正月〜二月 吐谷渾・魏の動き
- 正月、宋は吐谷渾王慕璝を征西将軍・沙州刺史・隴西公に封じた。
- 魏主は平城へ帰り、大赦し、まもなく再び広寧の温泉へ赴いた。
- 二月、魏の長孫翰が死去し、魏主は都へ戻った。
三月 宋の河南回復計画
- 文帝は即位以来、河南回復の志を抱いていた。三月、甲兵五万を選抜し、右将軍到彦之に安北将軍王仲徳・兗州刺史竺霊秀の水軍を付けて黄河へ入らせた。また驍騎将軍段宏に精騎八千を与えて虎牢へ向かわせ、豫州刺史劉徳武には一万を率いて後続させた。
- さらに後将軍長沙王劉義欣に三万を率いさせ、諸軍の征討を監督させた。
- 文帝はまず田奇を魏へ送り、「河南はもと宋の地であり、河北には関与しない。ただ旧境を回復するだけだ」と伝えた。
- 魏主はこれに激怒し、幼少から河南は魏の地だと聞いてきた、もし宋軍が来るなら、今はひとまず守備兵を引き揚げて避け、冬に河が凍ったころ奪い返せばよいと語った。
- 甲午、宋では尹冲を司州刺史に任じ、長沙王義欣を彭城へ出して諸軍の後援とし、胡藩に広陵で府州の事務を執らせた。
- 壬寅、魏は赫連昌を秦王に封じた。
三月〜四月 魏で敕勒叛乱
- 魏には新たに移住させた敕勒千余家があり、将吏の収奪に苦しんでいた。彼らは草が生え馬が肥えたら漠北へ逃げ帰ろうと相談していた。
- 劉絜・安原は、河がまだ凍っているうちに西方へ移して北逃を防ぐべきだと奏した。魏主は、彼らは長く放散の習俗に慣れており、急に囲い込めばかえって暴発するとして反対したが、重ねて請われて、三万余落を河西へ分散移住させた。
- 敕勒は「河西に閉じ込めて殺すつもりだ」と驚き、涼州への逃亡を謀った。劉絜は五原河北、安原は悦拔城に屯して備えたが、癸卯、数千騎が叛いて北走した。追討の途中、逃亡者の多くは食糧が尽き、折り重なって死んだ。
宋の侵攻準備に対する魏朝廷の議論
- 魏南辺の将たちは、宋軍が大規模に侵攻してくると報じ、先制攻撃のため三万兵を求め、さらに河北の流民を皆殺しにして内応を絶つべきだと請うた。群臣の多くは賛成した。
- しかし崔浩は反対した。夏の南方は湿潤で疫病も多く、攻めても長期戦となり、分兵すれば逆に危険だと論じた。敵が北上してきたところを、秋涼しく馬が肥えた頃に迎え撃つのが万全だという。
- また、南辺の将たちは西征・北征の戦利品に心を動かされ、自分たちも南で掠奪したい私心から国に戦端を開かせようとしているだけだと批判した。
- 将たちはあらためて、幽州以南の精兵を集めて漳水で船を造り、司馬楚之・魯軌・韓延之らを起用して南人を招誘すべきだと求めた。群臣もこれに賛成した。
- 崔浩は再び、楚之らは南朝に恐れられているため、彼らを用いて大造船をすれば、宋は司馬氏再興と劉氏誅滅を疑って死力を尽くすことになり、かえって敵の決戦意志を強めると説いた。
- さらに魯軌が昔、姚興に荊州攻略を説いて失敗し、最後は蛮人に捕えられて奴隷に売られた前例を引き、小才の亡命者をあてにしても大功は成せないと論じた。
- 崔浩は天時の面からも、揚州の分野に害気があること、庚午の歳運、前年の斗牛分野の日食、翼軫に伏す熒惑、まだ現れぬ太白などを挙げ、南方が挙兵しても必ず不利だと断じた。
- 魏主はなお群議に逆らいきれず、冀・定・相三州に船三千艘の建造を命じ、幽州以南の戍兵を河上へ集めた。
秦の内政悪化と再叛
- 秦王暮末は、叔父什寅の死に恨み言を漏らした白養・去列を殺した。胡注は、このような濫刑が衆叛親離を招いたと見る。
- 四月、魏主は雲中へ赴いたが、敕勒一万余落がまた叛走したため、尚書封鉄に追撃させて滅ぼした。
- 六月、宋は楊難当を冠軍将軍・秦州刺史・武都王に任じた。
- 魏主は丹楊王大毗を河上に、司馬楚之を潁川に置き、宋に備えた。
- 吐谷渾王慕璝は一万八千を率いて秦の定連を襲ったが、段暉らがこれを撃退した。
四月〜七月 到彦之の進軍
- 到彦之は淮水から泗水に入り、流れの悪さもあって一日十里ほどしか進めず、四月に出て七月になってようやく須昌へ達した。そこから黄河を遡った。
- 魏主は河南四鎮の兵が少ないと見て、諸軍に住民や兵をすべて引き揚げさせ、北岸へ渡らせた。
- 戊子、碻磝の守備兵が城を捨て、戊戌には滑台の守兵も撤退した。庚戌には洛陽・虎牢の守兵も退いた。
- 到彦之は朱脩之に滑台、尹冲に虎牢、杜驥に金墉を守らせ、自軍は霊昌津に進んだ。南岸一帯から潼関にいたるまで宋軍が配置され、司州・兗州一帯がほぼ平定されたため、諸軍は大いに喜んだ。
- だが王仲徳だけは、これは魏が守備兵を収めて戦力を集中し、冬に河が凍れば南下するための策であるとして危惧した。北方の情勢を知らない者は必ず魏の術中に落ちると警告した。
八月 魏の反撃開始
- 八月、林邑王范陽邁が使者を送り、交州との不和について赦しを求めた。
- 魏主は安頡を派遣して諸軍を督し、到彦之を攻撃させた。丙寅、姚聳夫が河を渡って冶坂を攻めたが、安頡に敗れて戦死者が多く出た。
- 戊寅、魏主は長孫道生を派遣して大毗と河上で合流させ、到彦之を防がせた。
八月〜九月 北燕の政変
- 北燕の太祖馮跋は病に臥し、申秀・陽哲を呼んで後事を託した。九月には太子馮翼に国事代行と兵権掌握を命じた。
- しかし宋夫人は自分の子馮受居を立てようとし、馮翼に対し、君主が回復しつつあるのに父に代わって臨朝するとは何事かと責めた。馮翼は柔弱で、そのまま東宮へ戻り、日に三度病を問うにとどめた。
- 宋夫人は偽詔で内外を遮断し、宦官を介して伝達するのみとした。太子や諸王・大臣はみな面会できず、ただ中給事胡福のみが出入りして禁衛を掌った。
- 胡福は宋夫人の策が成るのを恐れ、司徒録尚書事の中山公馮弘に告げた。馮弘は壮士数十人を率いて甲冑のまま禁中へ入り、衛兵は散り、家僮の庫斗頭が閣を越えて皇堂に入り、女御一人を射殺したため、馮跋は驚きのうちに崩じた。
- こうして馮弘は即位し、太子馮翼は出兵して敗れ、使者を送られて自殺を命じられた。馮跋の子百余人も皆殺しにされた。
- 馮跋には文成皇帝の諡が贈られ、長谷陵に葬られた。
九月〜十月 夏と魏、宋戦線の崩壊
- 己丑、赫連定は弟の謂以代を鄜城攻撃に向かわせたが、魏の隗帰らに万余人を斬られて退いた。
- 赫連定は自ら数万で隗帰を鄜城東で邀撃しつつ、社干と度洛孤を平涼守備に残した。そして宋へ使者を送り、共同で魏を滅ぼし、恒山以東を宋、以西を夏とする分割案を示して和議を求めた。
- 魏主は群臣に諮った。多くは、宋軍がなお河中にいるのに西へ向かえば河北を失うと心配した。
- 崔浩は、これは宋と赫連定が互いに相手の先動を待つ虚声の同盟にすぎず、宋軍は二千里にわたって薄く兵を置いているだけで、北渡の意思はないと見抜いた。赫連定は弱く、まずこれを討てば、その後東へ出て南朝を威圧できると説いた。
- 魏主はこれに従い、甲辰、統万へ向かい、平涼を急襲した。蒲坂には王斤を置いて守らせた。
- 宋では十月、竟陵王劉義宣を南徐州刺史としたが、なお石頭に駐した。
- また銭署を設け、四銖銭を鋳造させた。
- 到彦之と王仲徳は河沿いに守備を置いていたが、情勢が悪化すると東平へ引き揚げた。
十月〜十一月 洛陽・虎牢・金墉の失陥
- 乙亥、魏の安頡が委粟津から黄河を渡って金墉を攻めた。金墉は久しく修築されず、食糧も乏しかった。杜驥は城を捨てて逃げたいと思ったが、罪を恐れて決断できなかった。
- ちょうど、かつて前秦から江南へ移された鐘架に対し、大鐘の一つが洛水に沈んでいたため、文帝は姚聳夫に兵千五百を与えてこれを引き上げさせようとしていた。杜驥は姚聳夫に対し、城は修復され糧も十分だが兵だけ足りないので防衛を助けてほしい、鐘を曳くのは後でも遅くないと偽った。
- 姚聳夫は信じて金墉へ入ったが、実際には守れない城だと知って撤退し、杜驥も南へ遁走した。丙子、安頡は洛陽を奪い、宋兵五千余を殺した。
- 杜驥が帰って弁明すると、文帝は、もとは死守するつもりだったが姚聳夫が先に逃げたため士気が崩れたのだという言い訳に激怒し、姚聳夫を寿陽で斬った。
- 魏の諸軍は七女津に集まり、到彦之は南渡を恐れて王蟠龍に船奪取を命じたが、杜超らに斬られた。
- 安頡と陸俟は虎牢を攻め、辛巳に陥落させた。尹冲と滎陽太守崔模は魏に降った。
十一月 秦の危機と宋軍全面撤退
- 河西の圧迫を受けた秦王暮末は、王愷・烏訥闐を魏へ送り、迎え入れを求めた。魏は平涼・安定を与えると約したため、暮末は城邑を焼き、宝器を壊し、戸数一万五千を率いて上邽へ向かった。
- しかし高田谷で、黄門侍郎郭恒が沮渠興国を奪って叛こうとしたことが発覚し、暮末は郭恒を殺した。
- 赫連定は暮末の到来を聞いて出兵し、暮末は南安にとどまった。この結果、旧秦領は多くが吐谷渾に奪われた。
- 十一月、魏主が平涼へ至ると、社干らは城を固守した。魏主は赫連昌に説得させたが降らず、古弼らを安定へ向かわせた。
- 赫連定は鄜城から安定へ戻り、歩騎二万で平涼救援に向かったが、古弼の偽退に誘われ、高車の突撃を受けて大敗した。数千級が斬られ、赫連定は上邽へ逃れて民五万を連れ去った。弟の烏視抜・禿骨以下、多数の公侯が魏の捕虜となった。
- その日のうちに魏は安定を攻め、夏の東平公乙斗は長安へ逃れ、さらに上邽へ奔った。
- 魏の叔孫建は湖陸で竺霊秀を破り、宋軍五千余が死んだ。建は范城に還屯した。
- 魏主は安定へ進み、平涼を塹壕で包囲し、秦州・雍州の民を慰撫して七年の租役免除を与えた。夏の隴西守将も魏に降った。
十一月〜十二月 滑台包囲と秦・夏の瓦解
- 辛丑、安頡は諸軍を督して滑台を攻めた。
- 河西王蒙遜は宗舒らを魏へ入貢させた。魏主は宴席で崔浩の手を取って示し、この人物の才略は当代に並ぶ者がなく、自分の行動はすべて彼に相談し、成否は符契のように一致して外れたことがないと語った。
- 魏では叔孫建に冀・青など四州の軍事を督させた。
- 魏の庫結が五千騎を率いて暮末を迎えに来たが、秦の吉毗は内地移住は不利だと主張し、暮末も従ったため、庫結は引き返した。
- 秦では内安の諸羌一万余が叛き、焦遺を盟主に担ごうとしたが拒まれたため、その一族の焦亮を擁立して南安を攻めた。暮末は楊難当に救いを求め、楊難当は苻献に三千騎を与えて助けた。暮末はこれと合流して諸羌を破り、広寧へ進んで焦遺に焦亮を捕えるよう命じた。十二月、焦遺は焦亮を斬って降り、暮末はこれを鎮国将軍に進めた。
- 一方、秦の略陽太守楊顕は郡を挙げて夏に降った。
年末 宋の処分と義欣・義康
- 宋では長沙王義欣を豫州刺史として寿陽に鎮させた。寿陽は荒廃し盗賊も多かったが、義欣は適切に整備して境内を安定させた。芍陂の堤防を修復し、河水を引いて一万余頃を灌漑し、旱害をなくした。
- 丁卯、平涼の社干・度洛孤が魏に降り、魏はついに平涼を平定した。豆代田は奚斤・娥清らを発見して魏主に献じた。魏主は赫連定の后を豆代田に与え、奚斤には膝行して酒を奉らせ、「お前の命を救ったのは豆代田だ」と辱めたうえで、豆代田を井陘侯に封じた。
- 長安・臨晋・武功の夏の守将も逃げ、関中はほぼ魏の手に入った。魏主は延普を安定に、王斤を長安に残して東還した。
- しかし王斤は驕慢で不法を重ね、側近を信じて百姓に過酷な徴発を行い、数千家が漢川へ逃れた。魏主は取り調べて事実と認め、王斤を斬って見せしめとした。
- 宋では到彦之・王仲徳が下獄されて免官、竺霊秀は軍を棄てた罪で処刑された。
- 文帝は垣護之の諫書を見てその見識を評価し、北高平太守に任じた。
- 今回の北伐では、出征時には武器・物資ともに充実していたが、敗走の結果その多くを失い、官府や武庫は空になった。のちに宴席で文帝が庫部郎顧琛に武器の残数を問うと、顧琛は機転を利かせて「十万人分ある」と偽って答え、文帝は問いを発したことを後悔していたため、その応答を喜んだ。顧琛は顧和の曾孫である。
- 彭城王劉義康は王弘と並んで録尚書事であったが、なお不満で、揚州を得たい気持ちを言葉の端々に表した。王弘の弟王曇首が宮中で文帝に親任されていたこともますます面白くなかった。
- 王弘が老病を理由にしばしば退職を願い、王曇首も呉郡への外任を求めたが、文帝はいずれも許さなかった。
- 義康は「王公は長く病み、起き上がれもしないのに、天下の要地を寝ながら治めていてよいのか」と語った。王曇首は王弘の府の文武半数を減らしてその二千人を義康に与えるよう勧め、文帝も認めたため、義康はようやく満足した。