資治通鑑晉紀二十五 太宗簡文皇帝 咸安 二年 372年
春二月 前秦の人材登用
- 前秦は清河の房曠を尚書左丞に任じ、その兄の房黙、崔逞、韓乱、陽陟、田勰、陽瑶、郝略ら関東の名士を中央や地方官に起用した。いずれも王猛の推挙によるものだった。
慕容評処分と苻堅の失策評
- 慕容垂は苻堅に対し、叔父の慕容評は燕を滅ぼした元凶であり、聖朝を汚すべきでないから処刑してほしいと進言した。
- 苻堅は処刑まではせず、慕容評を范陽太守に出し、燕の諸王も皆辺郡へ補任した。
- 司馬光はここで論を加え、国を滅ぼした害臣を誅せず、かえって優遇したのは一人を愛して一国の人心を失うものだとし、苻堅が最後に大業を成しえなかった理由の一つとした。
三月 桓温再召と辞退
- 三月戊午、晋朝は侍中王坦之を派遣し、桓温に入朝して輔政するよう求めたが、桓温はまたも辞退した。
前秦の学芸振興
- 苻堅は詔して、関東の民のうち一経に通じ一芸を成した者は所在官庁が礼をもって送り出すよう命じた。
- 反対に、官吏で百石以上の者でも学問も技能も備えない者は罷免して民に戻した。胡三省は、苻堅ほどでもついに国家を全うできなかったのだから、これに及ばぬ者はなおさらだと嘆いている。
夏四月 海西公の移封
- 四月、海西公は呉県西の柴里へ移された。朝廷は呉国内史刁彞に警備を命じ、御史顧允を派遣して監察させた。刁彞は刁協の子である。
六月 王猛、丞相となる
- 六月癸酉、前秦は王猛を丞相・中書監・尚書令・太子太傅・司隸校尉・特進・常侍・持節将軍・侯のままとし、政務の中枢に据えた。
- 陽平公苻融には都督六州諸軍事・鎮東大将軍・冀州牧を与え、王猛の鄴での任を代えさせた。
庾希の反乱
- 庾希・庾邈は故青州刺史武沈の子・武遵と結び、夜に京口城へ侵入した。晉陵太守卞眈は城を越えて曲阿へ逃れた。
- 庾希は海西公の密旨を受けて桓温を討つと称したため、建康では内外とも戒厳となった。
- 卞眈は諸県の兵二千を発してこれを攻め、庾希は敗れて城に籠った。桓温は東海内史周少孫を派遣して討伐させた。
- 秋七月壬辰、城は陥落し、庾希・庾邈とその党与は捕えられて皆斬られた。胡三省は、これで庾亮の後裔は滅んだと記す。
七月 簡文帝の重病と皇太子冊立
- 甲寅、帝は重病となり、桓温を急ぎ召して輔政させようと、一昼夜のうちに四度も詔を発したが、桓温は来なかった。
- 帝が会稽王だった頃、王妃王氏との間に生まれた道生・俞生らは失われ、他の男子も早世し、長く後継がいなかった。占相者は後宮を見て、織坊にいた李陵容こそ子を生む人だと見抜き、彼女が昌明と道子を生んだ。昌明が後の孝武帝である。
- 己未、十歳の昌明が皇太子に立てられ、道子は琅邪王となって、帝の生母鄭太妃の祭祀を奉じることになった。
簡文帝崩御と遺詔改変
- 帝は遺詔で、桓温に周公居摂の故事にならうよう命じ、さらに「幼子が補佐できるなら補佐し、もし不可能なら自ら取れ」とまで記した。
- 侍中王坦之は詔書を帝の前で破り捨て、天下は宣帝・元帝以来の天下であって、陛下が私するものではないと述べた。
- 帝は詔を改めさせ、国家の大事は一切桓温に任せるが、諸葛亮や王導の故事にならう形にとどめた。
- この日、簡文帝は崩じた。享年五十三。群臣は後継の即位をためらい、桓温の処分を待つべきだという声もあったが、王彪之が、天子が崩じれば太子が立つのは当然であり、大司馬が異議を唱える余地はないと強く主張し、皇太子の即位が決まった。
- 新帝即位に伴い大赦が行われ、崇徳太后は詔して、幼帝であり喪中でもあるので桓温に周公居摂の故事を行わせるよう命じたが、王彪之が、桓温は必ず固辞し、その間に万機も山陵も滞るとして封還し、実施させなかった。
- 桓温は禅位か居摂を期待していたため、望みどおりにならず大いに憤り、王坦之と謝安を恨んだ。謝安が再び入朝を求める詔を出したが、桓温はまた辞退した。
八月 王猛の専任体制
- 八月、王猛は長安に至り、さらに都督中外諸軍事を加えられた。
- 王猛は、丞相・太子太傅・尚書令・司隸校尉・中書監・都督中外諸軍事を一身に兼ねるのは、伊尹・呂望・蕭何・鄧禹ほどでも難しいとしてたびたび辞したが、苻堅は、天下統一の大事を任せられるのは王猛しかいないとして許さなかった。
- 王猛は実際に百官に総己させ、内外の軍国政務を統べ、剛明清粛な統治で尸位素餐の者を退け、農桑・軍備を整えたため、前秦は富強となった。
- 苻堅は太子苻宏や長楽公苻丕らにも、王猛に対して自分に仕えるように仕えよと命じた。
苻融の冀州統治
- 冀州の苻融は房黙・申紹・崔宏らを幕僚に選んだ。年少で新奇を好み、厳格な政治に傾いたが、申紹がしばしば寛和を勧めた。
- 後に申紹が他郡へ出されてから、苻融は過失を重ね、申紹の言を用いなかったことを悔やんだ。
- 学舎を勝手に建てた件で有司の弾劾を受けたとき、使者に適任なのは高泰だと申紹が推挙した。高泰は長安で王猛に弁明し、学宮建設は魯・斉の善政を追うものであるのに、かえって糾弾されるのは不当だと説いて問題を解いた。
- 王猛は高泰の才を高く評価して苻堅に推し、苻堅は召見して政治の本を問うた。高泰は、人を得ること、そのためには真偽を厳格に見極めることだと答え、尚書郎に任じられた。
九月から冬 孝武帝周辺
- 九月、故会稽王妃王氏が順皇后と追尊され、帝母李氏は淑妃とされた。
- 十月丁卯、簡文帝は高平陵に葬られた。
- 彭城の妖人盧悚は大道祭酒を称し、信徒八百余家を集めた。
十一月 海西公復辟未遂
- 盧悚は弟子の許龍を呉へ送り、朝早く海西公の門に着いて、太后の密詔で迎えて復位させると言わせた。
- 海西公は当初従おうとしたが、保母の諫めもあり、さらに太后の詔なら官属が来るはずで、使者一人だけなのは怪しいと見抜き、かえって左右に命じて許龍を縛らせた。許龍は恐れて逃げた。
- 甲午、盧悚は三百人を率いて広莫門を攻め、海西公が帰還したと偽り、雲龍門から殿庭へ突入し、武庫の甲仗を奪った。
- 宮中は驚愕したが、游撃将軍毛安之が急行して雲龍門から討ち入り、左衛将軍殷康・中領軍桓祕も止車門から加わって平定した。盧悚と党与数百人は誅された。
- 海西公はこの後いっそう横禍を恐れ、酒と声色にふけって子も育てず、朝廷も彼が屈辱に安んじていると見て、もはや警戒を強めなかった。
年末の諸事
- 前秦では、朔方に長年鎮した梁平老が死去し、鮮卑・匈奴は彼を畏れつつ愛していた。
- 三呉では大旱があり、多くの人が餓死した。