資治通鑑晉紀二十三 海西公上 太和 二年 367年

正月〜三月 庾希免官・秦と涼の西方戦

  • 正月、庾希は魯・高平を救えなかった罪で免官となった。
  • 二月、前燕の慕容厲・慕容桓は敕勒を襲った。
  • 秦では王猛・姜衡・邵羌・姚萇らが一万七千で歛岐を討った。
  • 三月、張天錫は楊遹・常據・張統らを分進させ、自ら三万を率いて倉松に屯し、李儼を討った。
  • 歛岐配下の部落はもと姚弋仲に属していたため、姚萇が来ると多くが降り、王猛は略陽を奪い返した。歛岐は白馬へ逃れ、姚萇は隴東太守となった。

夏四月 張天錫と王猛の対陣

  • 前燕の慕容塵が竟陵へ侵攻したが、太守羅崇がこれを破った。
  • 張天錫は李儼を攻めて大夏・武始の二郡を落とし、常據も葵谷で李儼軍を破った。張天錫は左南に進んだ。
  • 李儼は恐れて兄の子李純を秦へ送り、謝罪と救援を求めた。
  • 苻堅は楊安・王撫に二万騎を率いさせ、王猛と合流して救わせた。王猛は邵羌に歛岐追撃を命じ、自ら楊安とともに枹罕へ向かった。
  • 張天錫の将楊遹は枹罕東で迎え撃ったが、王猛に大敗し、一万七千の首級を失った。
  • 王猛は張天錫と城下で対陣した一方、邵羌は白馬で歛岐を捕らえて送った。
  • 王猛は張天錫に書を送り、自分は李儼救援の勅命を受けただけで涼と戦う命ではない、互いに深く守って持久すれば両国とも疲弊するだけなので、張天錫が退兵すれば自分は李儼を連れて東へ帰り、涼軍も西へ引いてよいではないかと説いた。
  • 張天錫は、もともと叛臣討伐が目的で秦と戦う意図はないとして、その提案を受け入れて退いた。

李儼の捕縛

  • 李儼はなお秦軍を城内に入れまいとしたが、王猛は白衣で車に乗り、従者数十人だけを連れて会見を求めた。
  • 李儼が門を開いて迎えると、秦軍の将士が続いて入り、ついに李儼を捕えた。
  • 苻堅は彭越を平西将軍・涼州刺史として枹罕に置いた。
  • 李儼の将賀肫は、王猛は孤軍遠来で疲れているのだから隙を突いて討つべきだと勧めたが、李儼は、救援を求めて難を免れた後に恩人を撃てば天下の非難を受けるとして退けた。
  • 王猛は、なぜすぐ出迎えなかったかと問うて李儼から賀肫の計画を聞き、賀肫を斬った。
  • 李儼は長安へ送られ、光禄勲・帰安侯となった。

五月 慕容恪の遺言

  • 前燕の太原桓王慕容恪は、慕容垂は将帥・宰相として自分の十倍の才があると慕容暐に語り、自分の死後は国政を一切この人に委ねるよう勧めた。
  • 五月壬辰、慕容恪は病篤く、慕容暐が後事を問うと、「恩返しで最上なのは賢者を薦めることだ。呉王は文武を兼ね備え、管仲・蕭何に次ぐ人材である。これに大政を任せれば国家は安んじ、そうでなければ秦・晋が必ず隙をうかがう」と言い残して死んだ。

秦の対燕偵察

  • 苻堅は慕容恪の死を聞き、ひそかに前燕攻略の可否を探ろうとした。
  • 匈奴の曹轂に燕への朝貢使を出させ、秦側の副使として郭辯を付けた。
  • 皇甫真の兄皇甫腆や甥の皇甫奮・皇甫覆は秦に仕えており、郭辯は燕で公卿を訪ね歩いた後、皇甫真に対し、兄らと旧知の間柄だなどと話を持ちかけた。
  • 皇甫真は、外国の者と私交はないと怒り、奸人が誰かを頼って虚偽を語っているのではないかとして、慕容暐に厳しく取り調べるよう求めたが、慕容評は許さなかった。
  • 郭辯は秦へ帰ると、前燕の朝政には綱紀がなく、攻め取ることは可能だが、機を見る目を持つ者は皇甫真だけだと報告した。
  • 苻堅は、六州も領していれば智者が一人くらいいるものだと評した。
  • 曹轂はほどなく死に、秦はその部落を東西二つに分けて二子に統率させた。

荊州の戦果と秋以降の北方情勢

  • 桓豁・羅崇は宛を攻め取って趙億を走らせ、趙盤も魯陽へ退いた。桓豁は雉城でこれを追撃して生け捕りにし、守兵を置いて帰還した。
  • 七月、前燕の慕容厲らは敕勒を破って牛馬多数を得た。
  • その際、前燕軍が代の地を通って穄田を荒らしたため、什翼犍は激怒した。
  • 前燕の武強公慕容埿が幽州兵で雲中を守っていたが、八月、什翼犍が雲中を攻めると、慕容埿は城を捨てて逃げ、慕輿賀辛は戦死した。
  • 九月、郗愔が徐・兗二州刺史となり、京口に鎮した。青・幽・揚州晋陵などの軍事も都督した。

冬十月〜十二月 苻柳らの叛乱と代・秦の往復

  • 苻幼の反乱に際し、晋公苻柳・趙公苻双は通謀していたが、苻堅は近親として不問にした。
  • しかし苻柳・苻双はさらに魏公苻廋、燕公苻武と結んで叛乱を図った。
  • 姚眺は苻廋に対し、宗室重臣として国家の難を救うべき立場なのに、自ら難を作るのかと諫めたが、聞き入れられなかった。
  • 苻堅が彼らを長安へ召すと、十月、苻柳は蒲阪、苻双は上邽、苻廋は陝城、苻武は安定で、それぞれ兵を挙げた。
  • 苻堅は使者を出して、これまで十分に恩を与えてきたのだから兵を解けば地位は旧に復すと伝え、梨をかじって信義のしるしとさせたが、彼らは従わなかった。
  • 一方、代王什翼犍は劉衛辰を討とうとして河がまだ結氷していないとみると、葦の綱で流氷をつなぎ、さらに葦を散らして氷草を結び、浮橋のようにして渡河した。
  • 劉衛辰は不意を突かれ、宗族とともに西へ逃れ、什翼犍はその部落の六、七割を収めて帰還した。
  • 劉衛辰は秦へ逃げ、苻堅はこれを朔方へ送り返し、守兵を置いた。
  • 十二月、前燕の太尉陽騖が死に、皇甫真が太尉、李洪が司空となった。