資治通鑑晉紀十六 顯宗成皇帝 咸和 五年 330年

春正月:郭黙追討開始

  • 春正月、劉胤の首が建康に届いた。司徒王導は、郭黙は驍勇で制御しにくく、なお上流の要地を押さえていることから、まずは表向きこれを宥める方針をとった。己亥、大赦を行い、劉胤の首を大航にさらしたうえで、郭黙を江州刺史に任じた。
  • 太尉陶侃はこれを聞くや、これは必ず偽りであると見抜き、袖を払って立ち上がり、直ちに討伐軍を起こそうとした。郭黙は妓妾や絹を送り、偽作した詔書の写しまで示して弁解したが、陶侃は信じなかった。
  • 幕僚の多くは、もし本当に無詔でこのような大事を起こしたなら郭黙にも覚悟があるはずで、進軍するにしても朝廷の正式返答を待つべきだと諫めた。
  • しかし陶侃は、幼帝のもとでは詔令が常に宰相の胸中から出るとは限らず、劉胤は朝廷に礼遇された方伯であるのに、どうして理由もなく極刑に処せようか、郭黙は蘇峻の乱が終わったばかりで紀綱が緩んだのに乗じ、性来の貪暴を逞しくしたにすぎぬと断じた。
  • 陶侃は使者を走らせて上表し、あわせて王導に書を送り、「州刺史を殺した者をそのまま州刺史にするなら、宰相を害した者は宰相にするのか」と痛烈に非難した。
  • 王導は劉胤の首を収めて返書し、郭黙は上流の形勢と舟艦を握っているので、まずは包み隠してその地を保たせ、陶侃の軍が到着するのを待って一気に討つつもりだった、これは時機を養って大事を定めるためだと弁明した。陶侃はこれを聞いて、「それでは賊を養っているだけだ」と笑った。

庾亮の合流準備

  • 豫州刺史庾亮も郭黙討伐を請い、詔により征討都督を加えられ、歩騎二万を率いて陶侃と会するよう命じられた。
  • 西陽太守鄧岳と武昌太守劉詡は、桓宣が郭黙と通じるのではないかと疑った。豫州西曹の王随は、桓宣は祖約にすら附かなかった人物であり、郭黙などに応じるはずがないと述べた。
  • 鄧岳・劉詡は王随を桓宣のもとへ送って真意を探らせた。王随は、疑いを晴らすには子を人質として差し出すほかないと説き、桓宣は子の桓戎を王随とともに陶侃のもとへ送った。
  • 陶侃は桓戎を掾に用い、朝廷へ上表して桓宣を武昌太守に推した。

二月:後趙で石勒が帝位に近づく

  • 二月、後趙の群臣が石勒に皇帝即位を請うと、石勒はひとまず「大趙天王」を称し、皇帝の事を行った。
  • 王后に劉氏を立て、世子石弘を太子とし、子の石宏を驃騎大将軍・都督中外諸軍事・大単于・秦王、石斌を左衛将軍・太原王、石恢を輔国将軍・南陽王とした。石虎は太尉・尚書令・中山王に進み、子の石邃は冀州刺史・斉王となった。
  • 郭敖・程遐・夔安・郭殷・李鳳・裴憲・徐光らも中枢の官に任じられ、文武への封拝は広く行われた。
  • だが石虎は密かに不満を抱き、自分こそ二十余年矢石の中で南北東西の戦いを担い、大趙の基業を築いたのに、大単于が黄口の婢児のような太子に与えられたのは耐えがたいと語った。石勒死後は留まるに足らぬとまで言った。

祖約の誅殺

  • 程遐は石勒に、天下がほぼ定まった今こそ逆順を明らかにすべきであり、かねて忠臣は褒め、背叛者は誅してきた大王の徳に照らせば、祖約を生かしているのは疑わしいと進言した。
  • 安西将軍姚弋仲も同様に述べたため、石勒はついに祖約とその親族百余人をことごとく誅し、妻妾・子女は諸胡に分け与えた。
  • ただし祖逖の旧胡奴であった王安だけは、かつて祖逖に厚遇されていた恩を思い、処刑場から祖逖の庶子祖道重をひそかに救い出し、僧形にして匿った。石氏滅亡後、祖道重は江南へ帰った。

郭黙籠城

  • 郭黙は南へ豫章を取ろうとしたが、陶侃軍が到着すると出戦して敗れ、城に入って固守した。米を積み上げて塁とし、まだ食糧に余裕があるよう見せかけた。
  • 陶侃は土山を築いてこれに対した。

三月〜五月:郭黙の敗死

  • 三月、庾亮の軍も湓口へ到着し、諸軍は大いに集結した。
  • 夏五月乙卯、郭黙配下の宋侯が郭黙父子を縛って降伏した。陶侃は軍門で郭黙を斬り、その首を建康へ送った。党与四十人も死んだ。
  • 詔により陶侃は江州都督・領刺史となり、鄧岳は交州・広州諸軍事を督し広州刺史を領した。陶侃は巴陵へ戻り、さらに武昌へ移鎮した。庾亮は蕪湖へ帰り、爵賞を辞退して受けなかった。

東南沿海の侵攻

  • 前趙の将劉徴は数千を率いて海路から東南の諸県を掠め、南沙都尉許儒を殺した。郗鑒がこれを撃退した。

張駿と後趙の関係

  • 張駿は前趙滅亡に乗じて再び河南地を回復し、狄道に至るまで五屯護軍を置き、後趙と境を接した。
  • 六月、後趙は鴻臚孟毅を派し、張駿を征西大将軍・凉州牧に任じ、九錫を加えた。張駿は臣下となることを恥じて受けず、孟毅を留めて帰さなかった。

丁零翟斌の朝貢

  • このころ、丁零の翟斌が代々住んだ康居から中国へ移り、後趙に入朝した。後趙は翟斌を句町王に封じた。

秋九月:石勒、正式に皇帝即位

  • 秋九月、石勒はついに皇帝位に即いた。大赦して建平と改元し、文武に広く封進を行った。
  • 妻劉氏を皇后、太子石弘を皇太子とした。石弘は文辞を好み、儒者を親しみ敬った。石勒は徐光に、石弘は穏やかで、将家の子らしくないと語った。
  • 徐光は、漢高祖は馬上で天下を取り、孝文帝は静かな徳で守った、聖人の後には残虐をやめさせる者が出るのが天の道だと答えた。
  • 徐光はさらに、中山王石虎は勇猛だが暴虐で詐が多く、石勒に万一があれば社稷は太子のものではなくなるおそれがあるので、今のうちに石虎の権限を次第に奪い、太子に政務参加の機会を増やすべきだと勧めた。石勒ももっともだと感じたが、実行には移せなかった。

襄陽の失陥

  • 後趙の荊州監軍郭敬が襄陽へ侵攻した。南中郎将周撫は沔北諸軍を監し、襄陽に屯していた。
  • 石勒は郭敬に早馬で命じて樊城へ退かせ、旗幟を隠して人気のないよう見せかけたうえで、もし晋の偵察兵が来れば、後七、八日で大騎兵が到着するから自重して守れとわざと言わせた。
  • さらに馬を津で繰り返し洗わせ、昼夜ひっきりなしに兵がいるように見せた。偵察者はこれを大軍到来と誤認し、周撫は恐れて武昌へ逃れた。
  • 郭敬は襄陽へ入り、中州流民はみな後趙に降った。魏該の弟魏遐も石城から部衆を率いて降った。郭敬は襄陽城を壊し、住民を沔北・樊城へ移して守備させ、自ら荊州刺史となった。

西方・朝廷の動き

  • 休屠王羌が後趙に反いたが、石生に破られて凉州へ奔った。張駿は恐れ、孟毅を帰し、長史馬詵を派して臣を称し入貢した。
  • 建康では新たな宮殿の造営が始まり、甲辰、楽成王欽を河間王に移し、彭城王紘の子俊を高密王に封じた。
  • 冬十月、成漢の李寿は費黒らを率いて巴東・建平を攻め取り、巴東太守楊謙と監軍毋丘奥は宜都へ退いた。