正月 義康の召還と王弘の退位願い
- 正月、魏では京兆王の拓跋黎が死去した。
- 荊州刺史の彭城王劉義康は、聡明で政務処理に長け、赴任先でも職務をよく整えていた。左光禄大夫の范泰は司徒王弘に対し、天下の大事を担う地位は危うく、王氏兄弟は権勢が盛んなので、みずから抑えておくべきだと説き、皇帝の実弟である義康を朝廷へ呼び戻して政務に参与させるべきだと勧めた。
- 王弘はこれを受け入れた。このころ大旱と疫病があり、王弘は自責して辞職を願い出たが、文帝は許さなかった。
秦・河西・吐谷渾の動き
- 北方の秦では、商州刺史を遥任されていた姚濬が叛いて河西に降った。秦王乞伏熾磐は焦嵩に騎兵三千を与えて討たせたが、二月、焦嵩は吐谷渾の元緒に捕らえられた。
二月〜三月 魏の改元と赫連昌の捕縛
- 二月、魏は定州で白鹿が得られたことを祥瑞として、元号を神䴥に改めた。
- 魏では平北将軍尉眷が夏主赫連昌を上邽で攻め、赫連昌は平涼へ退いた。奚斤は安定へ進み丘堆・娥清と合流したが、馬の疫死と兵糧不足に苦しみ、籠城策をとった。
- 丘堆が民間で徴発に当たる際、兵は掠奪に走り警戒も怠ったため、赫連昌の襲撃を受けて敗れた。夏軍は連日城下に現れて掠め取り、魏軍は飼料も確保できず苦境に陥った。
- 監軍侍御史の安頡は、退いても進んでも死ならば、むしろ決戦すべきだと諸将を激しく責めた。奚斤は騎兵不足を理由に逡巡したが、安頡は諸将の馬を集めれば二百騎ほどになり、敢死隊で敵の鋭気を挫けるうえ、赫連昌本人は勇猛だが軽率で自ら前線に出るので、伏兵で討てると説いた。
- 奚斤が決断しないため、安頡はひそかに尉眷らと計画し、赫連昌が来攻した際に出撃した。激戦の最中に大風で砂塵が舞い、昼なお暗くなる中、魏兵は赫連昌を見分けて殺到した。赫連昌は敗走して落馬し、生け捕りとなった。
- 夏では大将軍・司徒の平原王赫連定が残兵をまとめて平涼へ逃れ、そこで即位し、大赦して勝光と改元した。
- 三月、捕らえられた赫連昌は平城へ送られ、魏主は西宮門内に住まわせ、器物も帝王に準じて与え、妹の始平公主を娶らせ、会稽公に封じた。安頡・尉眷も功によって進爵した。
奚斤の敗北と夏の反攻
- 魏主は赫連昌を厚遇し、しばしば近侍させて狩猟にも連れ出した。諸将は危険視したが、魏主は天命を理由に意に介さなかった。
- 奚斤は総大将でありながら赫連昌を部下に先んじて捕らえられたことを深く恥じ、輜重を捨てて三日分の糧だけを持ち、赫連定を平涼まで追った。
- 娥清は川沿いに進むべきだと主張したが、奚斤は北路をとって退路を遮ろうとし、馬髦嶺に至った。ここで魏軍から罪を得て夏へ逃れた者が、魏軍は食糧も少なく水にも乏しいと告げたため、赫連定は前後から挟撃した。
- 魏軍は大敗し、奚斤・娥清・劉抜はいずれも捕らえられ、戦死者は六、七千に上った。丘堆は輜重を捨てて長安へ逃げ、高涼王拓跋礼とともに蒲阪まで敗走した。夏は長安を奪回した。
- 魏主は激怒し、安頡に丘堆を斬らせ、その軍を引き継がせて蒲阪を守らせた。
四月〜五月 各国の動き
- 四月、赫連定は魏に和を求めたが、魏主は降伏を促す詔で応じた。
- 魏主は西巡し、河西で狩猟して大赦した。
- 五月、秦の文昭王乞伏熾磐が死に、太子の乞伏暮末が即位して大赦し、永弘と改元した。
六月 王弘の退位
- 平陸令の成粲は、あらためて王弘に辞職を勧めた。王弘はこれに従って重ねて辞表を出し、文帝もついに認め、六月に衛将軍・開府儀同三司とした。
秦と河西の攻防
- 秦では乞伏暮末が元基を相国・都督中外諸軍・録尚書事とし、段暉・乞伏千年・木弈干・吉毗らを要職に置いた。
- 河西王沮渠蒙遜は、秦の喪に乗じて攻め込んだ。西平太守麴承が、まず楽都を取れば西平も自然に服属すると勧めたため、蒙遜は西平を後回しにして楽都を攻めた。
- 元基は騎兵三千で救援に入り城へ入ったが、河西軍は外城を落として水路を絶ち、城内は飢渇で死者が続出した。
- 元基に従っていた東羌の乞提は、ひそかに河西と通じ、縄を垂らして兵を城内へ引き入れた。河西兵は鼓噪して門を焼いたが、元基が側近と奮戦して撃退した。
- 先王熾磐は臨終に際し、沮渠成都は蒙遜に重んじられているので、自分の死後は返還して和を結べと暮末に命じていた。そこで暮末は使者を送り、成都返還を条件に講和を求めた。
- 蒙遜は兵を退き、弔使を送った。暮末も成都を厚くもてなして返し、王伐に護送させた。
- しかし蒙遜はなお疑い、沮渠奇珍に捫天嶺で待ち伏せさせて王伐と騎兵三百を捕えた。のちに王杼を送って王伐を帰し、馬千匹や錦・罽・銀・絹を贈って関係修復を図った。
- 七月、暮末は記室郎中馬艾を河西に派遣し、答礼した。
八月〜閏月 魏北辺と宋朝の事
- 魏主は広寧へ赴いて温泉を観た。当地の温泉は古来名高く、百病に効くとされ、人々が群がったという。
- 柔然の紇升蓋可汗は、その子に一万余騎を与えて魏辺へ侵攻させた。魏主は広寧から帰って追撃したが追いつかず、九月に帰還した。
- 十月、魏主は北巡し、牛川で狩猟した。
- 秦の涼州牧乞伏千年は酒に溺れて残虐で、政務を顧みなかった。暮末が譴責すると、千年は恐れて河西へ逃亡した。暮末は叔父の乞伏沃陵をその後任とした。
- 徐州刺史王仲徳は歩騎二千を率いて魏の済陽・陳留を攻めた。
- 魏の定州では、丁零の鮮于台陽ら二千余家が叛いて西山に入った。州郡では討てず、閏月、魏主は叔孫建を派遣して討たせた。
- 十一月朔、日食が起きた。
- 魏主は西河へ出て狩猟した。
- 十二月、河西王蒙遜は再び秦を攻めて磐夷に至った。秦の元基らが一万五千騎で防いだため、蒙遜は西平へ転じた。秦の出連輔政らが救援に向かった。
謝霊運の失脚と入貢
- 謝霊運は、自分ほどの名声と才があれば政務の中枢に参与すべきだと考えていたが、文帝は文学談義では重んじても、実際の政治では王曇首・王華・殷景仁らを任用した。
- 謝霊運は不満を抱いて病を口実に朝廷を避け、遠出して長く帰らないことさえあった。文帝は大臣の体面を傷つけまいとして自発的辞職をほのめかしたが、彼は病気を理由に会稽帰郷を願い出た。
- 許可後も遊興を続けたため、法司に弾劾され、免官となった。
- この年、師子国王刹利摩訶および天竺の迦毗黎王月愛が使者を送って入貢した。表文は仏教色の強い文面であった。
- 魏では鎮遠将軍平舒侯燕鳳が死去した。燕鳳は拓跋氏四代に仕えた老臣であった。