資治通鑑晉紀二十三 海西公上 太和 三年 368年

正月 秦の宗室討伐開始

  • 苻堅は楊成世・毛嵩に上邽・安定を、王猛・鄧羌に蒲阪を、楊安・張蚝に陝城を攻めさせた。
  • ただし蒲阪・陝城方面の諸軍には、城から三十里離れて堅く守り、秦州・雍州の乱が平まるまで決戦するなと命じた。

前燕 慕容恪死後の体制

  • かつて慕容恪は、自分の死後は大司馬の任は慕容垂に与えるべきだとし、慕容暐の兄弟では若くて多難に耐えられない、慕容垂ならば天下を一つにできると、楽安王慕容臧や慕容評にも繰り返し説いていた。
  • しかし慕容評はその遺言を用いず、二月、中山王慕容冲を大司馬とし、慕容垂には侍中・車騎大将軍・儀同三司を与えるにとどめた。これが後の慕容垂との不和の伏線となる。

春二月〜三月 燕へ救援要請・秦の敗戦

  • 秦の魏公苻廋は陝城をもって前燕に降り、救援を求めた。秦では華陰に重兵を置いて警戒した。
  • 前燕の魏尹慕容徳は上疏し、今こそ天が秦を燕へ与えた時だとして、皇甫真・慕容垂・慕容評の三方面軍で関中へ進出し、三輔に檄を飛ばせば統一の機会になると説いた。
  • しかし慕容評は、秦は大国であり、今難があっても容易に図ることはできず、自分たちは先帝や慕容恪にも及ばないのだから、関を閉ざして領土を守るだけで十分だと退けた。
  • 苻廋は慕容垂や皇甫真に手紙を送り、苻堅と王猛は人傑であり、今取らなければ後に燕の君臣は必ず悔いるだろうと警告した。
  • 慕容垂も皇甫真に、将来人にとって脅威となるのは必ず秦だ、そして慕容評の器量では苻堅・王猛に対抗できないと語ったが、皇甫真は同意しつつも、自分の言葉は用いられないと嘆いた。
  • 三月、日食があり、大赦が行われた。
  • 秦では楊成世が苻双の将茍興に敗れ、毛嵩も苻武に敗れて帰還したため、苻堅はさらに王鑒・呂光・郭将・翟傉ら三万を派遣した。

夏四月〜五月 秦軍の反撃

  • 苻双・苻武は勝ちに乗じて榆眉まで進み、茍興を前鋒とした。
  • 王鑒は急戦を望んだが、呂光は、茍興は新勝の勢いで鋭いから重く構えるべきで、糧が尽きて退く時こそ討つべきだと主張した。
  • 二十日ほどして茍興が退くと、呂光はこれを追撃して破り、そのまま苻双・苻武を大破した。斬獲は一万五千に及んだ。
  • 苻武は安定を捨て、苻双とともに上邽へ逃れた。王鑒らは進んでこれを攻めた。
  • 一方、晋公苻柳はたびたび出戦して王猛を挑発したが、王猛は応じなかった。苻柳は王猛が恐れていると思った。
  • 五月、苻柳は世子苻良を蒲阪に残し、自ら二万を率いて西から長安へ向かったが、鄧羌が精騎七千で夜襲してこれを破った。苻柳が退こうとすると、王猛が要撃してその軍をほぼ捕虜にし、苻柳は数百騎で城に逃げ込んだ。

秋七月〜九月 秦の鎮圧進展

  • 七月、王鑒らは上邽を陥れ、苻双・苻武を斬った。妻子は助け、苻雅を秦州刺史とした。
  • 八月、長楽公苻丕が雍州刺史となった。
  • 九月、王猛らは蒲阪を陥れて苻柳とその妻子を斬り、王猛は蒲阪に屯した。
  • 鄧羌は王鑒らと合流して陝城攻めに向かった。

前燕 蔭戸整理と悦綰の死

  • 前燕では王公貴戚が民を私的に蔭戸として抱え込み、国家の戸口より私家の戸口の方が多くなるほどだった。倉庫は空となり、官吏の俸禄も戦士の兵糧も不足し、官が貸し付けてしのぐ有様であった。
  • 尚書左僕射悦綰は、晋・秦・燕が鼎立する中、国家の法制が立たず、豪貴が横暴なままでは、対外的にも恥であり、内政としても治ではないとして、蔭戸をいっさい廃して郡県の戸口に戻すよう主張した。
  • 慕容暐はこれを採用し、悦綰に専任させた。悦綰は姦伏を摘発し隠匿を許さず、二十余万戸を官に戻したため、朝廷全体の怨みを買った。
  • もともと病を抱えていた悦綰は、戸籍整理を自ら励んで進めたため病が重くなり、冬十一月に死去した。

十二月 陝城陥落と苻廋の最期

  • 十二月、秦の王猛らは陝城を陥れ、苻廋を捕えて長安へ送った。
  • 苻堅が叛乱の理由を問うと、苻廋は、自分自身には叛意はなかったが、兄弟がたびたび逆谋を企て、自分も連座して死ぬのを恐れたためだと答えた。
  • 苻堅は涙を流して、苻廋は本来穏やかな人であり本心ではないと知っていると述べ、高祖苻健に後継が絶えてはならぬとして、苻廋には死を賜ったが、その七子は助け、長子に魏公を継がせ、他の子らも県公として一族の断絶した者の後を継がせた。
  • 苟太后が、同じく叛いた苻双だけが後継を許されないのはなぜかと問うと、苻堅は、天下は高祖の天下であり、その子に後継がないのは許されないが、苻双は太后を顧みず宗廟を危うくしたので、国家の法は私情では曲げられないと答えた。
  • 范陽公苻抑が并州刺史として蒲阪に、鄧羌が洛州刺史として陝城に置かれ、姚眺は諫言の功で汲郡太守に抜擢された。
  • 晋では桓温に殊礼が加えられ、諸侯王の上位に置かれた。
  • この年、仇池公楊世が秦州刺史、弟楊統が武都太守となり、楊世はまた秦にも臣従したため、秦は楊世を南秦州刺史とした。