資治通鑑晉紀二十五 烈宗孝武皇帝上之上 寧康 二年 374年
正月・二月 晋朝人事
- 正月癸未朔、大赦が行われた。
- 己酉、刁彞が死去した。
- 二月癸丑、王坦之が都督徐兗青三州諸軍事・徐兗二州刺史として広陵に鎮し、謝安は中書を総覧した。
謝安の清談と王坦之の諫言
- 謝安は音律を好み、近親の喪中であっても管弦を絶たなかったため、士大夫もこれに倣って風俗となった。
- 王坦之はたびたび書を送り、礼法という天下の宝を天下のために惜しんでほしいと苦く諫めたが、謝安は従わなかった。
前秦の喪と蜀での反秦蜂起
- 三月、前秦の太尉李威が死去した。
- 五月、蜀人の張育・楊光が前秦に対して挙兵し、兵二万を集めて晋に援軍を求めた。
- 苻堅は鄧羌に甲士五万を率いさせて討たせた。
- 晋では益州刺史竹瑶・威遠将軍桓石虔が三万を率いて墊江の姚萇を攻め、姚萇は敗れて五城に退いた。竹瑶・桓石虔は巴東に駐屯した。
張育の自立と敗北
- 張育は蜀王を称し、巴獠の酋帥張重・尹万ら一万人余とともに成都を包囲した。六月には黒龍と改元した。
- しかし七月、張育と張重らは権力を争って戦い始めた。前秦の楊安・鄧羌がこれを急襲して張育を破り、張育と楊光は緜竹へ退いた。
- 八月、鄧羌は晋軍を涪西で破り、九月、楊安は張重・尹万を成都南で破って張重を討ち、二万三千級を斬った。鄧羌も緜竹で張育・楊光を撃ち、二人を斬った。こうして益州は再び前秦の支配下に入った。
十二月 前秦宮中の怪異と鮮卑警戒論
- 十二月、何者かが前秦の明光殿に入り、「甲申・乙酉、魚羊が人を食う、悲しいかな、もはや遺る者もない」と叫んで姿を消した。ここでいう「魚羊」は鮮卑を暗示する語だとされる。
- 秘書監朱肜・秘書侍郎趙整は、これを機に鮮卑を誅すべきだと強く請うたが、苻堅は聞かなかった。
- 趙整は宦官で、博聞強記・文章にも優れ、しばしば直言していた。前には、慕容垂の夫人が苻堅の寵愛を受けて同じ車に乗った際、歌で諷諫してそれをやめさせたこともあった。
代の南征
- この年、代王什翼犍は劉衛辰を攻め、衛辰は南へ逃れた。胡注は、この出来事が次に衛辰が前秦へ救援を求める前提になると見る。