春正月 揚州刺史をめぐる政争
- 正月、琅邪王司馬徳文が司徒を兼ねた。
- 劉毅らは劉裕が朝廷に入って政権を握るのを望まず、中領軍謝混を揚州刺史にしようとした。また、劉裕を丹徒に置いたまま揚州を兼領させ、内政を孟昶に委ねようとする案も出た。
- 尚書右丞皮沈がこの二案を劉裕に諮問するため赴いた。
- 皮沈が劉裕に会う前、記室録事参軍の劉穆之が朝議の内容をすでに伝えた。面会の途中、便所へ立つふりをして密書を送り、皮沈の案に従ってはならぬと告げた。
- 劉裕が改めて穆之に問うと、穆之は、晋朝は久しく政を失い天命も移っている、劉毅や孟昶らは布衣から同時に起った同志ではあるが、真に臣主の分が定まっているわけではなく、力と勢いが並べば最後には互いに呑み合うだろう、ゆえに揚州という根本は他人に委ねてはならない、と論じた。
- また、前に王謐へ揚州を与えたのは便宜上の措置にすぎず、今回は建康へ出て直接議論すべきだと勧めた。
- 劉裕はこれに従い、朝廷も劉裕を侍中・車騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史・録尚書事、兼徐兗二州刺史として召した。
- 劉裕は兗州刺史を解き、諸葛長民を青州刺史として丹徒に鎮させ、劉道憐を并州刺史として石頭に駐屯させた。
- 庚申、武陵王司馬遵が死去した。
北方の異変と南燕
- 魏の道武帝は豺山宮から寧川へ赴いた。
- 南燕主慕容超は母の段氏を皇太后、妻の呼延氏を皇后とした。
- 南郊祭の際、赤くて鼠に似るが馬ほど大きい怪獣が祭壇のそばに現れ、ほどなく大風が吹いて昼なお暗くなり、羽儀や帷幄がみな裂けた。
- 慕容超がこれを太史令成公綏に問うと、「姦佞を信任し、賢良を殺し、賦斂と役使が重いことのしるしです」と答えた。
- 慕容超は大赦し、公孫五楼らを罷免したが、まもなくまた彼らを用いた。
- 北燕王高雲は妻李氏を皇后とし、子の彭城を太子に立てた。
- 三月、慕容熙と苻后があらためて徽平陵に葬られた。高句麗は北燕へ使者を送り、同族のよしみを叙したため、高雲は侍御史李拔を返礼に派遣した。
四月〜五月 晋と北燕
- 四月、尚書左僕射孔安国が死去し、甲午、吏部尚書孟昶がその後任となった。
- 北燕では大赦が行われた。
- 五月、北燕は馮万泥を幽・冀二州牧として肥如に、馮乳陳を并州牧として白狼に鎮させ、馮素弗を司隷校尉、務銀提を尚書令とした。
譙縦・桓謙と後秦
- 譙縱は後秦に使者を送り称藩し、また盧循ともひそかに通じた。
- 譙縱は桓謙を借り受けて劉裕を討ちたいと後秦に願ったが、姚興は桓謙に自らの多福を求めるべきだとして送り出した。
- 桓謙が成都に着いて士人を招き寄せると、譙縱はこれを疑い、龍格に置いて監視させた。桓謙は姚興の見通しの正しさを嘆いた。
後秦の南涼討伐計画
- 姚興は、秃髪傉檀が内外ともに多難であるのに乗じて奪取しようと考え、尚書郎韋宗を派遣して情勢を偵察させた。
- 韋宗は傉檀と当世の大勢を論じ、その弁舌と見識に感じ入り、「英才は中華に限らず、明智は必ずしも読書から出るものではない」と賞賛した。
- 帰還後、韋宗は姚興に、傉檀は権謀に長けており容易には図れないと告げた。
- しかし姚興は、劉勃勃ですら烏合の衆で傉檀を破れたのだから、天下の兵を用いればなおさらだとして聞き入れなかった。
- 尹昭は、沮渠蒙遜と李暠に討たせて互いに疲弊させればよいのであって、自国の兵を煩わす必要はないと諫めたが、これも退けられた。
- 姚興は姚弼・斂成・乞伏乾帰に歩騎三万を率いさせて傉檀を襲わせ、斉難には騎兵二万で勃勃を討たせた。
- 同時に傉檀へは、「斉難が勃勃を討つので、西へ逃げぬよう姚弼らを河西に出す」と書き送った。
- 傉檀はこれを信じ、守備を整えなかった。
- 姜紀は姚弼に、軽騎五千で城門を押さえれば山沢の民まで皆こちらに帰し、孤城は容易に取れると進言したが、姚弼は用いなかった。
夏〜秋 後秦軍の敗退
- 姚弼は金城から渡河し、漠口に至った。昌松太守蘇霸は城を閉ざして降らず、「汝らは信義を捨てて同盟国を攻めるのだ。死あるのみ」と言って抵抗し、ついに斬られた。
- 姚弼は姑臧へ進み、傉檀は籠城して奇兵でこれを撃ち破った。姚弼は西苑へ退いて守った。
- このとき城内の王鍾らが内応を謀ったが発覚した。傉檀は首謀だけを殺して他を赦そうとしたが、伊力延侯は、強敵が外にいて内に姦人が起こるのは最も危険であり、皆殺しにして後戒とすべきだと主張し、傉檀は従って五千余人を殺した。
- 傉檀は郡県に命じて牛羊を野に放ち、敵を誘った。斂成がこれを略奪すると、傉檀は俱延・敬帰らに攻撃させ、後秦軍は大敗して七千余級を失った。
- 姚弼は塁にこもって動かず、傉檀は攻めたが落とせなかった。
- 七月、姚興は常山公姚顕に騎兵二万を率いさせて後続とした。姚顕は高平で姚弼敗報を聞くと急行し、善射の孟欽らを凉風門前に出して挑戦させたが、矢を放つ間もなく南涼の宋益らに斬られた。
- 姚顕は斂成に罪を着せ、使者を送って傉檀へ謝罪し、河西の兵を引き上げた。傉檀も徐宿を長安に送り、謝罪した。
勃勃の台頭
- 夏王勃勃は後秦軍の接近を聞いて河曲へ退いた。
- 斉難は、勃勃が遠く去ったとして兵に野掠を許したが、勃勃はひそかに襲って七千余を討ち、斉難は退走した。
- 勃勃は木城まで追撃し、将士一万三千人を捕えた。これによって嶺北の夷夏で勃勃に帰服する者は万を数え、勃勃はそれぞれ守宰を置いて支配を固めた。
- 胡注は、姚弼の敗北はただちに大患ではなかったが、斉難の敗北によって赫連勃勃の脅威は一段と強まったと評する。
晋 山東・蜀方面
- 司馬叔璠が蕃城から鄒山へ侵入し、魯郡太守徐邕は城を捨てて逃げたが、車騎長史劉鍾が撃退した。
- 北燕王高雲は慕容帰を遼東公に封じ、燕の祭祀を主らせた。
- 劉敬宣は峡に入ると、巴東太守温祚に二千人を与えて外水へ出させ、自身は鮑陋・文処茂・時延祖とともに墊江から転戦して進んだ。
- 譙縱は後秦へ救援を求め、姚興は姚賞と王敏に二万を率いさせて援軍に向かわせた。
- 劉敬宣軍は黄虎に至り成都まで五百里に迫ったが、譙道福が険阻に拠って防ぎ、六十余日も対峙した。
- 劉敬宣軍は食糧が尽き、疫病も流行して死者が過半に達したため、退却した。
- 劉敬宣は敗戦の責任で免官され、封戸の三分の一を削られた。荊州刺史劉道規も督統の号を降格されて建威将軍となった。
- 九月、劉裕は劉敬宣の失敗について自らの位を辞そうと願い、中軍将軍へ降格されたが、開府は従前どおりとされた。
- 劉毅は厳罰をもって劉敬宣を処しようとしたが、劉裕が保護した。何無忌は劉毅に対し、「私怨で公の大義を傷つけるのか」と諫め、劉毅はやめた。
乞伏熾磐の独立準備
- 乞伏熾磐は後秦の政権が衰えつつあるのを見、また後秦から攻められるのを恐れて、十月、諸部二万余人を招き集め、嵻㟍山に城を築いて拠った。
十一月〜十二月 南涼・南燕・北魏
- 十一月、秃髪傉檀は再び凉王を称し、大赦して嘉平と改元し、百官を置いた。
- 夫人折掘氏を王后、世子武台を太子、左長史趙鼂・右長史郭倖を尚書左右僕射、俱延を太尉とした。
- 南燕では女水が再び涸れ、川や河も凍って一体となったが、澠水だけは凍らなかった。
- 慕容超がこれを怪しむと、李宣は「京城に接し、日月の気を受けるからだ」と取り繕った。慕容超は喜んで朝服一具を賜った。
- 十二月、乞伏熾磐は枹罕の彭奚念を攻めたが、逆に敗れて退いた。
- この年、魏の道武帝は高邑公莫題を殺した。
- もともと拓跋窟咄が道武帝を攻めた時、莫題は道武帝が若年であるのを侮り、ひそかに矢を窟咄に贈って「三歳の子牛で重荷に耐えられようか」と揶揄していた。
- 道武帝はこのことを恨みに思い続け、のちに莫題が居処・態度ともに傲慢で人君をまねていると告発されると、その矢を示して「三歳の子牛とはどうだ」と問いただし、父子ともに泣かせたうえ、翌朝捕えて斬った。
- この年、西涼公李暠は、以前の上表に返答がないため、再び沙門法泉を間道から建康へ送って表を奉らせた。