資治通鑑晉紀十六 顯宗成皇帝 咸和 六年 331年
春正月:沿海への再侵攻
- 春正月、前趙将劉徴が再び婁県を侵し、武進を掠めた。郗鑒がこれを撃退した。
三月:天変と石勒の新宮計画
- 三月壬戌朔、日食があった。
- 夏、石勒は鄴へ赴いて新宮を営もうとした。廷尉の続咸はこれに苦言を呈して強く諫めたため、石勒は怒って斬ろうとした。
- しかし徐光が、たとえ言が採られずとも、列卿を直言ゆえに殺してはならないと諫めた。石勒は、人君としても私財百匹ある者が屋敷を求めるのに、まして四海を有する者が宮を建てたく思うのは当然だが、今はこの忠臣の気節を全うさせようとして、工事中止を命じ、続咸に絹百匹・稲百斛を賜った。
- さらに公卿以下に毎年賢良方正を推挙させ、被挙者にも相互推薦を認め、求賢の道を広げた。
- 襄国城西には明堂・辟雍・霊台を起こした。これは石勒が武人でありながら文化制度の整備にも努めたことを示す。
夏秋:成漢と仇池の動き
- 秋七月、成漢の大将軍李寿が陰平・武都を攻めると、仇池の楊難敵はこれに降った。
九月:後趙の鄴宮再開
- 九月、石勒は再び鄴宮の造営を始め、洛陽を南都として行台を置いた。
冬:王導への特別礼遇
- 冬の蒸祭で、太廟の胙肉を司徒王導へ賜り、拝受の際には拝礼を省くよう命じた。
- 王導は病を理由に辞して敢えて受けなかった。
- もともと成帝は幼くして即位したため、王導に会うたび拝礼し、直筆の手詔でも「惶恐」と書き、中書が作る詔書では「敬問」としていた。元会の日に帝が王導へ敬礼すべきか否かが議論となった。
- 博士郭熙・杜援は、礼に天子が臣へ拝する文はないとして、敬礼を廃すべきだと主張した。侍中馮懐は、天子が辟雍で三老に拝礼する例もあり、王導は先帝の師傅でもあるから礼を尽くすべきだと述べた。侍中荀奕は、元日という三朝の首には君臣の体を明らかにすべきで敬礼は不要だが、日常の小会では礼を尽くしてよいと論じた。
- 詔は荀奕の議を採用した。
慕容廆の昇進をめぐる議論
- 慕容廆は陶侃に書を送り、兵を興してともに北伐し中原を清めようと勧めた。
- その僚属宋該らは、慕容廆は一隅で功を立てながら位が低く任が重すぎ、華夷を鎮めるには官爵が不足しているので、晋朝へ上表してさらに進爵を請うべきだと議した。
- 参軍韓恒はこれに反対し、功ある者が憂うべきは信義が世に著れぬことであって、名位の低さではない、桓公・文公もまず礼命を求めて諸侯を号令したのではなく、甲兵を整えて群凶を除いてから九錫に至ったのであり、先に恩賞を請うのは君に向かって寵を求めるようで名誉ではないと駁した。
- 慕容廆は不快となり、韓恒を新昌令へ左遷した。
- その後、東夷校尉封抽らが陶侃の府へ上疏し、慕容廆を燕王に封じ、大将軍の事を行わせるよう請うた。陶侃は返書で、功成ってから進爵するのは古制であり、自分には石勒を倒して官位を与える力はまだないが、その忠義はすでに朝廷へ伝えた、成否や時機は天子のもとにあると答えた。