資治通鑑晉紀二十三 孝宗穆皇帝 升平 五年 361年

正月・二月 劉衛辰の背反と郗曇の死

  • 大赦が行われた。
  • 劉衛辰が秦辺の民五十余人を掠って奴婢とし、それを秦に献じた。苻堅はこれを責め、掠奪した民を帰還させたため、劉衛辰は秦に背き、もっぱら代に依るようになった。
  • 東安簡伯郗曇が死去した。

二月 范汪の任命と平陽の離反

  • 范汪が徐・兗・冀・青・幽五州都督を兼ね、徐・兗二州刺史となった。
  • 平陽の人々が挙郡して前燕に降り、前燕は段剛を太守とし、督護韓苞とともに守らせた。

前燕宮廷 丁進誅殺

  • 方士の丁進が慕容暐に寵愛され、慕容恪に媚びようとして、慕容評を殺すよう勧めた。
  • 慕容恪は激怒し、上奏して丁進を捕らえ斬った。

三月〜夏四月 呂護の反乱と慕容恪の持久戦

  • かつて前燕に属していた河内太守呂護が、その兵を率いて晋へ降り、冀州刺史に任じられた。呂護は晋軍を引き入れて鄴を襲おうとした。
  • 前燕では慕容恪が五万、皇甫真が一万を率いてこれを討ち、野王に至ると呂護は籠城した。
  • 傅顔は速攻を主張したが、慕容恪は、呂護は経験が深く、軽々しく攻めれば無益に精鋭を失うだけであるとして退けた。黎陽攻めの失敗を例に挙げ、深い塹壕と高い塁を築いて囲み、敵の糧尽きるのを待つべきだと論じた。
  • その方針により、長囲を築いて守りを固めた。

夏四月 桓豁の出兵と涼の宋混の遺言

  • 桓温は弟の桓豁を沔中七郡の都督とし、新野・義成二郡太守を兼ねさせ、兵を率いて許昌を攻略させ、前燕の将慕容塵を破らせた。
  • 涼では驃騎大将軍宋混が重病となり、張玄靚と祖母の馬氏が見舞った。張玄靚は、もしもの時は宋混の子の宋林宗に後事を託してよいか尋ねた。
  • 宋混は、子は幼く任に耐えず、弟の宋澄の方が政務に優れるが、柔らかすぎて機変に欠ける恐れがあるので、よく励ませば用いられると答えた。
  • 宋混は一族に国家の恩に報いよと戒め、朝臣たちにも忠誠を説き、死去すると人々は道で涙した。
  • 張玄靚は宋澄を領軍将軍として補政に当たらせた。

五月〜七月 穆帝の死と哀帝の即位

  • 五月、穆帝が十九歳で死去し、嗣子がなかった。
  • 皇太后は、琅邪王司馬丕が中興以来の正統であり、名望・立場ともに並ぶ者がないとして皇位を継がせた。百官は法駕を整えて迎え、司馬丕は即位して大赦した。
  • 東海王司馬弈は琅邪王に改封された。
  • 七月、穆帝は永平陵に葬られ、廟号を孝宗とした。

夏〜秋 野王陥落と呂護の敗走

  • 前燕は数か月にわたり野王を包囲し、呂護配下の張興が出撃すると傅顔がこれを斬った。
  • 皇甫真は、呂護は追い詰められれば必ず精鋭で突破を図ると見て、自軍の装備の弱さを補うため楯や櫓を増やし、夜警を厳重にした。
  • 果たして呂護は糧尽きて夜襲突破を試みたが、皇甫真の部隊を抜けられず、慕容恪が出兵してこれを撃ち、呂護軍はほぼ壊滅した。呂護は妻子を捨てて滎陽へ逃れた。
  • 慕容恪は降民を慰撫して食を与え、士人や将帥を鄴へ移し、それ以外の者は望む地へ帰した。
  • 呂護の参軍梁琛は中書著作郎に取り立てられた。

九月 晋の立后と涼の政変

  • 晋では王濛の娘が皇后に立てられた。穆帝の何皇后は「穆皇后」と称して永安宮に居した。
  • 涼では右司馬張邕が宋澄の専政を憎んで兵を起こし、宋澄とその一族を殺した。張玄靚はやむなく張邕を中護軍、叔父の張天錫を中領軍とし、ともに補政させた。

張平の滅亡

  • 張平が前燕の平陽を襲って段剛・韓苞を殺し、さらに雁門を攻めて太守単男を殺した。
  • その後、秦の攻撃を受けると、再び前燕へ謝罪して救援を求めたが、前燕はその反覆を嫌って援けなかった。
  • 張平はついに秦に滅ぼされた。

冬十月 范汪失脚

  • 秦で大赦が行われた。
  • 范汪はもとより桓温に嫌われていたが、桓温の北伐に際し、梁国へ出兵を命じられたものの、期日に遅れた罪で庶人に落とされ、そのまま家で失意のうちに死んだ。
  • その子范寗は儒学を好み、王弼・何晏の罪は桀・紂より重いと論じた。専ら玄談によって仁義と典礼を沈ませ、後代の士風を乱し、中原の傾覆にまで悪影響を及ぼしたからだという見方である。

呂護の再降と涼の張邕誅殺

  • 呂護が再び前燕へ奔ると、前燕はこれを赦し、実地のないまま広州刺史の名を与えた。
  • 涼では張邕が驕慢・淫縦で、朋党を立てて刑殺をほしいままにしたため、人々が苦しんでいた。
  • 張天錫の側近である敦煌の劉粛は、張邕のふるまいはかつての張祚に似ていると警告し、急いで除くべきだと勧めた。
  • 十一月、張天錫が張邕とともに入朝した際、劉粛と趙白駒が襲撃したが仕損じ、張邕は逃げて甲士三百余人で宮門を攻めた。
  • 張天錫が屋上に登って将士へ、「張邕だけを誅するのであって、他には問わない」と呼びかけると、兵はみな散り、張邕は自刎した。一族・党与も滅ぼされた。
  • 張玄靚は張天錫を使持節・冠軍大将軍・都督中外諸軍事として補政に当たらせた。

十二月 涼の年号変更と秦の選挙

  • 涼では建興四十九年の年号を改め、晋の升平年号を奉ずるようになった。
  • 晋朝は張玄靚を大都督・涼州刺史・護羌校尉・西平公に任じた。
  • 前燕でも大赦が行われた。
  • 秦では苻堅が州郡の長官に、孝弟・廉直・文学・政事に優れた人材を推薦させ、適材なら賞し、不適なら罪した。請託は行われず、人々は自ら励み、宗室や外戚でも才能のない者は用いられなかった。田畑は整備され、倉庫は満ち、盗賊も静まった。
  • この年、かつて蜀漢系政権の主であった李勢が死去した。