資治通鑑晉紀二十二 孝宗穆皇帝 升平 元年 一年 357年

穆帝親政の開始

  • 春正月壬戌朔、穆帝は元服し、皇太后は政務を返上する詔を出した。大赦し、年号を升平と改め、皇太后は崇徳宮へ移った。

燕の皇太子冊立と乙逸の嘆き

  • 燕の主・慕容儁は幽州刺史乙逸を左光禄大夫に徴した。乙逸は質素を好んだが、子の乙璋は派手な装いで迎えに来たため、乙逸は深く叱責した。
  • それでも乙璋は改まらず、かえって中書令・御史中丞など顕職に抜擢された。乙逸は、節義を守る者が報われず、奢侈な者が清顕に進む時勢の乱れを嘆いた。
  • 二月癸丑、慕容儁は子の慕容暐を皇太子に立て、大赦して年号を光寿と改めた。

前秦、姚襄の関中進出を撃破

  • 太白星が東井に入ると、前秦の有司は「秦分に兵災がある」と言上したが、苻生は「ただ星が渇いて井に入っただけだ」と取り合わなかった。
  • 夏四月、姚襄は関中攻略を図り、北屈から杏城へ進み、姚蘭・姚益生・王欽盧らを分遣して敷城方面で羌胡を招いた。胡族や前秦の民で帰附する者は五万余戸に達した。
  • 前秦の苻飛龍が姚蘭を撃って捕らえると、姚襄は黄落に進んで拠った。
  • 苻生は広平王黄眉・苻道・東海王苻堅・鄧羌らに歩騎一万五千を授けて迎撃させた。
  • 姚襄は固く塁を守ったが、鄧羌は姚襄が桓温・張平に敗れて気勢を失っていると見て、騎兵三千で塁門を圧迫して挑発した。
  • 五月、姚襄は怒って全軍で出撃し、鄧羌はわざと敗走した。姚襄が三原まで追うと、鄧羌が反転し、黄眉ら本隊も続いて大破した。
  • 姚襄の愛馬が倒れたため捕らえられ、斬られた。弟の姚萇は残兵を率いて降伏した。
  • 姚襄は父姚弋仲の柩を軍中に置いていたため、苻生は弋仲を王礼で、姚襄を公礼で葬らせた。

苻生、猜疑で黄眉らを疑い大量誅殺

  • 黄眉らが長安へ帰ると、苻生は褒賞せず、むしろ数々の辱めを加えた。黄眉は怒って苻生暗殺を企てたが、事前に発覚して処刑された。
  • この事件に連座して王公・親戚が多数死んだ。
  • 苻生はまた、大魚が蒲を食う夢や、長安の童謡に不吉を感じ、太師の魚遵とその一族を殺した。
  • 牛夷が危険を感じて荆州赴任を求めても許されず、むしろ魚遵の地位を与えるとからかわれた。牛夷は帰宅後に自殺した。
  • 苻生は昼夜なく酒を飲み、政事を省みず、酔ったまま裁断して側近に私曲を許した。朝に出ても夕方近くで、多くの殺戮を行った。
  • 自身の隻眼に触れる言葉を忌み、わずかな言い誤りでも死罪にした。牛馬や鳥獣を生きたまま皮を剥ぎ、人の顔の皮まで剥がして歌舞させるなど、残虐な見世物を好んだ。
  • 世評を問うた際、「天下は太平を歌う」と答えても「媚びだ」と斬り、「刑罰が少し行き過ぎる」と言っても「誹謗だ」と斬ったため、勲旧も親族もほぼ殺し尽くされ、群臣は一日を十年のように恐れて過ごした。

苻堅と王猛の出会い

  • 東海王苻堅は当時すでに時論で高く評価されており、旧姚襄参軍の薛讃・権翼が密かに、「前秦を継ぐべきは殿下だ」と勧めた。
  • 苻堅が呂婆楼に相談すると、呂婆楼は自分は大事を担う器ではないとして、里に住む王猛を推した。
  • 苻堅は王猛を招き、一見して意気投合した。苻堅は、これは劉備が諸葛亮を得たようなものだと感じた。

天象・人心の離反と苻生打倒計画

  • 六月、太史令康権が、三つの月や彗星が太微・東井に現れ、長雨不降も続くことから「下の者が上を謀る禍」があると告げたが、苻生は妖言として打ち殺した。
  • 梁平老らも苻堅に、主君の失徳で人心が離れ、燕・晋も機を狙っているので早く決断すべきだと迫った。苻堅も内心では同意したが、苻生の敏捷と勇力を恐れてすぐには動けなかった。
  • ところが苻生が侍婢に「明日、阿法兄弟を除く」と漏らし、その婢が苻堅と兄の清河王苻法に告げたため、二人は先手を打つことになった。

苻堅、苻生を廃して即位

  • 苻法は梁平老・强汪とともに数百の壮士を率いて雲龍門から潜入し、苻堅と呂婆楼も三百人でこれに続いた。宿衛兵は皆武器を捨てて苻堅に帰した。
  • 苻生はなお酔って寝ていたが、兵が来たと聞くと「なぜ拝さないのだ」と叫び、相手を賊とも認識できていなかった。兵たちは笑い、彼を別室へ引き立て、越王に廃したのち殺した。諡は厲王。
  • 苻堅は位を兄の苻法に譲ろうとしたが、苻法と群臣がみな苻堅を推した。母の苟氏も社稷の重さを説き、ついに苻堅が受けた。
  • 苻堅は皇帝号を去って「大秦天王」と称し、太極殿で即位した。
  • 董榮・趙韶ら苻生の幸臣二十余人を誅し、大赦して年号を永興と改めた。
  • 父苻雄を文桓皇帝、母苟氏を皇太后と追尊し、妃苟氏を皇后、世子苻宏を白皇太子とした。
  • 清河王苻法を都督中外諸軍事・丞相・録尚書事、永安公苻侯を太尉、晋公苻柳を車騎大将軍・尚書令とし、弟や子にも諸公の爵を授けた。
  • 漢陽の李威を左僕射、梁平老を右僕射、强汪を領軍将軍、呂婆楼を司隷校尉、王猛を中書侍郎とした。
  • 苻融は文学・弁才・記憶・武芸に優れ、苻堅に重用されて内外の政務をよく総覧した。苻丕もまた才幹があり、治民・断獄で苻融に次ぐとされた。
  • 李威はかつて苻堅の命を救い、太后との縁も深かったため、苻堅は父のように遇した。李威もまた王猛を強く推挙した。苻堅は李威の王猛知遇を、鮑叔牙が管仲を知ったのになぞらえた。

燕、段龕を処刑

  • 秋七月、燕は段龕を殺し、その配下三千余人を坑に埋めた。

東晋、皇后を立てる

  • 八月丁未、東晋は何氏を皇后に立てた。故散騎侍郎何準の娘であり、礼は咸康年間の立后に準じたが、賀礼は行わなかった。

張平、燕秦の間で自立を図る

  • 九月、前秦は魚遵らの官位を追復し、礼をもって改葬し、生存している子孫も能力に応じて登用した。
  • 張平は新興・雁門・西河・太原・上党・上郡に勢力を持ち、三百余の壁塁、夷夏十余万戸を擁して、燕と前秦の対等国たろうとした。
  • 冬十月、張平は前秦の国境を侵したため、苻堅は晋公苻柳に并・冀州諸軍の都督を加えて蒲阪に鎮させ、防がせた。

燕の遷都と前秦の内政

  • 十一月癸酉、燕の主慕容儁は薊から鄴へ遷都した。
  • 前秦では苟太后が宣明台から東海公苻法の邸を見て、車馬の出入りの多さを不吉と感じ、李威と謀って苻法に死を賜った。
  • 苻堅は東堂で苻法と別れる際に慟哭し、血を吐いた。苻法には献哀公の諡が与えられ、その子苻陽は東海公、苻敷は清河公となった。
  • 十二月乙巳、慕容儁は鄴宮に入り、大赦し、銅雀台を再建した。
  • 東晋では王彪之を左僕射とした。
  • 前秦では苻堅が尚書省に出向いた際、文案処理が整っていないのを見て左丞程卓を免じ、王猛をその後任にした。
  • 苻堅は異才を抜擢し、廃れた職を修め、農桑を課し、困窮を救い、百神を祀り、学校を立て、節義を顕彰し、絶えた家を継がせたため、民心は大いに悦服した。