資治通鑑晉紀二十二 孝宗穆皇帝 升平 元年 二年 358年
前秦、張平を討つ
- 春正月、司徒司馬昱が再び政務返上を願ったが、帝は許さなかった。
- もとより上党の馮鴦は東晋・張平・燕のあいだで離反を重ね、また燕にも背いたため、二月、燕の司徒慕容評が討ったが破れなかった。
- 前秦の苻堅は自ら張平討伐に向かい、鄧羌を前鋒督護として騎兵五千を汾水沿いに進めた。
- 張平は養子の張蚝を迎撃に出した。張蚝は怪力・俊敏で、牛を引きずって後ろ向きに走り、城壁を軽々と越えるほどだった。鄧羌と十余日対峙して決着がつかなかった。
- 三月、苻堅が銅壁に着くと、張平は全軍で出戦した。張蚝は単騎で何度も秦陣に突入したが、呂光が槍で傷つけ、鄧羌が生け捕った。
- 張平軍は崩れ、張平は降伏した。苻堅は張平を右将軍、張蚝を虎賁中郎将とした。
- 張蚝は本姓を弓といい、上党の人であった。苻堅は彼を非常に寵遇し、常に側近くに置いた。秦では鄧羌と張蚝を「万人敵」と呼んだ。
- 苻堅は張平の民三千余戸を長安へ移した。
燕、馮鴦を平定
- 甲戌、燕の主慕容儁は領軍将軍慕輿根に兵を授け、司徒慕容評を助けて馮鴦を攻めさせた。
- 慕容評は持久を主張したが、慕輿根は、到着したばかりの新鋭の勢いを利用すれば敵はまだ結束が固まっていないと説き、急攻した。
- すると馮鴦とその党は猜疑し合い、馮鴦は野王へ逃れて呂護に依った。残る衆はみな降伏した。
苻堅、漢礼にならって祭祀を行う
- 夏四月、苻堅は雍に赴いて五畤を祀った。
- 六月には河東へ行って后土を祀った。いずれも漢代の礼制にならったものである。
東晋、豫州刺史更迭
- 秋八月、豫州刺史謝奕が死去した。司徒司馬昱は建武将軍桓雲を後任にしようとした。
- 王彪之は、桓温が上流を支配して天下の半ばを握る状況で、その弟をさらに西方の要地に置くのは、権力が一門に集中しすぎると反対した。
- 司馬昱はこれを是として、壬申、呉興太守謝万を西中郎将・監司豫冀并四州諸軍事・豫州刺史に任じた。
- 王羲之は桓温に書を送り、謝万は本来、辺地の残弊した軍民をなだめるよりも、朝廷で才を用いるべき人物だと述べた。さらに謝万本人にも、身分の低い兵士と甘苦をともにせよと忠告した。
- しかし謝万はその忠告を用いなかった。
- 荀羨が病気となると、御史中丞郗曇が軍司となった。郗鑒の子である。
前秦の旱と王猛の断行
- 九月庚辰、苻堅は長安へ帰り、太尉苻侯に尚書令を守らせた。
- この頃前秦では大旱があったが、苻堅は自ら食事と音楽を減らし、后妃にも華美な衣服をやめさせ、山沢の利を公私に開放し、兵を休めて民を養ったので、大きな災厄にはならなかった。
- 王猛は、近習や宗族・勲旧の多くが自分を憎んでいると知っていた。
- 特進・姑臧侯樊世は氐族の豪族で、前秦建国の功臣であったが、王猛に「われらが耕してお前が食うのか」と罵った。王猛が言い返すと、樊世は王猛の首を城門にさらすと怒鳴った。
- 王猛がこれを苻堅に告げると、苻堅は「この老いた氐人を殺してこそ百官を粛正できる」と判断した。
- たまたま樊世が上奏の場で王猛と争い、殴りかかろうとしたため、苻堅はその場で樊世を斬った。以後、群臣は王猛を見ると息を詰めて恐れた。
燕、并州・濮陽方面を制圧
- 趙の滅亡後、張平・李歴・高昌は燕・晋・秦の間でたびたび帰順先を変え、それぞれから爵位を受けて中立を保とうとしていた。
- 慕容儁は司徒慕容評に張平を、司空陽騖に高昌を、楽安王慕容臧に李歴を討たせた。
- 陽騖は高昌の別将を黎陽で攻めたが抜けず、李歴は滎陽へ逃げ、その配下はみな降伏した。
- 并州の百余の壁塁も燕に降り、慕容儁は右僕射悦綰を并州刺史にして鎮撫させた。
- 張平配下の諸葛驤ら百三十八壁も燕に帰し、燕はその官爵を旧に復した。
- 張平は三千を率いて平陽へ逃れ、改めて燕への降伏を願った。
東晋、泰山方面で敗北
- 冬十月、泰山太守諸葛攸が燕の東郡に攻め入り、武陽に入った。
- 慕容儁は大司馬慕容恪に陽騖・慕容臧の兵を統べさせて迎撃させた。諸葛攸は敗れて泰山へ逃げ帰った。
- 慕容恪はそのまま黄河を渡って河南を攻略し、守宰を分置した。
燕の大動員計画と緩和
- 慕容儁は前秦・東晋の双方を経営しようと考え、十二月、州郡に壮丁の実数を調べさせ、各戸一人を残して他はすべて兵とし、歩兵百五十万を満たして来春洛陽に大集結させる計画を立てた。
- しかし武邑の劉貴が上書し、民はすでに疲弊し、この徴発は法を外れ、土崩の変を招くと強く諫めた。慕容儁はこれを受け入れ、三戸ないし五戸につき一兵を出させる方式に改め、集合時期も来冬へ延ばした。
- 当時、燕では徴発が頻繁で、役所がそれぞれ使者を乱発して郡県を苦しめていた。太尉兼中書監封奕は、軍期が緊急でない限り使者派遣を禁じ、賦役の督促は州郡に責任を持たせ、外地で監督している役人も一斉に召し返すよう請い、慕容儁は従った。
荀羨、山茌を攻め賈堅を捕える
- 燕の泰山太守賈堅は山茌に屯していた。荀羨がこれを攻めたが、賈堅の兵は七百余しかいないのに対し、荀羨軍は十倍あった。
- 賈堅は籠城策に反対し、戦わなければどうせ免れぬとして出撃し、自ら先頭に立って荀羨軍千余を斬った後、城へ戻った。
- 荀羨がさらに攻めると、賈堅は自分は常に窮地に遭う宿命だと嘆きつつ、屈辱の生より節義の死を選ぶと将士に告げた。将士は皆泣いて離れず、賈堅を馬に乗せて最後の突撃に出た。
- 荀羨軍が四方から集まる中、賈堅は橋上で戦い、左右へ矢を放ってことごとく敵を倒したが、敵兵が塹の下から橋を斬ったため、人馬ともに落ちて生け捕られ、ついに山茌は陥落した。
- 荀羨は「君の父祖は代々晋臣なのに、なぜ背くのか」と責めた。賈堅は「晋が中華を捨てたのであって、自分が叛いたのではない。民は主を失えば強者に託命する。いったん仕えた以上、節を改められぬ」と答え、さらに重ねて降伏を迫られると激怒し、ついに憤死した。
- 燕の青州刺史慕容塵は司馬悦明を救援に遣わし、荀羨軍を大破して山茌を奪回した。
- 慕容儁は賈堅の子・賈活を任城太守に任じた。
東晋の北辺再編と燕宮廷の不和
- 荀羨は病が重くなって召還され、郗曇が北中郎将・督徐兗青冀幽五州諸軍事・徐兗二州刺史として下邳に鎮した。
- 燕の呉王慕容垂の妃は段末柸の娘で、子に慕容令・慕容宝がいた。段氏は家柄と才気を誇り、可足渾皇后にへりくだらなかったため、皇后は彼女を憎んだ。
- 慕容儁ももともと慕容垂に快くない感情があり、中常侍涅皓がこれに迎合して、段氏と呉国典書令高弼が巫蠱を行い慕容垂を連座させようとしていると告発した。
- 段氏と高弼は大長秋・廷尉の厳しい取り調べにも屈せず、慕容垂は彼女を哀れんで自白して苦痛を避けよと伝えたが、段氏はそれでは祖宗を辱め、夫にも累が及ぶとして拒んだ。ついに獄死し、慕容垂だけが禍を免れた。
- 慕容垂は平州刺史として遼東へ出され、後に段氏の妹を継室としたが、可足渾皇后はこれを退けて自分の妹・長安君を慕容垂に嫁がせた。慕容垂は喜ばず、皇后への憎しみを深めた。
匈奴劉閼頭の敗走
- 匈奴の劉閼頭の部落では離反が多く、閼頭は恐れて東へ逃れ、凍った黄河を渡ろうとしたが、途中で氷が解けた。
- 後続の衆はみな劉悉勿祈に帰し、閼頭は代へ逃げた。悉勿祈は劉務桓の子であった。