春正月:洛陽陥落
- 正月己亥、袁真は梁国内史朱憲および弟の汝南内史朱斌がひそかに桓温と通じたとして殺した。
- 前秦の王猛は、燕の洛陽守将である荆州刺史武威王慕容筑に書を送り、成皋・盟津をすでに押さえ、大軍が軹関から鄴へ向かっている以上、金墉の孤城にいても三百ほどの疲弊兵では支えられないと説いた。
- 慕容筑は恐れて洛陽を挙げて降り、王猛は整然と入城した。
- 他方、燕の楽安王慕容臧は新楽に城を築き、石門で前秦軍を破って秦将楊猛を捕えた。
慕容令、疑心から燕へ奔る
- 王猛は長安出発前、慕容令を自軍の参軍とし、道案内役とした。出発に際し慕容令が慕容垂を訪れると、王猛は何か形見を求め、慕容垂は佩刀を贈った。
- 王猛は洛陽到着後、慕容垂の近習金熙を買収し、偽の使者に仕立てて慕容令へ「父はすでに燕へ帰った。王猛は人を憎むこと仇のようで、讒言も日ごとに深まる。お前も急いで出発せよ」と告げさせた。
- 慕容令は迷った末、旧来の騎兵を率いて狩りを装い、石門の楽安王慕容臧のもとへ奔った。
- 王猛がその叛状を上表すると、慕容垂も恐れて出走したが、藍田で追手に捕えられた。苻堅は東堂に引見し、「家国の不和で身を寄せた以上、子が故国を思うのもやむをえない。父子兄弟で罪は連座しない」と慰め、従前どおりに遇した。
- 燕では、慕容令がいったん秦に降ってまた父のもとへ戻ったことから、前秦のための反間ではないかと疑い、沙城へ移した。
司馬光の評
- 司馬光はここで論じる。周は微子を得て殷の命を革め、秦は由余を得て西戎に覇を唱え、呉は伍員を得て楚を破り、漢は陳平を得て項籍を誅し、魏は許攸を得て袁紹を破った。敵国の有能な臣を自らに用いることは進取の好材料である。
- それなのに王猛は、燕がまだ滅んでいないのに、無罪で疑われて帰順した慕容垂を猜疑し、殺そうと急いだ。これは燕の無道を助け、来帰する人材の道を塞ぐもので、雅量ある君子のすることではないと批判した。
王猛の帰還と加封辞退
- 楽安王慕容臧は滎陽に進んだが、王猛は梁成・鄧羌に撃たせて追い払い、鄧羌を金墉に残し、桓寅に陜城を守らせて帰還した。
- 苻堅は王猛を司徒・録尚書事、平陽郡侯に封じようとしたが、王猛は「燕も呉もまだ平らげていない。たった一城を得て三公の賞を受ければ、二寇を滅ぼした後に何を加えるのか」と固辞した。苻堅はひとまず現職のまま、封爵だけを受けさせた。
二月から四月:袁瑾の継立と寿春戦
- 二月癸酉、袁真が死ぬと、陳郡太守朱輔がその子の袁瑾を擁立し、建威将軍・豫州刺史として寿春を保たせた。子の朱乾之と司馬爨亮を鄴に送って燕の承認を求めると、燕は袁瑾を揚州刺史、朱輔を荆州刺史とした。
- 三月、苻堅は吏部尚書権翼を尚書右僕射に任じた。
- 四月、苻堅は再び王猛を司徒・録尚書事にしようとしたが、なお辞退したため、ついに見送った。
- 燕と前秦はともに袁瑾を助けるため兵を送った。桓温は督護竺瑤らを出して防ぎ、燕軍が先着すると武丘でこれを破った。南頓太守桓石虔は寿春の南城を奪った。桓石虔は桓温の甥である。
王猛の再出兵と慕容令の最期
- 苻堅はさらに王猛に楊安ら十将、歩騎六万を授けて燕討伐に向かわせた。
- 沙城に置かれていた慕容令は、どうせ赦されないと悟り、城中の流刑・戍卒数千を手厚く遇して味方にし、五月庚午、牙門孟媯を殺した。大涉圭が自ら尽くしたいと申し出たので近くに置いた。
- 慕容令は東の威徳城を襲い、城郎慕容倉を殺してこれを奪い、東西の諸戍に呼びかけると、多くが呼応した。つづいて龍城を襲おうとしたが、弟の慕容麟がこれを勃海王慕容亮に密告したため、城門は閉ざされた。
- 癸酉、大涉圭が侍直の機を利用して慕容令を襲うと、慕容令は単騎で逃げたが、薛黎沢まで追われて捕まり殺された。慕容亮はその後、大涉圭を誅して慕容令の遺体を収葬した。
六月:苻堅、東方平定の大方針を示す
- 六月乙卯、苻堅は灞上で王猛を見送り、「まず壺関を破り上党を平定し、その勢いで鄴を取れ。自分も大軍を率いて星の見えるうちから急行し、水陸の輸送をともに進める。後顧の憂いは持つな」と命じた。
- 王猛は、陛下の威霊と成算を仰ぎ、残る鮮卑勢力を風が木の葉を掃くように平らげると応じ、ただし先々の宿営配置だけは速やかに整えてほしいと求めた。苻堅は大いに喜んだ。
七月から八月:壺関・晋陽の陥落
- 七月癸酉朔、日食があった。
- 王猛は壺関を攻め、楊安は晋陽を攻めた。
- 八月、燕主慕容暐は太傅慕容評に内外の精兵三十万を授けて前秦に当たらせた。
- 慕容暐が前秦軍の強弱を李鳳・梁琛・楽嵩に問うと、李鳳は「王師の敵ではなく、王猛も慕容評に及ばない」と楽観したが、梁琛と楽嵩は「勝敗は兵数ではなく謀略にある。遠来の秦兵が戦わぬはずがない」と答えた。慕容暐は不機嫌になった。
- 王猛は壺関を抜き、上党太守の南安王慕容越を捕えた。通過する郡県も次々と降った。
- 封孚が申胤に今後を問うと、申胤は「鄴は必ず亡びる」と嘆きつつも、歳運は燕の分にあり、前秦は当面勝っても、燕は一紀ほどで復興すると予言した。
寿春包囲と地方反乱
- 桓温は広陵から二万を率いて袁瑾討伐に向かい、襄城太守劉波を淮南内史として石頭に五千を置いて鎮守させた。劉波は劉隗の孫である。
- 癸丑、桓温は寿春で袁瑾を破り、そのまま包囲した。燕の孟高が騎兵で救援に向かったが、淮北に至ったところで前秦の大挙侵攻を聞き、燕本国から召還された。
- そのころ蜀方面では、広漢の妖賊李弘が漢の帰義侯李勢の子を称して「聖王」と名乗り、年号を鳳凰とした。隴西の李高も成漢の李雄の子を称して涪城を破り、梁州刺史楊亮を逐った。益州刺史周楚は子の周瓊、さらにその子の梓潼太守周虓を派遣し、両者を平定した。
九月:晋陽陥落
- 楊安は晋陽を攻め続けたが、守りは固く糧も多く、なかなか落ちなかった。
- 王猛は屯騎校尉の茍萇を壺関に残し、自らは援軍として晋陽に向かった。地道を掘り、虎牙将軍張蚝に壮士数百を率いさせてひそかに城中へ入れ、大呼して関門を開かせ、秦兵を引き入れた。
- 辛巳、王猛・楊安は晋陽を陥し、燕の并州刺史東海王慕容荘を捕えた。
- 太傅慕容評は王猛を恐れ、進まず潞川に駐屯した。
十月:潞川対陣と鄧羌の働き
- 十月辛亥、王猛は武都の毛当に晋陽を守らせ、自ら潞川へ進んで慕容評と対峙した。
- 壬戌、王猛は将軍徐成に燕軍の形勢と要害を偵察させ、日中までに戻るよう命じたが、徐成は日暮れになって帰った。王猛は軍法を立てるため斬ろうとした。
- 鄧羌は「明朝にも戦うのに大将を斬るべきではない。自分と徐成が奮戦して罪を償う」と請うたが、王猛は許さなかった。鄧羌は怒って自営へ戻り、太鼓を鳴らして兵を整え、王猛を攻めようとした。
- 王猛が理由を問うと、鄧羌は「遠征して敵を討つはずが、まず近くの味方を殺すとは何事か」と答えた。王猛は使者を遣わして徐成を赦すと告げた。鄧羌が謝りに来ると、王猛は「将軍を試しただけだ。郡の旧将にさえこれほど義を尽くすなら、国家への忠はなおさら心配ない」と手を取って喜んだ。
慕容評の貪欲
- 慕容評は、王猛が遠征軍で深入りしているのだから、持久戦に持ち込めば崩れると考えた。
- ところが彼は貪鄙で、山林と泉水を封鎖し、兵士に薪や水を売って利をむさぼり、蓄えた財貨は丘陵のように積み上がった。兵士たちは憤り、戦意を失った。
- 王猛はこれを聞いて、「慕容評は真の奴才だ。たとえ兵が億兆でも恐れるに足りない」と笑った。
甲子の決戦と燕軍の大敗
- 王猛は郭慶に五千騎を与え、夜中に間道から燕営の後ろへ回して輜重を焼かせた。炎は鄴からも見え、燕主慕容暐は驚き、侍中蘭伊を派遣して慕容評を譴責した。
- 慕容暐は、宗廟社稷を憂うべき立場の者が、なぜ戦士を慰撫せず樵水の販売で利益を追うのかと責め、府庫の蓄えは共有するものだから財の不足など心配するな、もし国家が滅べば持っている財貨も置き場がないではないかと言って、ついに慕容評の財物を軍士に分け与えさせ、戦わせた。
- 慕容評はおびえ、王猛に決戦を申し込んだ。
- 甲子、王猛は陣を渭源に布いて将士へ誓い、「厚恩に報い、死力を尽くして大功を立て、明君の朝で爵を受け、父母の室で祝杯を挙げよう」と鼓舞した。将士は釜を破り糧を捨てて進んだ。
- 王猛は鄧羌に「今日の成敗は将軍にかかっている」と激励し、鄧羌が司隷校尉の位を求めると、王猛はそれは自分の権限外だが、安定太守と万戸侯は必ず与えると約した。鄧羌は当初不満で寝たふりをしたが、王猛が自ら行って約束すると、酒を大いに飲み、張蚝・徐成らとともに突撃した。
- 鄧羌は矛をふるって燕陣を出入りすること数度、旁若無人の戦いぶりで数百を殺傷し、ついに燕兵は日中に総崩れとなった。斬首五万余、さらに追撃で殺傷・降伏は十万余に及んだ。慕容評は単騎で鄴へ逃げ帰った。
- 崔鴻は、鄧羌には私情で軍法を乱し、主将を脅し、戦前に高位を要求する三つの大罪があったが、王猛はその短所を容れて長所を用い、大功を成したと評している。
鄴への進軍
- 王猛は東へ長駆し、丁卯、鄴を包囲した。
- 上表では、甲子の日に大勝しつつも、六州の士庶が主君交代をほとんど意識しないほど民を傷つけずに済んだのは、陛下の仁愛のおかげだと述べた。苻堅も、短期間で元凶を制したのは古今に高い勲だと応じ、自ら十万の精鋭を率いて星言電赴すると伝えた。
- 王猛の入る前は鄴の周辺で略奪が横行していたが、到着後は遠近が安堵し、法令は厳格で軍の私犯もなかった。燕の民は「今日また太原王に会えたとは思わなかった」と語り合った。王猛はこれを聞き、慕容恪の遺愛がいかに深かったかを嘆じ、太牢を供えて祭った。
十一月:苻堅の親征と鄴陥落
- 十一月、苻堅は李威を残して太子を補佐させ、陽平公苻融を洛陽に置き、自ら精鋭十万を率いて鄴へ向かった。七日で安陽に着くと、祖父の時代にその地で過ごした古老を宴した。
- 王猛はひそかに安陽へ来て謁見した。苻堅が「周亜夫は漢文帝を迎えなかったが、将軍もまた敵前で軍を離れるのか」と言うと、王猛は「周亜夫は名声欲しさに君主をしりぞけたので、自分はむしろそれを軽んじる。燕は釜中の魚にすぎず、監国の太子はまだ幼い。陛下こそ灞上での約束を忘れたのか」と答えた。
- この頃、燕の宜都王慕容桓は一万余で沙亭にあり、慕容評の後詰めのはずだったが、評の敗報を聞いて内黄へ退いた。苻堅は鄧羌に信都攻撃を命じた。
- 丁丑、慕容桓は鮮卑五千を率いて龍城へ奔った。
- 戊寅の夜、燕の散騎侍郎余蔚が扶余・高句麗・上党の質子ら五百余を率いて鄴の北門を開き、前秦軍を引き入れた。
- 辛巳、苻堅は鄴宮に入った。燕主慕容暐は慕容評・慕容臧・慕容淵・孟高・艾朗らとともに龍城へ逃れた。
慕容垂の度量
- 慕容垂は、逃散してきた燕の公卿や旧僚たちに不満そうな顔を見せた。これに高弼が、「今は祖宗の資産を失い、外邦に身を寄せている。だからこそ旧臣を大きな度量で包み、心を慰めて将来の再興の土台とすべきだ」と諫めた。慕容垂はこれに従った。
孟高・艾朗の忠節
- 慕容暐が鄴を出た時、衛士は千騎余あったが、城外に出るとほとんど散り、十余騎しか従わなかった。苻堅は郭慶に追わせた。
- 道中は困難続きで、孟高は慕容暐を助け、二王を護り、極めてよく尽くした。数日後、福禄依塚で休んでいるところを二十余人の盗賊に襲われると、孟高は刀を取って戦い、数人を斬傷した。力尽きて死を覚悟すると、一人を抱えて地に打ち倒し、「男児もここまでだ」と叫んだところを、周囲から射られて戦死した。艾朗も引き返してともに死んだ。
- 慕容暐は馬を失って歩いて逃れたが、高陽で郭慶に追いつかれ、部将の巨武に縛られそうになると「小人め、天子を縛るのか」と怒った。巨武は「賊を追えとの命だ」として、苻堅のもとへ連行した。
- 苻堅がなぜ降らずに逃げたのかを問いただすと、慕容暐は「狐は死ぬ時に首を故郷の丘へ向ける。先祖の墓のそばで死にたかっただけだ」と答えた。苻堅は哀れみ、彼を釈放して宮中に帰し、文武百官を率いて降らせた。
- 慕容暐は孟高・艾朗の忠を称えたので、苻堅は厚く葬らせ、その子を郎中に任じた。
龍城・遼東方面の整理
- 郭慶はさらに龍城へ進んだ。慕容評は高句麗へ逃げたが、高句麗は彼を捕えて前秦へ送った。
- 宜都王慕容桓は勃海王慕容亮を殺し、その兵を併せて遼東へ奔った。しかし遼東太守韓稠はすでに前秦に降っており、城に入れず、攻めても落とせなかった。
- 郭慶は朱嶷に討たせ、慕容桓は衆を棄てて逃げたが捕らえられて殺された。
- 州牧・郡守や諸種族の渠帥もことごとく前秦に降った。得たのは郡百五十七、戸二百四十六万、口九百九十九万に及んだ。苻堅は燕の宮人・珍宝を将士に分け与え、大赦して新たな出発を宣した。
梁琛の釈放と苻堅との対話
- 梁琛がかつて前秦に使いした時、副使の苟純は、梁琛が応対の内容を事前に共有しなかったことを恨み、帰国後に「梁琛は王猛と親しく、怪しい」と慕容暐に讒した。さらに梁琛が苻堅や王猛をしきりに賞賛し、前秦の出兵を予告していたことから、慕容評敗北後に投獄されていた。
- 苻堅が鄴に入り、梁琛を釈放して中書著作郎に任じ、引見して「上庸王や呉王を将相の奇材と称えていたのに、なぜ国を守れなかったのか」と問うた。
- 梁琛は「興亡は天命であり、二人の力では動かせない」と答えた。
- 苻堅がさらに「機を見ることができず、燕をむやみに称えたため自ら禍を招いた。これでも智者か」と問うと、梁琛は「自分にそのような先見はなかった。しかし臣たる者は忠、子たる者は孝が第一であり、たとえ知っていても家国を見捨てる忍びなさがある。まして自分はそこまで及ばなかった」と答えた。
前秦による河北統治の再編
- 苻堅は悦綰の忠義を聞き、その死を惜しんで子を郎中に任じた。
- 王猛には使持節・都督関東六州諸軍事・車騎大将軍・開府儀同三司・冀州牧を与え、鄴に鎮させ、清河郡侯へ進爵させた。慕容評の邸の財物はすべて王猛に賜った。
- 楊安には博平県侯、鄧羌には使持節・征虜将軍・安定太守と真定郡侯、郭慶には持節・都督幽州諸軍事・幽州刺史として薊に鎮させ、襄城侯を授けた。
- 京兆の韋鍾を魏郡太守、彭豹を陽平太守とし、その他の州県の牧守令長はおおむね旧任のまま用いた。これは一挙に全部を秦人へ入れ替えると民情が動揺するからである。
- 申紹を散騎侍郎とし、韋儒とともに繍衣使者として関東の州郡を巡行させ、農桑の勧励、窮民の救恤、遺骸の収葬、節行の顕彰、燕政の弊害の改正にあたらせた。燕人を用いたのは風俗に通じるためであり、秦人を併せたのは苻堅の徳意を宣べるためである。
十二月:燕の旧王族・旧臣の移送
- 十二月、苻堅は慕容暐と燕の后妃・王公・百官、さらに鮮卑四万余戸を長安へ移した。
- 王猛は梁琛を自らの主簿兼記室督として留めた。宴の席で、かつての燕使について「梁琛は本朝を専ら称え、楽嵩は桓温軍の強さばかりを語り、郝晷は国の欠陥をほのめかした」と言うと、参軍馮誕は「では人を取る道は郝晷のように機を見る者を第一とするのか」と切り返した。王猛は大笑いした。
苻堅の凱旋と燕旧臣の処遇
- 苻堅は鄴から枋頭へ赴き、父老を宴して枋頭を永昌と改め、その地の租税を終身免除した。
- 甲寅、長安に帰ると、慕容暐を新興侯に封じた。
- 燕の旧臣では、慕容評を給事中、皇甫真を奉車都尉、李洪を駙馬都尉として朝請に列し、李邽を尚書、封衡を尚書郎、慕容徳を張掖太守、平叡を宣威将軍、悉羅騰を三署郎とした。その他も等差をつけて任用・封爵した。封衡は封裕の子である。
燕再興の予言と慕容鳳
- 燕の旧太史黄泓は「燕は必ず中興する。その担い手は呉王慕容垂だろう。ただ自分は老いて、その日を見ることができないのが残念だ」と言った。
- 汲郡の趙秋も「天道は燕にあり、十五年と経たぬうちに前秦はふたたび燕のものとなる」と語った。
- 慕容桓の子の慕容鳳はまだ十一歳だったが、ひそかに復讐心を抱き、鮮卑や丁零の気骨ある者と交わっていた。権翼はこれを見て、「父のように天命を知らぬ振る舞いをするな」と戒めたが、慕容鳳は「先王は忠を立てようとして果たせなかった。人臣としての節を教えるのが本来ではないか」と烈しく言い返した。権翼は表情を改めて謝り、苻堅に「才器はあるが、狼子野心で人の用にはならぬだろう」と報告した。
その他の動き
- 前秦は雍州を廃し、司隷校尉に併せた。
- この年、仇池公楊世が死に、子の楊纂が立った。これを機に前秦との関係を絶ち、叔父で武都太守の楊統と国を争って兵を挙げ、互いに攻め合った。