資治通鑑晉紀十七 成皇帝 咸和 七年 332年

春正月 後趙の饗宴と石勒の自評

  • 春正月、晋では大赦が行われた。
  • 後趙の主・石勒は群臣を大いに饗応し、自分を古代のどの君主に比すべきかを徐光に問うた。徐光は漢の高祖を超えると持ち上げたが、石勒はそれを言い過ぎだとして、漢高祖に会えば臣下として仕え、光武帝に会えば中原の覇を争って勝敗はわからぬ、と語った。
  • また石勒は、堂々と事を行うのが大丈夫であり、曹操や司馬懿のように孤児や寡婦を欺いて天下を取るようなことはしない、と述べた。
  • 石勒は学問こそ十分ではなかったが、儒生に書物を読ませて聞き、しばしば自ら古今の得失を論じたので、聞く者は多く感服した。
  • 『漢書』を読ませた際、酈食其の六国後立ての策を聞くと、そんな方法では天下を失うはずだと驚き、張良の諫止を聞いて初めて納得した。

襄陽方面の攻防

  • 以前、郭敬が樊城へ退いたのち、晋はふたたび襄陽を回復していたが、この年の夏四月、郭敬が再び襄陽を奪取し、守備兵を置いて帰った。
  • 秋、郭敬は江西方面を南下して掠奪したが、陶侃は子の陶斌と桓宣に命じてその隙を突かせ、樊城を攻めて守兵をことごとく捕えた。
  • 郭敬が引き返して救援すると、桓宣は涅水でこれを破り、奪われていた人や物資を取り戻した。
  • さらに陶臻と竟陵太守李陽が新野を落とし、郭敬は恐れて退却した。桓宣はそのまま襄陽を奪回し、陶侃は彼に襄陽の鎮守を任せた。
  • 桓宣は新たに帰服した民をよくいたわり、刑罰を簡略にし、威圧を控え、農桑を奨励した。自ら農具を車に載せて民とともに耕作・収穫にあたり、十余年にわたり襄陽を守って、後趙の再度の攻撃にも耐えたため、当時の人は祖逖・周訪に次ぐ人物と評価した。

石虎排除をめぐる議論

  • 後趙の右僕射程遐は石勒に対し、中山王石虎は勇猛で権略に富み、群臣の中に並ぶ者がなく、その志は主君以外を軽んじ、しかも残忍であると進言した。
  • 石虎は長年将帥として内外に威名を振るい、その子らも兵権を握っているため、石勒の存命中はともかく、幼主の臣にはなるまいとして、早く除くべきだと主張した。
  • 石勒は、天下がまだ安定しない以上、幼い太子には強力な補佐が必要であり、石虎は近親であり建国の功臣でもあるから、伊尹・霍光のような重任を委ねるべきだと退けた。
  • 程遐は、これは国家のための憂慮であって私情ではないと泣いて諫め、石虎は皇太后に養われたとはいえ石勒の実子ではなく、功に対する恩賞も十分で、なお飽くことがないのは皇位への野心によるものだと述べ、除かなければ宗廟は絶えるとまで言った。
  • しかし石勒は聞き入れなかった。程遐は徐光に危機を語り、両人とも石虎に強く恨まれているので、国家のみならず自分たちの家にも禍が及ぶだろうと恐れた。

徐光の進言と石虎の権勢抑制

  • 別の日、徐光は石勒の機嫌が優れないのを見て理由を問うた。石勒は、呉と蜀がまだ平定されていないので、自分が天命を受けた王と後世に認められないのではと心配していると語った。
  • 徐光は、魏が漢を継いだ時に蜀の劉備がいても魏が正統であったように、孫権は今の李氏にすぎず、長安・洛陽の二都と八州をおさめる石勒こそ帝王の統を受ける者だと説いた。
  • そのうえで、外敵よりもまず腹心の病、すなわち石虎を憂うべきだと述べた。石虎は石勒の威勢によって連戦連勝しているが、世人はその英武を石勒に次ぐと評し、しかも本性は不仁で利に走り、父子ともに権勢を握って王室を圧しているうえ、東宮の宴では皇太子を軽んじる様子すら見せたと警告した。
  • 石勒は黙然とし、これ以後、太子に尚書の奏事を裁可させ、中常侍厳震を加えてその可否を参照させた。征伐や処断のような大事のみ自分に上奏させたため、厳震の権力は宰相をしのぐほどになった。
  • こうして石虎の門は人影が絶えるほどとなり、石虎はますます不満を募らせた。

成漢の寧州侵攻

  • 成の大将軍李寿は寧州を侵し、征東将軍費黒を前鋒として広漢から、鎮南将軍任回を越嶲から出し、寧州側の兵力を分散させた。
  • 冬十月、費黒は朱提に進み、朱提太守董炳が城に拠って守った。寧州刺史尹奉は建寧太守霍彪を援軍として送った。
  • 李寿は霍彪を迎え撃とうとしたが、費黒は城内の食糧が少ないから、むしろ援軍を入城させて食糧を消費させるべきだと述べ、李寿もこれに従った。
  • 城は長く落ちず、李寿は急攻を望んだが、費黒は南中は険阻で服しにくいので、時日をかけて知勇ともに尽きたところを取るべきであり、いま慌てる必要はないと意見した。李寿はこれを用いず攻めたが不利に終わり、結局、軍事の全権を費黒に委ねた。

晋の新宮移転と張駿の王号問題

  • 十一月壬子朔、朝廷は陶侃を大将軍に進め、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名の特権を与えようとしたが、陶侃は固辞して受けなかった。
  • 十二月庚戌、皇帝は新宮へ移った。これは数年前から造営していた宮殿の完成によるものである。
  • この年、涼州では部下たちが張駿に涼王を称し、秦州・涼州二州牧を兼ね、公卿百官を置くよう勧めたが、張駿はそれは人臣の言うべきことではないとして拒絶し、そのような発言は赦さないとした。
  • ただし国内では皆が彼を王と呼び、張駿は次子の張重華を世子に立てた。