春正月 燕の改元と宋魏の滑台戦線
- 春正月朔、北燕は大赦を行い、年号を大興と改めた。
- 檀道濟らは清水から滑台救援に向かった。魏では叔孫建・長孫道生がこれを防ぎ、途中で安平公乙旃眷の軍と戦うと、檀道濟は王仲徳・段宏らを率いてこれを大破し、高梁亭まで進んで魏の済州刺史悉煩庫結を斬った。
夏の滅亡
- 夏の赫連定は秦の将姚献を破ったのち、叔父の北平公韋代に一万を授けて南安を攻めさせた。
- 南安城内は飢饉が極まり、人肉を食うほどであった。秦の重臣出連輔政・乞伏延祚・乞伏跋跋は城を越えて夏に奔り、秦王乞伏暮末は追い詰められて棺を載せた車を伴って降伏した。
- これにより乞伏氏の西秦は滅び、沮渠興国も上邽へ送られた。
- 秦太子司直焦楷は広寧へ逃れ、父の焦遺に挙兵を促した。焦遺は、主君がすでに賊の手中にある以上、軽率な追撃はかえって命を絶つだけだとし、王族の賢者を立てて回復を図るべきだと主張した。
- 焦楷は壇を築いて兵を募り、短期間に一万余が集まったが、折悪しく焦遺が病死したため事業は成らず、焦楷は河西へ逃れた。
二月 檀道濟の進軍と滑台陥落
- 二月、江夷が湘州刺史となった。
- 檀道濟らは済水に進み、二十余日のあいだ魏軍と三十回以上交戦して多く勝ったが、歴城に至ると叔孫建らが軽騎で前後を遮断し、草や兵糧を焼き払ったため、兵糧不足で前進できなくなった。
- このため安頡・司馬楚之らは滑台攻撃に専念でき、魏主はさらに王慧龍を援軍として派遣した。
- 滑台の朱脩之は数か月にわたり守り抜いたが、食糧が尽きると兵とともに燻した鼠まで食べて耐えた。ついに辛酉、魏が滑台を陥し、朱脩之と東郡太守申謨を捕え、多数を虜とした。
- 癸酉、魏主は平城へ帰って宗廟に戦勝を報告し、将帥・百官に恩賞を与え、将兵には十年の免税を許した。
魏の水害救恤
- この年、魏の南辺では大水が起こり、多くの民が飢えて死んだ。
- 尚書令劉絜は、戦争で功を立てた者ばかりでなく、農桑に勤めて軍国を支える民こそ国家の根本だと述べ、被災地への救恤を求めた。
- 魏主はこれを容れ、国内の租税を一年免除した。
檀道濟の撤退
- 檀道濟軍は兵糧が尽き、歴城から撤退した。途中で逃亡して魏に降った者が内情を知らせたため、魏軍は追撃し、宋軍には動揺が広がった。
- 檀道濟は夜中に砂を量るふりをして、残り少ない米を表面に載せ、なお兵糧が豊富にあるよう見せかけた。翌朝、魏軍はそれを見て降兵の報告を虚偽と考え、その者を斬った。
- また、檀道濟は兵が少ない中で、全軍に甲冑を着けさせた上に白服を着て戦車に乗り、落ち着いて退却した。魏軍は伏兵を疑って近づけず、宋軍は無事に引き揚げた。
青州の動揺
- 青州刺史蕭思話は檀道濟の南帰を聞き、鎮所を捨てて険阻に拠ろうとしたが、済南太守蕭承之が強く反対した。それでも従わず、丁丑に思話は東陽の鎮を棄てて平昌へ逃れた。
- 参軍劉振之も下邳を棄てて逃走したが、結局魏軍は来ず、東陽に蓄えられていた物資は住民に焼かれた。
- 蕭思話は罪を問われて召し戻され、尚方に繋がれた。
北燕・魏・宋の対外関係
- 北燕王馮弘は夫人慕容氏を王后に立てた。
- 庚戌、魏の安頡らが平城に帰還した。魏主は朱脩之の節義を称え、宗女をその妻に与えた。
- もとは宋帝が到彦之に対し、魏軍が動かなければ彭城に留まれと命じていたが、宋の捕虜からその事情を知った魏主は、かつて崔浩の計略を誤りとして諫めた群臣に対し、最終的な成否では崔浩に及ばなかったと語った。
- 司馬楚之は全面的な対宋遠征を求めたが、魏主は兵の疲労を理由に許さず、楚之を散騎常侍に転じた。
- 王慧龍は滎陽太守となり、十年間にわたり農政と軍備の両面で実績を挙げ、帰附する者も多かった。宋は離間策として、王慧龍が功に比べて位が低いことを恨み、司馬楚之を捕えて宋を引き入れようとしていると流言したが、魏主はこれを信じず、かえって王慧龍に信任を示した。
- 宋はさらに刺客呂玄伯を送り込んだが、王慧龍は事情を察してもこれを赦し、「それぞれ主君のために働くだけだ」として殺さなかった。
夏五月以後 夏の滅亡
- 五月、魏主は雲中に赴き、六月に大赦した。
- 夏主赫連定は乞伏暮末とその一族五百人を殺したのち、魏の圧力を恐れて秦の民十余万口を率い、治城から黄河を渡って河西王沮渠蒙遜を攻め、その地を奪おうとした。
- しかし吐谷渾王慕璝が慕利延・拾虔に騎兵三万を授け、夏軍が半ば渡河したところを邀撃したため、赫連定は捕えられて吐谷渾へ連行された。こうして赫連氏の夏も滅び、中原から西北の大勢は魏に帰した。沮渠興国はこの戦いで受けた傷がもとで死んだ。
- また、魏辺境の役人が柔然の斥候二十余人を捕えたが、魏主は衣服を与えて返したため、柔然はこれを喜んだ。閏月、柔然の敕連可汗は使者を遣わし、魏主は厚く遇した。
魏の婚姻要求と宋朝の人事
- 魏主は散騎侍郎周紹を宋に派遣し、通好するとともに婚姻を求めたが、宋帝は曖昧な返答にとどめた。
- 荊州刺史江夏王義恭は成長して自ら政務を執ろうとしたが、長史劉湛がこれを抑えたため、両者の関係は悪化した。宋帝は劉湛を重く見ており、人を遣わして義恭を責め、和解させた。
- この頃、王華・王曇首が相次いで死んだ。殷景仁は人材が欠けてきたとして劉湛を召し、太子詹事・給事中として政務に参与させた。
- 張邵は劉湛の後任として雍州方面に出たが、私利を図って巨額の贓罪に問われ、死罪相当となった。謝述が旧勲を理由に助命を願い、宋帝はその意見を容れて官爵を奪うにとどめた。謝述は、自分の奏上が世に知られて主君の恩を奪う形になるのを避けようとして、子に命じてその表を焼かせた。のちに宋帝は張邵に対し、謝述の助力があったと明かした。
秋から冬 魏の官制・選挙・法制
- 七月、魏主は河西へ赴いた。
- 八月、河西王沮渠蒙遜は子の安周を人質として魏に送り、吐谷渾王慕璝も使者を送って赫連定を献じたいと願い出た。魏は慕璝を大将軍・西秦王に封じた。
- 臨川王義慶が強く辞職を求めたため、中書令・丹陽尹に転じた。
- 九月、魏主は帰還し、長孫嵩に柱国大将軍を加えた。これはこの号の初見である。崔浩は司徒、長孫道生は司空となった。長孫道生は質素で、長年同じ熊皮の馬具を使い続けたという。魏主は歌工に群臣を称えさせ、「知略は崔浩、廉潔は道生」と歌わせた。
- 魏主は河西への使者として李順を選び、沮渠蒙遜に広大な官爵・封域を認め、王者に準じた儀礼や仮授権限を与えた。
- 壬申、魏主は天下がほぼ平定されたとして、各州郡に対し、盧玄・崔綽・李霊・邢穎・高允・游雅・張偉ら名門の賢士を礼をもって召し出すよう命じた。集まった数百人を選んで登用し、盧玄らは中書博士に任じられた。
- 崔浩は門地秩序を大きく整え、姓族の高下を明確にしようとしたが、盧玄は時勢にかなう政策ではないとして戒めた。崔浩は聞き入れず、これがのちに多くの反感を招いた。
- さらに魏では古い法制の沿革が語られ、世祖は十月に崔浩へ命じて律令を改定させた。極端な幼年刑を廃し、巫蠱には屈辱刑を設け、官爵による贖刑の範囲を定め、妊婦の死刑執行延期、登聞鼓の設置などを定めた。
冬 敕勒の来朝と林邑の侵攻
- 魏主は漠南に赴き、十一月には北部敕勒の首長庫若干が数万騎と莫大な鹿を率いて参上した。魏主は大規模な狩猟を行い、従臣に分け与えた。
- 十二月、魏主は宮城へ戻った。
- この年、河西王は義和と改元した。
- 林邑王范陽邁が九徳へ侵攻したが、交州兵に撃退された。