資治通鑑晉紀三十六 安皇帝 義熙二年 406年

春正月 北魏の地方制度改革

  • 魏の道武帝拓跋珪は豺山宮へ赴いた。
  • 諸州に三人の刺史、諸郡に三人の太守、諸県に三人の令長を置き、それぞれの州県へ派遣した。
  • ただし郡太守は置いたものの、まだ実際には民政に臨ませなかった。
  • それまで功臣で州を治めていた者たちは、みな京師へ召し返され、爵位のみを持って私第へ帰された。
  • 晋では、益州刺史司馬栄期が白帝で譙明子を破った。

燕王熙の遠征と南燕の政治

  • 燕王慕容熙は陘北に至ったが、契丹軍の多さを恐れて退こうとした。ところが苻后が許さず、やむなく輜重を捨てて軽兵で高句麗を襲った。
  • 南燕の慕容超は猜疑心と苛虐さを強め、政治は権幸に委ねられ、自身は狩猟と遊楽にふけった。
  • 封孚や韓𧄔がたびたび諫めても聞き入れなかった。
  • あるとき慕容超が封孚に「自分は古のどの君主に比すべきか」と問うと、封孚は「桀・紂です」と答えた。
  • 慕容超は恥じて怒ったが、封孚は表情も改めずゆっくり退出した。
  • 鞠仲が「どうして天子にそんな言い方をしたのか、戻って謝るべきだ」と勧めても、封孚は「七十にもなって、ただ死に場所を求めているだけだ」として謝らなかった。
  • 慕容超も当時の名望を考慮して、すぐには処分しなかった。

河間王一族の挙兵

  • 桓玄の乱の際に南燕へ逃れていた河間王司馬曇の子ら、司馬国璠・司馬叔璠が、二月に弋陽を攻め落とした。
  • 胡注は、劉裕の簒奪の意図はまだ明白ではない段階であり、本来なら劉敬宣らのように南帰する道もあったはずだが、章武王司馬秀の誅殺などを見て帰国を恐れたのであろうと論じる。

高句麗遠征の失敗

  • 燕軍は三千里を進軍して疲弊し、寒さで死ぬ者が道に続出した。
  • 木底城を攻めたが陥落させられず、撤退した。
  • 夕陽公慕容雲は矢傷を受け、また慕容熙の残虐を恐れて、病を理由に官を辞した。これは後に慕容熙を倒す伏線となる。

三月〜四月 北魏の巡幸

  • 道武帝は平城へ帰還した。
  • 夏四月、再び豺山宮へ赴き、甲午に平城へ戻った。
  • 柔然の社崘が魏辺境へ侵攻した。

五月〜六月 北方諸国

  • 燕主慕容宝の子である博陵公慕容䖍、上党公慕容昭が、ともに嫌疑によって死を賜った。
  • 六月、後秦の隴西公姚碩徳が上邽から入朝すると、姚興は大赦を行い、帰途には雍まで見送った。
  • 姚興は晋公姚緒・姚碩徳を家人同然に遇し、車馬や服飾もまず二人に奉ってから自ら用い、国政の大事も必ず諮ってから行った。

南涼・後秦・涼州の政局

  • 秃髪傉檀が沮渠蒙遜を攻めたが、蒙遜は籠城し、傉檀は赤泉まで進んで引き返した。
  • 傉檀は馬三千匹、羊三万口を後秦へ献じ、姚興はこれを忠節とみて、傉檀を都督河右諸軍事・車騎大将軍・凉州刺史として姑臧に鎮させ、王尚を長安へ召還した。
  • これに対し、凉州の申屠英らは主簿胡威を長安へ送って王尚留任を請願した。
  • 胡威は姚興に対し、凉州の士民は五年にわたり王化を戴き、苦難に耐えて孤城を守ってきたのであり、それを馬三千・羊三万と引き換えに手放すのは、人を賤しみ家畜を貴ぶに等しい、と涙ながらに訴えた。さらに、河西五郡を失えばただ凉州民だけでなく、後々の国家の大患になると論じた。
  • 姚興は後悔し、車普を急派して王尚を引き留めようとし、また傉檀にも使者を送った。だがその時にはすでに傉檀が歩騎三万を率いて五澗に進軍しており、車普が先に状況を知らせたため、傉檀は急いで王尚を送り出した。王尚は青陽門から出、傉檀は凉風門から入城した。
  • 別駕宗敞が王尚を長安まで送った。傉檀が宗敞に「三千余家の人心は卿にかかっているのに、なぜ去るのか」と問うと、宗敞は「旧君を送り届けることで、かえって殿下への忠を尽くすのだ」と答えた。
  • 宗敞はまた、凉州は衰えても形勢に優れた地だから、民を恵み賢才を集めれば大業を立てられると説き、当地の文武十余人を推薦した。傉檀はこれを喜んで受け入れた。
  • 王尚は長安に着くと尚書とされた。
  • 傉檀は宣徳堂で群臣を宴し、「建てた者はそこに住まず、住む者は建てなかったという言葉は本当だ」と感嘆した。武威の孟禕は、この堂には張氏以来百余年で十二人の主が代わったが、信義を履み道に従う者だけが長く居られるのだと述べ、傉檀はこれを善しとした。

北魏 平城の大造営

  • 道武帝は平城の規模を鄴・洛陽・長安になぞらえようとし、宮室の大拡張を計画した。
  • 巧思のある済陽太守莫題を召して相談したが、莫題が長く侍して次第に怠慢な様子を見せたため、怒って死を賜った。莫題は莫含の孫である。
  • そこで八部と都の周囲五百里以内の成年男子を動員し、灅南宮を築いた。門楼は十丈余の高さに達し、溝池や苑囿も穿ち、外城は一辺二十里として、市と里を分置した。工事は三十日で終えた。

秋冬 諸国の動き

  • 七月、魏の太尉穆崇が死去した。
  • 八月、秃髪傉檀は興城侯文支を姑臧に残して、自らは楽都へ帰った。後秦の爵命は受けていたが、車服や礼儀は王者に等しかった。
  • 甲辰、道武帝は豺山宮に赴き、そのまま石漠に進み、九月に漠北を越えて癸巳に長川から南還した。
  • 劉裕は譙縦の反乱を聞き、毛修之を司馬栄期・文処茂・時延祖らとともに派遣して討たせた。
  • しかし毛修之が宕渠に至ると、司馬栄期が参軍楊承祖に殺され、楊承祖は自ら巴州刺史を称したため、毛修之は白帝へ退いた。
  • 秃髪傉檀は西涼に和を求め、李暠はこれを受け入れた。
  • 沮渠蒙遜は酒泉を襲い、安珍まで進んで李暠を破ったが、李暠は城を守り抜き、蒙遜は引き揚げた。

南燕 内乱の激化

  • 公孫五楼は朝権を独占しようとして、北地王慕容鍾を慕容超に讒言し、誅殺を求めた。
  • 慕容徳の喪の際、慕容法が奔喪しなかったため、慕容超は使者を送って責めた。慕容法は恐れて、慕容鍾・段宏とともに反乱を計画した。
  • 慕容超が慕容鍾を召しても、病と称して来なかったため、慕容超はその党与である慕容統らを捕えて殺した。
  • また卜珍が封嵩と慕容法の往来を告発したため、封嵩も逮捕された。
  • 太后は涙ながらに、「封嵩が、帝は太后の生んだ子ではないから永康年間のようなことが起きるかもしれないと脅したので、私は婦人の浅慮から慕容法に話してしまい、誤らされた」と訴えた。
  • 慕容超は封嵩を車裂に処した。封融は魏へ亡命した。
  • 慕容超は慕容鎮に青州、慕容昱に徐州、慕容凝・韓範に兗州を攻めさせた。慕容昱は莒城を抜き、段宏は魏へ逃れた。
  • 封融は群盗とともに石塞城を襲って余鬱を殺した。
  • 慕容凝は韓範を殺して広固を襲おうとしたが、韓範が先に察して攻撃し、慕容凝は梁父へ逃れた。韓範はその兵も併合して梁父を攻め落とした。
  • 慕容法は魏へ、慕容凝は後秦へ逃れた。慕容鎮は青州を平定した。慕容鍾は妻子を殺し、地道を掘って脱出し、高都公慕容始とともに後秦へ奔った。後秦は慕容鍾を始平太守、慕容凝を侍中とした。
  • 慕容超は旧制の変更を好み、朝野の不満を招いた。さらに肉刑の復活や烹・轘などの酷法を設けようとしたが、群臣の同意を得られず断念した。

冬十月〜十二月 晋の封賞と諸反乱

  • 封孚が死去した。胡注は、慕容超は即位当初こそ大臣の心を和らげるべきだったのに、それに失敗して兵乱を招き、やがて滅亡するのは必然だったと評する。
  • 尚書省は建義の功を論じ、劉裕を豫章郡公、劉毅を南平郡公、何無忌を安成郡公に封じ、その他にも差等を設けて論功行賞した。
  • 梁州刺史劉稚が反乱したが、劉毅が将を遣わして討ち取り、生け捕った。
  • 庚申、道武帝は平城に帰還した。
  • 乙亥、左将軍孔安国を尚書左僕射とした。
  • 十一月、秃髪傉檀は姑臧へ遷った。乞伏乾帰は後秦へ入朝した。
  • 十二月、何無忌を江州刺史とし、荊・江・豫三州八郡都督とした。
  • この年、桓石綏が司馬国璠・陳襲らとともに胡桃山に拠って略奪を行ったが、劉毅が司馬劉懐粛を派遣して撃破した。桓石綏は桓石生の弟である。