資治通鑑宋紀三 太祖文皇帝 元嘉 六年 429年

正月 劉義康の権力拡大

  • 正月、王弘は揚州刺史と録尚書事の職を彭城王劉義康へ譲りたいと願い出たが、文帝はまずは許さなかった。
  • しかし癸丑、劉義康を侍中・都督揚州南徐州兗州三州諸軍事・司徒・録尚書事・南徐州刺史とし、王弘と並んで政務を補佐させた。
  • 王弘は病気がちで、しかも大権を手放したい思いが強く、万事で義康に譲るようになった。そのため義康が内外の政務を専ら統轄するようになった。
  • また、撫軍将軍の江夏王劉義恭を荊州刺史として荊・湘など八州を督させ、侍中劉湛に南蛮校尉として府州の事務を処理させた。
  • 文帝は義恭に長文の書を送り、王業の艱難を忘れるな、性格の偏急を抑えよ、刑獄や人事・恩賞は慎重にし、奢侈や遊楽を避け、佐吏とよく会って政情を把握せよと戒めた。

北方諸勢力の動き

  • 夏の酒泉公赫連雋は平涼から魏へ奔った。
  • 去年西山へ逃れた丁零の鮮于台陽らは魏への降伏を願い、魏主はこれを赦した。
  • 河西王蒙遜は前年に続いて西平を攻略し、ついに秦の太守麴承を捕えた。

二月〜四月 宋・秦・魏の人事と残虐

  • 二月、秦王暮末は梁氏を皇后とし、子の万載を皇太子に立てた。
  • 三月、宋では皇子劉劭を皇太子に立て、大赦した。
  • 文帝は、章太后が早く亡くなったため、太后の生母蘇氏を手厚く扱っていた。蘇氏が死ぬと、文帝は自ら臨んで哭し、追封を望んだが、殷景仁が古典に先例がないと反対したため取りやめた。
  • 秦では、かつて辛進が誤って暮末の母の顔を傷つけた件を、即位後の暮末が問いただし、激怒して辛進と一族五族あわせて二十七人を誅殺した。これは彼の苛酷さを示す事件となった。

四月 魏の国史編修

  • 四月、宋では王敬弘が尚書令、臨川王劉義慶が左僕射、江夷が右僕射となった。
  • 魏では、太祖が尚書鄧淵に命じた国史編纂が未完であったため、世祖が崔浩・鄧穎らに続成を命じ、『国書』三十巻がまとめられた。鄧穎は鄧淵の子であった。

四月〜五月 魏の柔然遠征をめぐる論争

  • 魏主は柔然討伐のため南郊で閲兵し、出征の是非を群臣に問うた。保太后は強く止め、尚書令劉絜らも太史令張淵・徐辯を推して、今年は干支が「三陰の歳」にあたり、歳星・太白などの天象から見ても北伐は不利だと奏上させた。さらに彼らは、若い頃に苻堅の南征を諫めて的中させた前例を誇った。
  • 魏主は不快に感じ、崔浩に反論させた。崔浩は、月食や星の運行はむしろ刑罰を行うべき徴であり、罪ある柔然を討つのは天意にかなうと論じた。近年、月が昴を掩う天象が続いており、これは三年以内に天子が北方の胡族を大破する兆しだと説いた。
  • また崔浩は、柔然の地や民が無益だとする反対論に対し、もとは魏の北辺の臣下であり、叛いた元悪を討ち、良民を旧来の役に戻すことは十分意味があると主張した。
  • さらに、張淵らの術数の正否を試すため、かつて統万が滅ぶ前にその敗兆を見抜けたかと問うた。彼らは答えられず、魏主は崔浩を高く評価した。
  • 崔浩は、南朝は統万攻略以来魏を恐れており、淮北で虚勢を張っているだけで、柔然遠征中に本格侵攻することはないと断言した。たとえ河南を一時奪われても保持は難しく、劉裕でさえ関中を保てなかったと説き、柔然こそ今討つべきだと強く勧めた。
  • 先に宋が「河南を返せ、さもなくば総力で攻める」と魏に伝えていたが、魏主はこれを笑い、柔然を先に滅ぼす方針を固めた。庚寅、平城を発し、自ら東道から黒山へ、長孫翰を西道から大娥山へ向かわせ、柔然王庭を挟撃させた。

五月〜七月 魏の柔然大遠征

  • 五月朔、日食があった。
  • 王敬弘はなお尚書令を固辞し、ついに侍中・特進・左光禄大夫に転じ、会稽への帰郷を許された。
  • 丁未、魏主は漠南に至ると輜重を捨て、軽騎に副馬を備えて栗水へ急襲した。
  • 柔然の紇升蓋可汗は不意を突かれ、民や家畜は野に満ちていたが、驚いて四散した。可汗は穹廬を焼いて西へ逃げ、その所在も知れなくなった。弟の匹黎が東部を率いて合流しようとしたが、長孫翰に撃破され、大人数百が斬られた。
  • 一方、夏主赫連定は統万奪回を図って東進したが、侯尼城まで来て進めず、引き返した。
  • 河西王蒙遜は秦を攻め、秦王暮末は元基を枹罕守備に残して定連へ退いた。南安太守翟承伯や西安太守莫者幼眷が叛いて河西に通じ、暮末は討ったが苦戦し、定連へ戻った。
  • 六月、暮末は治城で蒙遜の世子興国を捕え、その後も追撃した。吐谷渾王慕璝は弟の没利延に五千騎を与えて蒙遜を援けたが、段暉らがこれを大破した。
  • 魏主は栗水から弱水・涿邪山へと西進し、広大な範囲で柔然を捜索した。高車諸部もこれに乗じて柔然を掠奪し、前後して魏へ降った柔然・高車は三十余万落、獲得した軍馬は百余万匹、家畜・車・廬舎は数え切れないほどだった。
  • しかし諸将が伏兵を恐れて進軍停止を勧め、魏主も従った。七月に黒山へ戻って戦利品を将士に分配した。
  • のちに降人や涼州の商人から、紇升蓋可汗は病気のうえ百八十里ほど先の南山にわずかな人数で逃れていただけで、さらに二日進めば柔然を殲滅できたと知り、魏主は大いに悔やんだ。
  • 紇升蓋可汗は憂悶のうちに死に、子の呉提が立って敕連可汗を称した。

七月〜八月 楊難当の簒奪と秦・河西

  • 武都王楊玄は病にかかり、国を弟の楊難当に譲ろうとした。難当は一度は辞退し、玄の子保宗を立てて自分が補佐すると請うたが、玄が死ぬと、妻姚氏に勧められて保宗を廃し、自ら武都王を称した。
  • 河西王蒙遜は、世子興国を返してもらうため秦へ穀三十万斛を送ったが、暮末は許さなかった。そこで蒙遜は興国の同母弟菩提を新たに世子とした。
  • 暮末は興国を散騎常侍に任じ、妹の平昌公主を娶らせた。

八月〜十月 魏の高車支配

  • 八月、魏主は漠南に戻る途中、高車東部が已尼陂に集まり、人畜が多いと聞いて、安原ら一万騎を派遣した。高車諸部のうち数十万落が迎え降りし、馬牛羊百余万を得た。
  • 十月、魏主は平城へ帰還し、柔然・高車の降附民を漠南、東は濡源から西は五原・陰山に及ぶ三千里の地へ移し、耕作と放牧をさせて貢賦を収めた。長孫翰・劉絜・安原・古弼らに鎮撫を命じた。
  • この結果、魏国内では馬・牛・羊や氈皮の価格が下がるほど供給が増えた。

崔浩への厚遇

  • 魏主は崔浩に侍中・特進・撫軍大将軍を加えて、その策謀の功を賞した。
  • 崔浩は天文観測に長け、夜に異変を見ると銅の筆で紙に書きつけて記録したという。魏主は災異を問うためたびたび浩の家を訪れ、食事中でも箸を上げて相手し、寝所への出入りまで許した。
  • また新たに降った高車の首長たちに対し、「この人は見た目は弱々しいが、胸中の謀は兵甲に勝る。自分の戦功はみなこの人の教えによる」と語り、軍国の大計で決めがたいものはまず崔浩に諮れと尚書たちに命じた。

秦の内紛と什寅の死

  • 秦王暮末の弟軻殊羅は、文昭王の左夫人禿髪氏と不義の関係を持った。暮末が知って禁じたため、軻殊羅は恐れ、叔父什寅とともに暮末を殺して沮渠興国を奉じて河西へ奔ろうと企てた。
  • 禿髪氏に門の鍵を盗ませたが、誤って別の門番に渡してしまい露見した。暮末は一党をことごとく殺したが、軻殊羅だけは赦し、什寅を捕えて鞭打った。
  • 什寅は「お前に対して負い目はあるが、鞭を受けるほどではない」と言い放ったため、暮末は怒って腹を裂き、遺体を川へ投げ捨てた。

冬 赫連定の嘆きと天変

  • 赫連定は若い頃から凶暴で放縦だったため、父の赫連勃勃に後継者として重んじられなかった。この月、陰槃で狩りをし、苛藍山から統万城を望んで涙し、「もし先帝が自分に大業を継がせていたなら、今日の境遇はなかった」と嘆いた。
  • 十一月朔には日食があり、欠けきらず鉤のように見え、昼に星が現れ、晡時まで消えず、河北は暗くなった。
  • 十二月、河西王蒙遜と吐谷渾王慕璝がともに魏へ使者を送って入貢した。
  • この年、魏の李先・安同が相次いで死んだ。李先は九十五歳であった。
  • 秦では地震があり、野草がみな根を上にして裏返ったと伝えられた。