資治通鑑晉紀二十二 孝宗穆皇帝 升平 二年 三年 359年

燕の宮廷、太子と諫臣

  • 春二月、燕の主慕容儁は子の慕容泓を済北王、慕容冲を中山王に封じた。
  • 燕人が段勤を殺し、その弟段思が東晋へ逃れた。
  • 慕容儁は蒲池で群臣を宴し、かつての太子慕容曄を思って涙を流した。李績は、慕容曄には孝・聡敏・沈毅・直言を好むこと・学問・諸芸・謙恭・施し好きの八徳があったと称えた。
  • 慕容儁が現太子慕容暐について問うと、李績は資質は優れているが、遊猟と音楽を好む欠点があると率直に述べた。慕容儁はこれを薬石の言葉として太子に戒めたが、慕容暐は不満を抱いた。

石虎の遺骸発掘

  • 慕容儁は、夢の中で趙王石虎に腕を噛まれたため、その墓を掘り返して遺骸を求めた。
  • 鄴の女・李菟が所在を告げたので、東明観の下から石虎の遺骸を掘り出した。遺体は腐らず、そのままだった。
  • 慕容儁はこれを踏みつけ、「死んだ胡族が生きた天子を脅すとは」と罵り、その暴虐を数え上げて鞭打ち、漳水へ投げ込んだ。
  • 遺体は橋柱にもたれて流れず、後に前秦が燕を滅ぼした際、王猛が李菟を処罰して石虎の遺体を収めて葬らせた。

前秦、略陽の叛乱を平定

  • 前秦の平羌護軍高離が略陽で反乱を起こし、永安威公苻侯が討ったが、平定できないまま死んだ。
  • 夏四月、驍騎将軍鄧羌と秦州刺史啖鉄が討ってこれを平定した。

匈奴・河東・前秦改元

  • 匈奴の劉悉勿祈が死ぬと、弟の衛辰がその子を殺して後を継いだ。
  • 五月、苻堅は河東へ行幸した。
  • 六月、大赦して年号を甘露と改めた。

涼で張瓘が宋混に倒される

  • 涼州牧張瓘は猜疑心が強く苛酷で、賞罰を愛憎で決めた。郎中の殷郇が諫めると、「虎は生後三日で肉を食う。人に教わる必要はない」と言い放った。
  • 人心が離れる中、張瓘は忠直な宋混を恐れ、宋混と弟の宋澄を殺し、あわせて張玄靚を廃して自らに代えようとした。
  • 兵数万を姑臧に集めたが、宋混はこれを知り、宋澄と楊和ら四十余騎で南城へ急襲し、「張瓘が謀反を企て、太后の命で誅する」と諸営に告げた。
  • たちまち兵は二千に増え、張瓘が出戦すると宋混がこれを破った。張瓘配下の玄臚が宋混を刺したが、甲を貫けなかったため、宋混はこれを捕えた。
  • 張瓘と弟張琚はともに自殺し、宋混はその一族を誅した。
  • 張玄靚は宋混を使持節・都督中外諸軍事・驃騎大将軍・酒泉郡侯として、張瓘の後任に立てた。
  • 宋混は張玄靚に、涼王号を去って再び涼州牧と称するよう請い、これに従わせた。
  • 宋混は玄臚に対し、「お前は私を刺したが今や私が政を執る。怖くないか」と問うた。玄臚は「張瓘の恩に報いられず、刺し損ねたのが悔しいだけだ」と答えた。宋混はその義を認めて腹心に取り立てた。

高昌の敗走と前秦の粛清

  • 高昌は燕に抗しきれず、秋七月、白馬から滎陽へ逃れた。
  • 苻堅は河東から帰還し、鄧羌を御史中丞に任じた。
  • 八月、咸陽内史王猛を侍中・中書令・京兆尹に任じた。
  • 特進の强徳は太后の弟で、酒乱かつ横暴で、民から財貨や子女を奪っていた。王猛は赴任早々これを逮捕して奏聞し、返答が届く前に市場で処刑してしまった。苻堅は赦免の使者を急がせたが間に合わなかった。
  • 王猛と鄧羌は志を同じくして悪を憎み、権豪・貴戚を遠慮なく摘発した。わずか数十日で二十余人が殺されるか罷免され、朝廷は震え上がり、奸猾な者も息を潜め、道に落とし物がなくなるほどであった。
  • 苻堅は、「天下に法があることをようやく知った」と感嘆した。

東晋、東阿で敗北

  • 泰山太守諸葛攸が水陸二万を率いて燕を攻め、石門から入り河渚に屯した。
  • 燕の上庸王慕容評と長楽太守傅顔が歩騎五万で東阿に迎撃し、諸葛攸を大破した。

謝万・郗曇の失敗と燕の南進

  • 冬十月、東晋は謝万を下蔡、郗曇を高平へ進めて燕を討たせた。
  • 謝万は高慢で人を見下し、嘯詠ばかりして軍を慰撫しなかった。兄の謝安がしばしば諸将に会って心を和らげるよう忠告しても改めなかった。
  • ついに謝万が諸将を集めたときも、何も語らず、ただ如意で座中を指し「諸将はみな勁卒だ」と言っただけだったので、将たちはいっそう恨んだ。
  • 謝安は弟の失敗を案じ、隊帥以下にまで自ら会って丁重に頼み込んだ。
  • やがて謝万は渦・潁の間へ進んで洛陽救援を図ったが、郗曇が病で彭城に退くと、燕兵が強大だとして自らも撤退を始めた。
  • すると軍は恐慌を起こして潰走し、謝万はやっと単身で帰還した。兵士の中にはこの敗北に乗じて謝万を殺そうとする者もあったが、謝安への配慮から思いとどまった。
  • 朝廷は謝万を庶人に落とし、郗曇も建武将軍へ降格した。
  • この結果、許昌・潁川・譙・沛などの諸城は相次いで燕に陥ちた。

前秦で王猛さらに昇進

  • 苻堅は王猛を吏部尚書とし、まもなく太子詹事、十一月には左僕射に進め、他の官はそのままとした。

燕主慕容儁の病と後事

  • 十二月、武陵王司馬晞の子司馬璡を梁王に封じた。
  • この年は大旱であった。
  • 辛酉、燕主慕容儁は病床で、大司馬慕容恪に対し、前秦と東晋の二方面がまだ平定されず、太子慕容暐は幼いので、宋の宣公が弟へ国を譲った前例にならい、自分も国を慕容恪に委ねたいと言った。
  • 慕容恪は、太子は幼いが乱を収め治を致す主君となりうる、臣下である自分が正統に干渉できるはずがないと辞退した。
  • 慕容儁がなお迫ると、慕容恪は「もし自分が天下を担えるほどなら、少主を補佐することもできる」と答えた。
  • 慕容儁は喜び、「お前が周公となるなら私は心配ない」と言い、李績を厚遇するよう命じ、呉王慕容垂を遼東から鄴へ召還した。

前秦、王猛に権を集中

  • 苻堅は王猛を輔国将軍・司隷校尉とし、宮中宿衛に置いた。僕射・詹事・侍中・中書令・領選は旧のままとした。
  • 王猛は辞表を上げて、陽平公苻融・任群・処士朱彤を推挙したが、苻堅は許さず、苻融を侍中・中書監・左僕射、任群を光禄大夫・領太子家令、朱彤を尚書侍郎・領太子庶子とした。
  • 王猛はこの年三十六歳で、年内だけで五度も昇進し、内外の権を一身に集めた。人々の中にはこれをそしる者もいたが、苻堅はかえってその者を処罰したため、誰も王猛を非難できなくなった。
  • 左僕射李威は護軍を兼ね、右僕射梁平老は使持節・都督北垂諸軍事・鎮北大将軍として朔方西方に駐屯し、丞相司馬賈雍は雲中護軍として雲中南方に駐屯した。
  • 燕が徴発した郡国の兵は、この年ついにすべて鄴へ集結した。