春三月:桓温の北伐計画
- 大司馬の桓温は、徐州・兗州刺史の郗愔、江州刺史の桓冲、豫州刺史の袁真らとともに前燕討伐を願い出た。慕容恪が死んだ今こそ好機と見たためである。
- 郗愔はもともと京口を管していたが、桓温は京口の兵を精強と見ており、郗愔にその地を持たせたくなかった。そこで郗愔が桓温に協力を申し出る書状を出そうとしたところ、子の郗超がこれを破棄し、父の名で「自分には将帥の才がなく、老病のため閑地で養生したい。管轄も桓温に併せて任せたい」と書き直した。桓温はこれを喜び、郗愔を会稽内史に移し、自ら徐州・兗州を兼領した。
夏四月:出兵と燕の宮廷
- 四月庚戌、桓温は歩騎五万を率いて姑孰を発した。
- その少し前、前燕では燕主慕容暐が可足渾氏を皇后に立てた。これは太后の同族で、尚書令の慕容翼の娘であった。
行軍上の不安と郗超の進言
- 桓温が兗州方面から燕に向かうと、郗超は「道のりが遠く、汴水も浅いため漕運が難しい」と警告したが、桓温は聞き入れなかった。
- 六月、軍が金郷に至ると旱魃で水路が絶えたため、桓温は毛虎生に命じて鉅野で三百里にわたる水路を掘らせ、汶水を清水に導いた。毛虎生は毛宝の子である。
- 桓温は舟師を清水から黄河に入れ、長大な船団を連ねた。だが郗超は、ここは逆流で輸送に不利であり、敵が持久戦に持ち込めば輸送路が絶たれて危険だと再度諫めた。
- 郗超は策を二つ示した。ひとつは全軍をもって軽装迅速に鄴へ直進し、燕が恐れて崩れるところを一気に制すること。もうひとつは河・済のあたりで兵を止め、補給を整えて来夏に進むことである。中途半端に北上すれば、進んでも決戦できず、退いても食糧に窮し、秋冬には寒気と輸送難が重なると述べた。
- 桓温はこの助言も採用しなかった。
夏から秋:晋軍の進撃と燕軍の敗北
- 桓温は建威将軍の檀玄に湖陸を攻めさせ、これを陥して燕の寧東将軍慕容忠を捕えた。
- 燕主慕容暐は下邳王慕容厲に二万を授けて迎撃させたが、黄墟で大敗し、慕容厲は単騎で逃げ帰った。高平太守の徐翻は郡を挙げて晋に降った。
- 晋の前鋒の鄧遐・朱序も、林渚で燕将の傅顔を破った。
- 慕容暐はさらに楽安王慕容臧に諸軍を統率させて拒ませたが、対抗できず、前秦に救援を求めた。
七月:枋頭に進む桓温、動揺する燕
- 七月、桓温は武陽に駐屯した。燕の旧兗州刺史孫元が一族を率いて呼応し、桓温が枋頭に至ると、慕容暐と太傅慕容評は和龍への逃亡まで議した。
- このとき呉王慕容垂が「自分が撃てばよい。敗れてから逃げても遅くない」と進言したため、慕容垂が南討大都督に任じられ、范陽王慕容徳らを率いて晋軍に当たることとなった。
- 慕容垂は申胤・封孚・悉羅騰ら有能な者を従軍させた。申胤は申鍾の子、封孚は封放の子である。
前秦の救燕決定
- 燕はまた楽嵩を前秦へ送り、虎牢以西の地を割いてでも救援を請うた。
- 前秦王苻堅は群臣に諮った。多くは「かつて桓温が前秦を攻めた時、燕は助けなかった。今さらなぜ救うのか」と反対した。
- しかし王猛は、「燕は強国でも慕容評は桓温の敵ではない。もし桓温が山東を取り、洛陽に進み、幽冀の兵と并豫の糧を集めて崤澠に兵威を示せば、前秦の大事は去る。今は燕と連携して桓温を退け、その後に弱った燕を取るべきだ」と説いた。苻堅はこれに従い、茍池・鄧羌に二万を授けて救援に向かわせ、姜撫を燕への返使とした。
- さらに王猛を尚書令・太子太傅に任じた。
申胤の見立て
- 封孚が申胤に戦局を問うと、申胤は「桓温は今こそ勢い盛んに見えるが、成功しない」と言った。
- その理由として、晋朝の群臣が必ずしも桓温と心を一つにしておらず、その成功を望まないこと、桓温自身が驕り、変に応ずる胆力に乏しく、大軍を率いて深入りしながら決断できず、補給が切れれば戦わずして敗れるだろうと分析した。
段思の捕縛と晋軍の士気低下
- 桓温は燕からの降人段思を道案内に用いたが、悉羅騰がこれを生け捕りにした。
- 桓温は旧後趙の将李述を趙・魏に派遣して人心を動かそうとしたが、悉羅騰と染干津がこれを討ち取ったため、晋軍は士気を失った。
袁真の失敗と糧道遮断
- 桓温はあらかじめ袁真に命じて譙・梁を攻め、石門を開いて水運を通そうとしていた。袁真は譙・梁は攻略したが、石門を開けず、水運路は塞がった。
- 九月、燕の范陽王慕容徳、劉当、李邽らが兵を率いて石門に進み、桓温の糧道を断った。劉当は劉佩の子である。
- 慕容徳配下の慕容宙は、晋軍が退く敵を追うのは得意だが、突入戦には弱いと見て、少数で挑発し、伏兵で迎え撃つ策を用いた。晋兵は多数死んだ。
九月:桓温の退却
- 桓温は戦いごとに利がなく、食糧も尽き、さらに前秦軍が近づくと聞いて退却を決断した。
- 丙申、船を焼き、輜重や武器を捨てて陸路から逃れた。毛虎生には東燕など四郡の軍事を督させ、東燕太守を兼ねさせた。
- 桓温は東燕から倉垣に出て、追兵による水源汚染を恐れ、井戸を掘って飲料を確保しながら進んだ。
襄邑での大敗
- 燕の諸将はすぐ追撃しようとしたが、慕容垂は「桓温は退却直後で警戒が厳しい。緩く尾行し、相手が疲労しきった時に叩くべきだ」と主張した。
- 慕容垂は八千騎で徐々に追い、桓温軍が昼夜兼行で疲弊したところを見計らって襄邑で攻撃した。范陽王慕容徳も東の谷間に四千騎を伏せて挟撃し、晋軍は大破、三万余が斬られた。
- さらに前秦の茍池が譙で桓温を邀撃し、また大破した。死者はさらに万を数えた。
- 孫元は武陽に拠って燕に抵抗したが、燕の孟高に討たれて捕えられた。
冬十月:桓温、敗戦の責任を袁真に転嫁
- 十月己巳、桓温は散兵を収めて山陽に駐屯した。
- 桓温は敗戦を深く恥じ、石門を開けず補給を断たせたことを理由に袁真を庶人に落とし、鄧遐も免官した。
- 袁真は桓温が罪をなすりつけたとして服さず、桓温の罪を上表したが、朝廷は取り合わなかった。そこで袁真は寿春に拠って反乱し、燕に降って救援を求め、あわせて前秦にも使者を送った。
- 桓温は毛虎生を淮南太守として歴陽に守らせた。寿春が反いたため、名目上は淮南太守でも実際には歴陽を拠点とし、内は江南を守り外は寿春に備えたのである。
燕・秦の通交と梁琛の応対
- 燕と前秦は講和してから使節の往来が頻繁となり、燕の郝晷・梁琛が相次いで長安に赴いた。
- 郝晷は王猛と旧知で、燕の政治が乱れ前秦がよく治まっているのを見て、ひそかに王猛に傾き、東方事情も漏らした。
- 梁琛が長安に着いた時、苻堅は万年で狩りをしており、野外で引見しようとした。これに梁琛は、燕では秦の使者を朝服・清掃・正礼を整えて迎えたのだから、自分も礼を尽くして会見されるべきだとして拒んだ。辛勁が「主人のもてなし方に従うべきだ」と言っても、梁琛は、今は天下が分裂しており、天子の「行在」といった語を軽々に用いるべきでなく、偶然の会見である「遇礼」を平時に行うのは筋違いだと論じた。
- 苻堅はついに行宮を設け、百官を陪位させて燕朝と同等の礼で迎えた。
- 私宴で苻堅が燕の名臣を問うと、梁琛は慕容評・慕容垂をはじめ皆その職にかなうと答えた。
- 梁琛の従兄梁奕が前秦の尚書郎で、苻堅は彼の家に梁琛を泊めようとしたが、梁琛は諸葛瑾・諸葛亮の例を引き、私的な対面は避けるべきだとして辞退した。
- 苻堅は太子にも会わせようとしたが、前秦側が梁琛に拝礼を求めると、梁琛は「他国の臣が他国の太子に臣礼を尽くす筋はない」として受けなかった。
- 王猛は梁琛を留めるよう勧めたが、苻堅は許さなかった。
袁真への燕の任命
- 燕主慕容暐は大鴻臚温統を派遣し、袁真を使持節・都督淮南諸軍事・征南大将軍・揚州刺史、宣城公に封じた。しかし温統は淮水を越えないうちに死んだ。
慕容垂への猜疑
- 慕容垂は襄邑から鄴へ帰ると威名がいよいよ高まったが、太傅慕容評はさらにこれを妬んだ。
- 慕容垂が、自ら募って命がけで功を立てた将士に恩賞を与えるべきだと何度も言っても、慕容評は抑えて実行しなかった。両者の間の怨恨は深まった。
- 太后可足渾氏はもとより慕容垂を憎んでおり、その戦功を貶し、慕容評と密かに誅殺を図った。これを慕容恪の子の慕容楷と、慕容垂の母方の親族蘭建が知らせ、「先に慕容評と楽安王慕容臧を除けばよい」と勧めたが、慕容垂は骨肉相残すことを拒んだ。
- その後も危機は深まる一方で、世子の慕容令は、ひとまず龍城に退いて罪を謝し、周公のように時を待つのが上策で、そうでなくても燕代の地を抑え、肥如の険を守って自保すべきだと献策した。
十一月:慕容垂の出奔
- 十一月辛亥朔、慕容垂は大陸での狩りを願い出て、ひそかに鄴を脱し龍城へ向かった。
- ところが邯鄲に至ると、少子の慕容麟が日頃から父に愛されず、逃げ帰って告発したため、慕容評は西平公慕容强に精騎を率いて追わせた。世子慕容令が殿軍を務め、追手を近づけなかった。
- ここで慕容令は「もはや東都を保って自立する望みは薄い。苻堅は英傑を招いているから、前秦へ奔るべきだ」と言い、慕容垂もこれを容れた。
- 一行はいったん南山沿いに潜行して鄴方面に戻り、顕原陵に隠れた。狩人の一団に四囲されたが、ちょうど鷹が飛び立って騎兵が散ったため難を逃れた。そこで白馬を殺して天に誓い、従者と盟を結んだ。
- 慕容令は、いま鄴城の人心は慕容垂を母を慕う嬰児のように待っており、無備を襲えば城を取るのは容易だと勧めたが、慕容垂は失敗時の危険を考えてこれを却けた。
- 子の馬奴が密かに逃げ帰ろうとしたため殺し、黄河では渡守に阻まれたのでこれも斬って渡河し、洛陽から段夫人・慕容令・慕容宝・慕容農・慕容隆・慕容楷・蘭建・高弼らとともに前秦へ奔った。妃の可足渾氏は鄴に残した。
- 乙泉戍主の呉帰が閺郷で追いついたが、慕容令が撃退した。
苻堅の歓迎と王猛の警戒
- 苻堅は以前から慕容恪の死後に燕を図ろうとしていたが、慕容垂の威名を恐れて表立っては動けなかった。慕容垂の来奔を聞くと大いに喜び、自ら郊外に迎えて手を取り、「ともに天下を定め、功成ののちには卿を本邦に帰して幽州を世々保たせたい」とまで語った。
- 慕容垂は、流亡の身として罪を免れるだけでも幸いで、本国を望むことはしないと謝した。
- 苻堅は慕容令や慕容楷の才も愛し、厚礼と莫大な賜与を加えた。関中の士民も父子の名声を聞いて慕っていた。
- これに対し王猛は、「慕容垂父子は龍虎のようなもので、風雲を得れば制御できなくなる。早く除くべきだ」と諫めたが、苻堅は「英雄を招き四海を清めようとする時に、来帰した者を殺せない」と退けた。
- 苻堅は慕容垂を冠軍将軍・賓徒侯とし、慕容楷を積弩将軍に任じた。賓徒は漢代以来の県名である。
- 燕では、慕容垂と親しかった范陽王慕容徳や高泰が連座して免官となった。右丞申紹が、高泰は旧属中の領袖だから登用して世評を鎮めるべきだと進言し、高泰は尚書郎となった。
梁琛の警告
- 前秦に留められていた梁琛は一か月余りで帰国を許され、急ぎ鄴に戻った頃には、慕容垂はすでに前秦へ奔っていた。
- 梁琛は慕容評に対し、前秦は陜東に糧を集め軍備を整えており、慕容垂の来奔もあわせて考えれば、いずれ燕を窺うに違いないから備えを急ぐべきだと説いた。だが慕容評は、前秦が叛臣を受け入れて和好を破るはずがないとして笑い飛ばした。
- 梁琛は慕容暐にも、さらに皇甫真にもこの危険を伝えた。皇甫真は深く憂い、苻堅は問安の使者を送ってはいるが実際は上国を窺っており、洛陽・太原・壺関などを守る備えが必要だと上疏した。だが慕容評は、前秦は小国であり、苻堅は善道に近い人物だから心配ないとし、備えを取らなかった。
石越来聘と燕政の乱れ
- 前秦から黄門郎石越が来ると、慕容評は燕の富を誇示しようとして奢侈を見せつけた。
- 高泰と太傅参軍の劉靖は、石越は友好のためでなく隙をうかがうために来たのだ、見せるべきは兵威であって奢侈ではないと諫めたが、慕容評は従わなかった。高泰は病を口実に退いた。
- この頃、太后可足渾氏は国政をかき乱し、慕容評は貪欲で、賄賂が上流し、官職は才能でなく縁故と財貨で決まるようになっていた。
- 尚書左丞申紹は、守宰の人選の乱れ、官の濫設、賦役の不公、後宮の奢侈、民力の疲弊などを詳細に挙げ、官の整理、守宰の厳選、軍民への慰撫、節用、功罪の明断を求めた。また、代への遠戍は損多く益少ないとして、并州方面へ兵を移して西河南・壺関・晋陽を抑えるべきだとも論じた。だが、この上疏も省みられなかった。
晉朝の動き
- 辛丑、丞相司馬昱は大司馬桓温と涂中で会し、今後の軍事を議した。そして桓温の子の桓熙を豫州刺史・仮節とした。
冬十二月:前秦、洛陽を攻める
- 燕は前秦に対し、桓温を救援してもらう見返りに約した虎牢以西の割譲を悔い、「使者が言い過ぎただけだ。災いを分かち救援するのは当然の道理だ」と言い逃れした。
- 苻堅は激怒し、王猛・梁成・鄧羌に歩騎三万を授けて燕を攻めさせ、十二月には洛陽攻略に進んだ。
桓温による広陵築城と孫盛の『晉春秋』
- 桓温は徐州・兗州の民を動員して広陵城を築き、そこへ鎮を移した。戦役が相次いだうえに疫病も重なり、死者は十人中四、五人にも及び、民は怨嗟した。
- 秘書監の孫盛は『晉春秋』に当時の事実を率直に記し、枋頭での失敗も隠さなかった。桓温はこれを見て怒り、孫盛の子に「枋頭の敗戦は事実としても、なぜ父はここまで書くのか。この史書が世に出れば、お前の一門は終わりだ」と脅した。
- 息子たちは泣いて父に改稿を求めたが、孫盛は厳として応じなかった。そこで子らはひそかに本文を改めた。しかし孫盛は前もって別本を作って外地に伝えており、のちに孝武帝の時代に遼東からその異本が得られ、改竄本とともに保存された。