資治通鑑晉紀三十六 安皇帝 義熙三年 407年

春正月〜二月 晋・秦・魏の動き

  • 正月、燕は大赦して建始と改元した。
  • 後秦の姚興は、乞伏乾帰が次第に強大になって制しがたいと見て、彼を主客尚書として長安に留め、その世子の乞伏熾磐に西夷校尉を行わせ、部衆を監督させた。胡注は、のちに後秦が衰えて熾磐が盛んになり、乾帰もついに留め置けなくなると見る。
  • 二月、劉裕は建康へ赴いて新たな任官を固辞し、廷尉に赴いて罪を待つ姿勢まで示したが、詔はその志を認め、劉裕は丹徒へ帰った。
  • 魏の道武帝は子の拓跋修を河間王、拓跋処文を長楽王、拓跋連を広平王、拓跋黎を京兆王に封じた。

殷仲文の失意と誅殺

  • 殷仲文はもとより才名と声望があり、自ら朝政の中心に立つべきと考えていたが、思うように用いられず、東陽太守に出されたことでいっそう不満を深めた。
  • 何無忌はかねてその名を慕っており、東陽は自らの管轄でもあったので、立ち寄って面会してほしいと願っていた。
  • 殷仲文も承知していたが、失意のため心が定まらず、結局何無忌の府を素通りした。
  • 何無忌はこれを自分への侮りと受け取り激怒した。
  • ちょうど南燕の侵入があったため、何無忌は劉裕に対し、「桓胤と殷仲文こそ腹心の病であり、北方の敵など心配に及ばない」と述べた。
  • 閏月、劉裕の府将駱氷が反乱を企てて発覚し、斬られた。
  • 劉裕はその機会に、駱氷が殷仲文・桓石松・曹靖之・卞承之・劉延祖らと密かに結び、桓胤を主として立てようとしていたと奏上し、一族もろとも誅した。

燕王熙と苻后

  • 燕王慕容熙は皇后苻氏のために承華殿を造営し、北門で土を運ぶ労役のため、土と穀物が同価になるほどの負担を民に課した。
  • 宿軍典軍の杜静は棺を載せて宮門に至り、死を覚悟して諫めたが、慕容熙はこれを斬った。
  • また苻氏が真夏に凍魚、真冬に生の地黄を欲したため、用意できなかった役人たちを次々に処刑した。

夏四月 苻后の死と慕容熙の錯乱

  • 四月、苻氏が死去すると、慕容熙は泣き伏して何度も卒倒し、ようやく蘇生した。
  • 喪を父母同然に営み、自ら斬衰して粥をすすり、百官にも宮中で哭礼を行わせた。
  • 涙のない者は罪に処すと命じたため、群臣は辛い物を口に含んで無理に涙を出した。
  • 高陽王妃張氏は慕容熙の嫂で、美貌と巧思で知られていたが、慕容熙は殉葬させようとした。遺品を改めると靴の中からぼろ氈が見つかったので、それを口実に死を賜った。
  • 韋璆ら重臣も殉葬させられるのではと恐れて沐浴し、死命を待った。
  • 陵墓造営の費用は公卿から兵民にまで戸ごとに割り当てられ、府庫は尽きた。陵墓は数里四方に及び、慕容熙は監督者に「よく造れ。やがて自分も後を追う」と言った。
  • 丁酉、燕の太后段氏は尊号を剥奪され、外宮へ移された。

漢中・梁州をめぐる争い

  • 氐王楊盛は平北将軍符宣を梁州督護として漢中へ進ませた。
  • 後秦梁州別駕の呂瑩らがこれに呼応して挙兵し、刺史王敏が攻めたため、呂瑩らは楊盛に救援を求めた。
  • 楊盛は軍を濜口まで進め、王敏を武興へ退けた。
  • 楊盛は再び晋と通じ、晋は楊盛を都督隴右諸軍事・征西大将軍・開府儀同三司とし、符宣に梁州刺史を行わせた。

五月〜六月 各国の政変

  • 五月、燕の尚書郎苻進が反乱を図って誅された。苻進は苻定の子である。
  • 魏の道武帝は北巡して濡源に至り、常山王拓跋遵を罪により死に至らしめた。
  • もともと魏に滅ぼされた劉衛辰の子・勃勃は後秦へ逃れ、高平公没奕干が娘を与えて婿とした。
  • 勃勃は容貌雄偉で弁舌も立ち、姚興はこれを大いに重んじ、軍国の大事まで論じ合った。
  • 姚邕は「勃勃は上に慢り、衆に残酷で貪欲、変転しやすく、寵愛し過ぎれば辺患になる」と強く諫めたが、姚興は聞かず、まず安遠将軍とし、のちには安北将軍・五原公として朔方に鎮させ、三交・五部の鮮卑や雑虜二万余落を付属させた。
  • そのころ魏は、捕虜としていた後秦将唐小方を返した。姚興は賀狄干の返還を願い、良馬千匹を贖いとして送ると、拓跋珪はこれを許した。

夏王赫連勃勃の自立

  • 勃勃は後秦が再び魏と通交したのを聞いて怒り、謀反を決意した。胡注は、楚の白公勝が乱を起こした事情に似ると評している。
  • 柔然可汗社崘が後秦へ献じた馬八千匹が大城に至ると、勃勃はこれを奪い取り、三万余の兵を集めて高平川での狩猟を装い、没奕干を襲って殺し、その衆を併合した。
  • 六月、自ら夏后氏の後裔を称して大夏天王・大単于を名乗り、大赦して龍升と改元した。
  • 百官を置き、兄の右地代を丞相・代公、力俟提を大将軍・魏公、叱干阿利を御史大夫・梁公、弟の阿利羅引を司隷校尉、若門を尚書令、叱以鞬・乙斗を左右僕射に任じた。
  • 賀狄干は長安で久しく幽閉されて経史を学び、帰国後は振る舞いも秦人のようであったため、拓跋珪は「秦に心を寄せてそれをまねた」と怒り、弟の賀帰とともに殺した。
  • 後秦では太子姚泓に録尚書事を命じた。

秋七月〜九月 日食と北燕建国

  • 七月朔に日食があった。
  • 汝南王司馬遵之が罪に座して死んだ。彼は司馬亮の五世孫である。
  • 癸亥、慕容熙は皇后苻氏を徽平陵に葬った。喪車があまりに高大で北門を壊して出るほどであり、慕容熙は髪を垂らし裸足で二十余里も徒歩で従った。
  • 以前から中衛将軍馮跋と弟の馮素弗は罪を得ており、慕容熙は彼らを殺そうとしていたため、馮跋は山沢に逃れていた。政役が煩多で民が疲弊していたので、馮跋・馮素弗と従弟馮万泥らは、民衆の怨みに乗じて大事を挙げることを決めた。
  • 彼らは車に婦人を御者として潜入し、北部司馬孫護の家に隠れた。
  • 慕容熙が送葬で城を離れると、馮跋らは張興や苻進の残党とともに決起した。
  • 馮跋はもとより慕容雲と親しく、彼を主君に推した。慕容雲は病を口実に辞したが、馮跋は「今こそ天が河間王の淫虐を亡ぼす時だ。あなたは高氏の名家であり、いつまで人の養子でいるのか」と迫り、ついに擁立した。
  • 馮跋の弟たちは弘光門を攻め、禁衛は散り、宮中に乱入して甲を配って門を閉ざし、守りを固めた。
  • 中黄門の趙洛生が慕容熙に急報すると、慕容熙は「鼠賊にすぎぬ」と言って南苑に棺を置き、髪をまとめて鎧を着け、急いで龍城へ帰った。
  • その夜、北門を攻めたが陥せず、門外に宿営した。
  • 乙丑、慕容雲は天王位に即き、大赦して正始と改元した。
  • 慕容熙は龍騰苑へ退いたが、尚方兵の褚頭が「営兵はみな同心で陛下を助ける。軍の到着を待つのみ」と告げたため、慕容熙は驚いて外へ逃れ、側近も近づけないうちに姿を消した。
  • 中領軍慕容抜は先に北城へ登って兵を率いたところ、城中の兵は慕容熙が来たと思って降伏した。しかし慕容熙が現れず後続も続かなかったため、疑心が生じていったん龍騰苑へ戻り、ついに潰走した。慕容抜は城中の者に殺された。
  • 丙寅、慕容熙は微服で林中に潜んでいたが捕らえられ、慕容雲のもとへ送られて数え上げるように罪を責められたうえ殺された。諸子も皆誅された。
  • 慕容雲はあらためて高氏の姓に復した。
  • 幽州刺史・上庸公慕容懿は令支をもって魏に降り、魏は平州牧に任じた。慕容懿は慕容評の孫である。
  • 魏の道武帝は濡源から西へ参合陂に向かい、その後平城へ戻った。

秋〜冬 外交と対蜀作戦

  • 秃髪傉檀はふたたび後秦に背き、使者を送って乞伏熾磐を誘ったが、熾磐はその使者を斬って長安へ送った。
  • 南燕主慕容超の母と妻はなお後秦にあったため、慕容超は御史中丞封愷を派遣して返還を求めた。
  • 姚興は、前秦滅亡後に燕へ移った太楽の伎楽、あるいは呉人一千口を差し出せば返してよいと答えた。
  • 南燕の群臣は議論し、段暉は「社稷を継ぐ者が私親のために称藩や先代の音楽を失うべきではない」と主張し、張華は「私親が他国の掌中にある以上、虚名を惜しんで屈しないのは得策ではない」と主張した。
  • 中書令韓範は姚興と旧知であったため、慕容超は彼を後秦へ遣わし、称藩して上表した。
  • 慕容凝は姚興に「母妻を返せば、もはや臣従しないだろう。先に伎楽を送らせるべきだ」と進言したが、姚興は暑気の収まる秋まで待つことにした。
  • 八月、後秦から員外散騎常侍韋宗が南燕へ来た。南燕朝廷ではこれをどの礼で迎えるか議論となり、張華は「すでに奉表した以上、北面して詔を受けるべき」と述べ、封逞は「大燕七聖の再興が一朝にして小国の臣下となるのか」と反対した。
  • 慕容超は「太后のために屈するのだ」として、北面受詔を行った。
  • 蜀方面では毛修之が漢嘉太守馮遷と協力して楊承祖を斬った。
  • 毛修之は進んで譙縦討伐を願ったが、益州刺史鮑陋が応じなかった。毛修之は、父伯父一族を蜀人に滅ぼされ、自分は復讐のために命をつないでいるだけであり、今こそ好機なのに鮑陋が毎度進軍を遅らせる、と上表した。
  • 劉裕は襄城太守劉敬宣に兵五千を率いさせて蜀討伐に向かわせ、劉道規を征蜀都督とした。

末年の諸事

  • 魏の道武帝は豺山宮へ赴いた。
  • 候官が、司空庾岳の服飾や挙措が人君をまねていると告発し、道武帝は庾岳を殺した。
  • 北燕王高雲は、馮跋を都督中外諸軍事・録尚書事、馮万泥を尚書令、馮素弗を昌黎尹、馮弘を征東大将軍、孫護を尚書左僕射、張興を輔国大将軍とした。馮弘は馮跋の弟である。
  • 九月、譙縦は後秦に称藩し、また盧循とも密かに通じた。
  • 譙縦は後秦に上表して桓謙の派遣を求め、共に劉裕を攻めたいと願った。姚興は桓謙に意見を求めたところ、桓謙は荊楚に累代の恩があるから、巴蜀の資をもって東下すれば士民は必ず呼応すると答えた。姚興は、譙縦にその器量があれば桓謙の助けは不要だとして送り出した。
  • 桓謙は成都に着くと人材登用に努めたため、譙縦はかえって疑い、龍格に移して監視させた。桓謙は涙ながらに弟たちへ「姚主の言葉は神のように当たった」と語った。