒を献じて軍をねぎらい、甲三千を差し出した。しかし屈垣は太子を送ってこないことを責め、男女六千人を掠め取って帰った。
- 八月、魏主は河西へ赴き、九月に帰宮した。
- 魏の左僕射河間公安原は、寵愛を恃んで驕慢に振る舞っていたが、謀反の疑いをかけられ、十月に一族もろとも誅された。
冬 魏の巡行、燕の去就、仏教規制
- 十一月、魏主は定州・冀州を巡り、広川で狩猟し、鄴へ入った。
- 魏がたびたび北燕を攻めたため、燕では上下ともに危機感を強めた。太常楊㟭は再び太子王仁を魏へ送るよう勧めたが、燕王はなお決断できず、窮したら東の高句麗に依ろうとした。楊㟭は、高句麗は信用できず、当初は親しくしても終には変心するだろうと戒めたが、燕王は聞き入れず、ひそかに陽伊を高句麗へ送り、迎えを求めた。
- 宋では丹陽尹蕭摹之が、仏教は中国に広まり寺塔も非常に多いが、近年は信仰心より競争的な造営に流れ、材木・銅・彩色を浪費して民力を損なっていると上言した。
- 以後、銅像鋳造や塔寺建立は、朝廷に届け出て許可を得てからでなければ着手できないことになった。
- また魏の秦州刺史薛謹は吐没骨を討って滅ぼした。
楊保宗の再配置
- 楊難当は、以前幽閉していた楊保宗を釈放し、童亭に鎮させた。