資治通鑑晉紀二十三 孝宗穆皇帝 升平 四年 360年

正月 前燕の皇帝交代と補政体制

  • 前燕の主・慕容儁は、鄴で大規模な閲兵を行い、慕容恪・陽騖らに軍を率いさせて晋へ侵攻させようとしたが、重病となったため、慕容恪・陽騖・慕容評・慕輿根らを呼んで遺命を託し、幼主を補佐させた。
  • まもなく慕容儁が死去し、太子の慕容暐が即位した。大赦を行い、建熙と改元した。
  • 秦では、苻堅が司隷を分けて雍州を置き、河南公苻双を雍州方面の都督・征西大将軍・雍州刺史として安定に鎮させ、趙公に改封した。弟の苻忠は河南公に封じられた。
  • 仇池公の楊俊が死に、子の楊世が立った。

二月 慕輿根の反乱計画と誅殺

  • 前燕では可足渾氏が皇太后となり、慕容恪が太宰として朝政を総覧し、慕容評・陽騖・慕輿根も補佐に加わった。
  • しかし慕輿根は功臣であることを頼みに慕容恪へ不満を抱き、皇帝が幼く太后が政務に関与していることを口実に、慕容暐を廃して慕容恪が即位すべきだと勧めた。
  • 慕容恪はこれを厳しく退けたが、すぐには討たず、国家が新たに大喪に遭い、晋・秦の二国が様子をうかがっている時に、補政の大臣同士で殺し合うのは得策でないと判断した。
  • 皇甫真や呉王慕容垂は早く処断すべきだと進言した。
  • その後、慕輿根は皇太后と慕容暐に対し、逆に慕容恪と慕容評が謀反を企てていると訴え、自分に禁兵を率いさせて討たせようとしたが、慕容暐は疑って許さなかった。
  • 慕輿根はさらに「天下が騒然としている今、鄴を捨てて東方の故地へ戻るべきだ」と唱えたため、慕容恪は慕容評と密議し、右衛将軍傅顔に命じて宮中で慕輿根を誅殺し、その妻子・党与も処刑したうえで大赦した。

慕容恪の補政

  • 大喪の直後に大臣一派が誅滅されたため、前燕の内外は強く動揺したが、慕容恪は平然として振る舞い、外出の護衛も最小限にとどめ、人心をいたずらに刺激しなかった。
  • 人々が不安に駆られている時こそ、重厚に構えて鎮めるべきだと考えたためで、これにより人心は次第に落ち着いた。
  • 慕容恪は大権を握りながらも礼を守り、慕容評と必ず相談し、独断を避け、人物を見て任用した。家臣や朝臣に過失があっても、その罪状を公然とは責めず、体面を保てる形で別官へ移したので、当時の人々はそれを大きな恥と受け止め、法を犯す者が少なくなった。
  • 晋の朝廷では慕容儁の死を聞いて中原回復の好機と見る者が多かったが、桓温は「慕容恪がいる以上、むしろ今後の方が憂うべきだ」と見ていた。

三月 慕容儁の葬礼と前燕の動揺収拾

  • 三月、慕容儁は龍陵に葬られ、景昭皇帝と諡され、烈祖と廟号された。
  • 各地から徴発されていた前燕の兵は、朝廷の混乱を聞いて動揺し、しばしば勝手に帰郷したため、鄴以南では交通が遮断されるほどであった。
  • 慕容恪は呉王慕容垂を河南方面の都督・征南将軍・兗州牧・荊州刺史として蠡台に置き、孫希を并州刺史、傅顔を護軍将軍として二万騎を率いさせ、河南を示威巡行させた。これにより国内は安定した。

夏四月 劉衛辰と秦

  • 匈奴の劉衛辰が秦に使者を送り、秦の内地で春夏に牧地を借り、秋に戻ることを願い出た。苻堅はこれを許した。
  • ところが雲中護軍の賈雍が司馬徐贇に騎兵を率いさせてこれを襲わせ、戦利品を得て帰還した。
  • 苻堅は、異民族を恩信で懐柔しようとしているのに、目先の利でその方針を壊したと怒り、賈雍を更迭し、奪った人馬を返還させて慰撫した。
  • これにより劉衛辰は塞内に移り住み、以後秦へしばしば貢物を送った。

夏六月・秋七月 代の婚姻

  • 代王什翼犍の妃である慕容氏が死去した。
  • 七月、劉衛辰は代へ赴いて葬礼に参列し、その機に婚姻を求め、什翼犍は娘を劉衛辰に嫁がせた。

八月 謝安の起用

  • 日食があった。
  • 謝安は若い頃から名望が高く、たびたびの招聘にも応じず、会稽に住んで山水や書物を楽しんでいた。官に就いていなくても、世間は彼を宰相級の人物と見ていた。
  • 東山に遊ぶ際には妓女を伴うこともあり、これを聞いた司徒の司馬昱は「人と楽しみを共にする者なら、憂いも共にせざるを得ない。召せば必ず来る」と見た。
  • 謝安の妻は劉惔の妹で、謝一門が栄える中で謝安だけが閑居しているのを見て奮起を促した。弟の謝万が失脚すると、謝安もようやく出仕の志を立て、四十余歳で桓温の招きに応じて司馬となった。桓温はこれを大いに喜び、厚遇した。

冬十月 秦への降附と処置

  • 烏桓の独孤部・鮮卑の没弈干が、それぞれ数万人を率いて秦に降った。苻堅は彼らを塞南に住まわせようとした。
  • これに対し陽平公苻融は、異民族は利と威で従っているだけで、民と雑居させれば将来の辺患になると諫めた。
  • 苻堅はその意見を容れ、塞外へ移住させて備えとした。

十一月 桓温への加封と李績の死

  • 晋では桓温が南郡公、弟の桓冲が豊城県公、子の桓済が臨賀県公に封じられた。
  • 前燕の慕容恪は李績を右僕射に起用しようとしたが、慕容暐が許さなかった。慕容恪が何度も請うと、慕容暐は「万機は叔父に委ねるが、伯陽一人だけは自分で裁きたい」と述べた。
  • 李績は章武太守に出され、憂憤のうちに死去した。