資治通鑑晉紀二十五 烈宗孝武皇帝上之上 寧康 元年 373年
正月・二月 新帝即位と桓温入朝
- 正月己卯朔、大赦が行われ、寧康と改元された。
- 二月、桓温が入朝した。都では、王謝を誅して晋室を移すのではないかとの流言が広がり、人心は大いに動揺した。
- 辛巳、謝安と王坦之が新亭で桓温を迎えた。王坦之は恐れて汗を流したが、謝安は平然としていた。桓温は兵衛を大いに陳列して朝士を引見したが、謝安は「諸侯に道があれば守りは四隣にある。なぜ壁の後ろにまで人を置くのか」と言い、桓温を笑わせて撤去させた。
- 郗超は帳中に伏せて会談を聞いていたが、風で帳が開くと、謝安は「郗生はまさに幕中の賓客だ」と笑った。胡三省は、謝安と王坦之が幼主のもとで忠節を尽くし、ついに晋室を支えたことを評価している。
盧悚事件の余波
- 桓温は盧悚の宮中乱入事件を取り調べ、尚書陸始を廷尉に付し、桓祕を免官とし、連座者も多く処罰した。
- 一方で毛安之は左衛将軍に昇進し、桓祕はこれを恨むようになった。
- 三月、桓温は病を得て建康に十四日とどまったのち、甲午に姑孰へ帰った。
夏から秋 対外関係と桓温の死
- 夏、代王什翼犍は燕鳳を前秦へ遣わして入貢した。
- 七月己亥、桓温が死去した。病中、九錫を求める意を朝廷にたびたびほのめかしたが、謝安と王坦之はあえて手続きを遅らせた。袁宏に草案を書かせたものの、王彪之はそれを見て文才は認めつつも世に示すべきでないとし、謝安も書き改め続けたため、十日以上経っても成らなかった。
- 桓温は弟の桓沖に、謝安・王坦之はお前の思うままにはならないと言い残した。自分が生きている間は彼らも異論を立てないが、死後に害しても桓沖の益にならず、かえって世望を失うと見ていたためである。
- 桓温は世子桓熙が弱いとして、桓沖に兵を預けるようにしていた。これに対し桓祕と桓熙の弟桓済は桓沖を殺そうと謀ったが、桓沖は事前に察知して温の死後ただちに桓熙・桓済を拘束した。桓祕は失脚し、桓熙・桓済は長沙へ流された。
- 朝廷は桓温を霍光・安平献王の故事にならって葬るよう命じた。桓沖は温の遺命として幼子桓玄を後嗣とし、南郡公を継がせた。桓玄はこのとき五歳であった。
桓氏諸将の再配置
- 庚戌、桓豁を征西将軍・都督荊揚雍交広五州諸軍事とし、桓沖を中軍将軍・都督揚豫江三州諸軍事・揚豫二州刺史として姑孰に鎮させた。桓石秀は江州刺史として潯陽に鎮した。
- こうして桓温の旧権力は弟や甥に分けられたが、桓沖は王室に忠実で、死罪をも自分で専断していた桓温と違い、大辟は必ず朝廷に上申して裁可を待ってから執行するよう改めた。
崇徳太后の臨朝再開
- 謝安は、天子が幼く、桓沖も新たに元輔の地位を継いだばかりなので、崇徳太后に臨朝させようとした。
- 王彪之は、幼主が襁褓にある場合なら母后臨朝もよいが、今上はすでに十歳に近く、かえって幼弱を世に示すだけで大体を損なうと反対した。
- しかし謝安は桓沖に専権を委ねたくなかったため、八月壬子、崇徳太后は再び臨朝摂政した。胡三省は、王彪之の主張は正義であり、謝安の方策は時宜だったと評する。
仇池・漢川方面で前秦進攻
- 梁州刺史楊亮は子の楊広に仇池を襲わせたが、前秦の梁州刺史楊安に敗れた。沮水沿いの諸戍はみな城を捨てて崩れ、楊亮は磬険へ退いて守った。
- 九月、楊安はさらに漢川へ進んだ。
朝政の中枢
- 丙申、王彪之が尚書令、謝安が僕射・領吏部となり、共に朝政を掌った。謝安自身、大事で人々が決めかねることも王彪之に諮ればすぐ裁断できると感嘆していた。
- 刁彞は徐・兗二州刺史として広陵に鎮した。
冬 前秦、梁益二州を奪取
- 苻堅は益州刺史王統・秘書監朱肜に二万を率いさせて漢川から、前禁将軍毛当・鷹揚将軍徐成に三万を率いさせて剣門から侵攻させた。
- 梁州刺史楊亮は巴獠一万余を率いて青谷で迎え撃ったが大敗し、西城へ逃れて立てこもった。朱肜は漢中を陥れ、徐成は剣閣を抜き、楊安は梓潼を攻めた。
- 梓潼太守周虓は涪城を固守したが、家族を江陵へ送ろうとしたところ、朱肜に捕えられたため降伏した。
- 十一月、楊安は梓潼を克ち、荊州刺史桓豁が竹瑶を救援に遣わしたが、広漢太守趙長の戦死を聞いて退いた。
- 益州刺史周仲孫は緜竹で朱肜を防いでいたが、毛当が成都へ迫ると、五千騎を率いて南中へ逃れた。
- 前秦はついに梁州・益州を奪い、卭・筰・夜郎もこれに附いた。苻堅は楊安を益州牧として成都に、毛当を梁州刺史として漢中に、姚萇を寧州刺史として墊江に、王統を南秦州刺史として仇池に置いた。
周虓の節義
- 苻堅は周虓を尚書郎に任じようとしたが、周虓は晋の厚恩に背いて失節した身であり、母子が生きながらえたのは秦の恩によるだけだとして辞退した。
- その後も苻堅に会うたびに箕踞し、氐賊と呼んだ。元会の盛儀を見せて晋朝とどちらが上かと問われると、犬羊の群れであって天朝に比べるべくもないと答えた。秦人は幾度も殺害を請うたが、苻堅はかえって彼を厚遇した。
そのほかの年中記事
- 周仲孫は失地の責を問われて免官となった。
- 桓沖は毛虎生を益州刺史に任じ、その子毛球を梓潼太守としたが、巴西まで進んで糧不足のため巴東へ退いた。
- 王坦之は中書令・領丹楊尹となった。
- 隴右では鮮卑勃寒が掠奪を行い、苻堅は乞伏司繁に討たせた。勃寒は降伏し、司繁は勇士川に鎮した。
彗星と対慕容氏警戒論
- この年、尾・箕に彗星が現れ、太微を経て東井を掃くほど長く、春から秋冬まで消えなかった。
- 太史令張孟は、尾箕は燕の分野、東井は秦の分野であり、この兆しは十年後に燕が秦を滅ぼし、さらに二十年後には代が燕を滅ぼすことを示すと説いた。慕容暐一族が朝廷に満ちていることを憂え、魁桀を除くべきだと進言した。
- 陽平公苻融もまた、鮮卑はもとより慕義して帰順したのではなく、今その父兄子弟が朝廷で権勢を持つのは危険だとして、少しは注意を払うよう上疏した。
- しかし苻堅は、天下を一家とし夷狄を赤子のように扱う方針を変えず、徳を修めれば災いは禳えるとして取り合わなかった。胡三省は、ここに苻堅が虎を養って自ら患いを招く端緒を見る。