資治通鑑晉紀二十五 烈宗孝武皇帝上之上 寧康 三年 375年
春正月 大赦
五月 王坦之の死と桓沖の進退
- 五月丙午、王坦之が死去した。臨終の書を謝安・桓沖に送り、ただ国家を憂えて私事は語らなかった。
- 桓沖は、謝安に重望があることから揚州を譲り、自らは外任に出ようと考えた。桓氏一門はみなこれを誤りとして強く止め、郗超も深く諫めたが、桓沖は聞き入れなかった。
- 甲寅、朝廷は桓沖を都督徐豫兗青揚五州諸軍事・徐州刺史として京口に鎮させ、謝安には揚州刺史を領させ、両者に侍中を加えた。
六月・七月 王猛の病と死
- 六月、前秦の王猛が病に伏した。苻堅は自ら南北郊・宗廟・社稷に祈り、侍臣を諸河嶽の神々へ遍く遣わして祈祷させた。病が少し軽くなると、そのために大赦まで行った。
- 王猛は上疏し、自分一人の命のために天地の徳を損なうような赦しは古来ないとしつつ、死に際しての諫言を遺した。そこでは、燕を平らげ蜀を定めるほどの功業を成しても、善く始めて善く終わるのは難しいから、先聖にならって慎みを失わないよう求めた。
- 七月、苻堅は王猛の邸に見舞いに赴き、後事を問うた。王猛は、晋は江南に偏していても正朔を継ぎ上下が安和しているから、自分の死後は晋を攻めてはならず、鮮卑と西羌こそ秦の仇敵で、将来必ず禍となるので、しだいにこれを除くべきだと述べた。
- 言い終えて王猛は死去した。苻堅はその死を深く悲しみ、太子に向かって「景略をあまりにも早く奪われた」と嘆き、霍光の故事にならって葬らせた。
八月 立后と外戚
- 八月癸巳、皇后王氏が立てられ、大赦が行われた。王皇后は王濛の孫である。
- 后の父である王蘊は光禄大夫・領五兵尚書に任じられたが、固く辞して受けなかった。
九月 孝武帝の学問
- 九月、帝は孝経を講じ、はじめて典籍を広く閲した。
- 謝安は東莞の徐邈を中書舎人に薦めた。徐邈は顧問に応じて多くの匡益をなし、帝が酒宴の後に気ままな手詔や詩を侍臣に賜ろうとすると、その場で回収して中書省へ持ち帰り、体裁の整うよう削り改めてから再び奏覧に供したので、朝議はこれを高く評価した。
冬十月 前秦の文治化
- 十月癸酉朔、日食があった。
- 苻堅は、賢辅王猛を失った今、百司の働きはまだ自分の心にかなわないとして、未央南に聴訟観を置き、自ら五日に一度出て民の訴えを聞くとした。
- また、天下がまだ完全には平定されていないとはいえ、ここでは武を偃めて文を修め、王猛の雅意にかなうようにすると述べ、儒教を大いに興し、老荘や図讖の学を禁じ、違反者は棄市とした。
- 優秀な学生を選び、太子・公侯・百官の子弟を学ばせ、中外の禁軍・衛軍・四軍の長上将士にも学問を受けさせた。二十人ごとに一人の経生をつけて読みや句読を教えさせ、後宮にも教学機関を置いて、宦官や女隷のうち聡敏な者に博士から経を学ばせた。
- 尚書郎王佩が図讖を読んでいたため、苻堅はこれを殺し、図讖の学は絶えることになった。