資治通鑑晉紀十二 中宗元皇帝上 建武元年 317年
正月 長安陥落後の余波と涼州の対応
- 漢の軍が東へ進んで弘農を侵し、弘農太守宋哲は江東へ逃れた。
- 黄門郎史淑・侍御史王冲は長安を脱出して涼州へ赴き、愍帝が降伏する前日に張寔へ詔を与え、涼州牧・司空として非常時の職権を行うよう命じ、あわせて琅邪王が暫定的に大位を摂ることを助けよと伝えた。
- 張寔はこれを受けて三日間喪に服したが、与えられた官は辞退した。
- そのころ、張寔の叔父張粛は西海太守として長安救援の先鋒を願い出ていたが、老齢を理由に許されず、のちに長安陥落を聞いて憤死した。
- 張寔は太府司馬韓璞・撫戎将軍張閬らに歩騎一万を与えて東征させ、討虜将軍陳安・安故太守賈騫・隴西太守呉紹らにも郡兵を率いさせて先鋒とした。
- 張寔は相国司馬保に書を送り、王室の急に身命を賭して応じる意思を示しつつ、以前は司馬保の命令で賈騫を引き返させたが、長安の危急が迫ったため再び進軍させたと説明した。
- しかし韓璞らは進軍の途中で朝廷滅亡を知り、南安まで来たところで羌族に道を断たれた。百日余り対峙し、食糧も矢も尽きたため、韓璞は牛を殺して兵を励まし、決死戦を挑んだ。
- そこへ張閬が金城の兵を率いて到着し、挟撃して羌を大破した。関中・隴右では漢軍と氐羌の侵略で住民の多くが死んだが、涼州だけは比較的安全を保った。
二月 李矩、劉暢を破る
- 漢主劉聡は従弟の劉暢に歩騎三万を与え、滎陽太守李矩の拠る韓王故塁を攻めさせた。
- 劉暢は急襲したため李矩は備えが間に合わず、いったん降伏を装って相手を油断させた。
- 劉暢が大宴会を開き、渠帥たちまで酔ったところで、李矩は夜襲を計画したが兵は恐れた。
- そこで郭誦に子産の祠で祈らせ、神兵が助けると巫に語らせると、兵は奮い立った。
- 李矩は勇士千人を選んで郭誦に率いさせ、劉暢の営を奇襲し、数千を斬った。劉暢は辛うじて逃げた。
三月 琅邪王、晋王となる
- 辛巳、宋哲が建康に至り、愍帝の詔を奉じて、丞相琅邪王睿に万機の総摂を命じると伝えた。
- 三月、琅邪王は喪服で正殿を避け、三日間哀哭した。
- 西陽王羕ら群臣は尊号を勧めたが、王は固辞した。なおも強く求められると、自らを罪人と呼んで涙を流し、国へ帰ろうとまでした。
- そこで群臣は、まず魏晋の先例にならって「晋王」と称するよう願い出て、辛卯、王は晋王に即いた。
- 大赦して建武と改元し、百官・宗廟・社稷を整えた。
- 太子擁立では、王は次子の宣城公裒を愛していたが、王導が世子紹は年長で器量も劣らぬと述べたため、丙辰、世子紹を王太子とし、裒には琅邪王を継がせた。
- 裒は都督青・徐・兗三州諸軍事として広陵に鎮し、西陽王羕は太保とされた。
- 譙王には譙剛王司馬遜の子司馬氶を立てた。
- 王敦を大将軍・江州牧、王導を驃騎将軍・都督中外諸軍事・中書監・録尚書事とし、刁協・周顗・賀循・戴淵・王邃・劉隗・劉超・孔愉らを要職につけた。
- ただし王敦は江州牧を辞し、王導も中外都督を辞し、賀循も老病で中書令を辞したので、いずれも一部が許された。
- 江東政権は草創の時期であり、刁協は中朝の旧事に明るく、賀循は礼学の宗匠として、制度上の疑問は多く彼らに諮られた。
三月 北方諸勢力の推戴
- 劉琨と段匹磾は血盟を結び、晋室を支えることを誓った。
- 辛丑、劉琨は華夷に檄を飛ばし、兼左長史・右司馬温嶠を、段匹磾は左長史栄邵を建康に送り、上表と盟文を奉って即位を勧めた。
- 温嶠は劉琨の一族姻戚で、劉琨は彼に、河北で自分が功を立てる間に江南で名望を広めよと励ました。
慕容廆の動き
- 晋王は鮮卑大都督慕容廆に都督遼左雑夷流民諸軍事・龍驤将軍・大単于・昌黎公を授けたが、慕容廆は受けなかった。
- 魯昌・高詡らは、今は晋室が衰えても人心はなおこれに帰しているので、江東に使者を送り、大義名分を借りて諸部を服させるべきだと説いた。
- 慕容廆はこれに従い、長史王済を海路で建康へ送り、即位を勧めた。
漢における太弟劉乂失脚
- 漢の相国劉粲は、自派の王平に命じて太弟劉乂へ偽の中詔を伝え、京師に変があるから甲を衣中に着て備えよと言わせた。
- 劉乂はそれを信じ、東宮の官属にも衷甲させた。
- 劉粲はこれを靳準・王沈に知らせ、二人は劉聡に、太弟が反乱を企て甲冑を着けていると讒言した。
- 劉聡は驚き、劉粲に兵で東宮を囲ませ、靳準・王沈に氐羌の酋長たちを捕えさせて拷問した。彼らは責め苦の末、劉乂と謀反したと自白させられた。
- 劉聡はこれを信じて、東宮官属や劉乂に親しかった者、靳準・王沈らが憎んでいた大臣数十人を誅殺し、東宮の兵一万五千余を坑殺した。
- 夏四月、劉乂は北部王に落とされ、ほどなく靳準に殺された。
- 劉乂は姿や気質に優れ、寛仁で器量があったため人望が厚く、劉聡はその死を聞いて深く悲しみ、兄弟二人だけになったのに相容れなかったと嘆いた。
- その後、氐羌の叛乱が多発し、靳準が車騎大将軍の代行としてこれを平定した。
五月 日食
六月 温嶠来朝、各地の勧進、祖逖の譙攻略
- 丙寅、温嶠らが建康に到着し、王導・周顗・庾亮らはその才を愛して交わりを争った。
- このころ、太尉・豫州牧荀組、冀州刺史邵続、青州刺史曹嶷、寧州刺史王遜、東夷校尉崔毖らも相次いで上表し、即位を勧めた。
- かつて流民の張平・樊雅は譙にそれぞれ数千人を集めて塢主となっていたが、丞相時代の琅邪王が桓宣を派遣して説得し、一度は帰服していた。
- 祖逖が蘆洲に駐屯した後、参軍殷乂を張平らのもとへ送ると、殷乂は相手を軽んじた言動を重ね、大釜まで壊して兵器にすべきだと言ったため、張平は怒ってその場で殷乂を斬り、守りを固めた。
- 祖逖は一年余り攻めても落とせず、張平の部将謝浮を誘って主君を殺させた。
- 祖逖が太丘へ進むと、なお譙城に拠る樊雅と対峙した。祖逖は王含に援兵を求め、王含は参軍桓宣に兵五百を与えて派遣した。
- 祖逖は桓宣に、以前から信義を示しているから樊雅を説得してほしいと言い、桓宣は単騎で赴いて、殷乂の軽率は祖逖の本意ではなく、今は劉曜・石勒を討つためにあなたの助けが必要だと説いた。
- 樊雅はそのまま祖逖に降り、祖逖は譙城へ入った。
- 石勒が石虎を遣わして譙を囲むと、王含は再び桓宣を救援に派遣し、石虎は解囲した。祖逖は桓宣を譙国内史に推挙した。
- 己巳、晋王は天下に檄し、石虎が黄河を渡って暴虐を行っているので、琅邪王裒ら九軍三万を水陸四道から進め、祖逖の節度を受けさせると宣言したが、まもなく裒を建康へ呼び戻した。
秋七月 天災と北方連携の頓挫
- 大旱が起こり、司・冀・并・青・雍州に大蝗害が発生し、河・汾の増水で千余家が流された。
- 漢の劉聡は晋王劉粲を皇太子とし、相国・大単于として従前どおり朝政を総攬させた。
- 段匹磾は劉琨を大都督に推し、兄の遼西公疾陸眷、叔父渉復辰、弟末柸らを固安に集めて石勒討伐を図った。
- しかし末柸は、父兄の世代が子弟に従うのは恥だし、もし功があっても段匹磾だけが利益を取ると説いて離反させ、各軍は撤退した。
- 劉琨・段匹磾も単独では動けず薊へ還った。
- 晋では荀組を司徒とした。
八月 各地の戦乱
- 漢の趙固が臨潁で衛将軍華薈を襲い、これを殺した。
- もとより趙固は長史周振と不和で、周振がひそかに劉聡へ讒言していた。李矩が劉暢を破った際、その営中から、勝利後に洛陽で趙固を誅して周振を代わりに据えよという劉聡の詔を得て、趙固に見せた。
- 趙固は周振父子を斬り、騎兵千を率いて李矩に降った。李矩はふたたび趙固に洛陽を守らせた。
- 一方、鄭攀らは王廙に抵抗していたが、内部不統一で横桑口へ退き、杜曾のもとへ入ろうとした。
- 王敦は武昌太守趙誘・襄陽太守朱軌を派遣して鄭攀らを撃たせた。鄭攀らは恐れて降伏を願い、杜曾も第五猗を襄陽で討って罪を償いたいと願い出た。
- 王廙が荊州へ向かうにあたり、揚口塁には長史劉浚を残した。竟陵内史朱伺は、杜曾は狡猾であり、いったん降るふりをして官軍を西へ誘い出し、帰路に揚口を襲うはずだから、大規模な備えを解くべきでないと諫めた。
- しかし王廙はこれを老怯とみなし、西へ進んだ。杜曾らは果たして引き返して揚口を急襲した。
- 朱伺はあわてて帰還し、南門を守った。北門は陥ち、朱伺は傷を負いながら舟の底を抜いて潜水し、ようやく脱出した。
- 杜曾は馬雋の妻子を朱伺が殺さなかった恩を持ち出して投降を勧めたが、朱伺は老齢を理由に賊にはならぬと言い、王廙のもとへ向かったが、傷病で甑山にて死んだ。
- 戊寅、趙誘・朱軌・陵江将軍黄峻は女観湖で杜曾と戦って敗死し、杜曾は勢いに乗って沔口に進み、江沔を震わせた。
- 王は豫章太守周訪にこれを討たせた。周訪は八千を率いて沌陽へ進み、左甄を李恒、右甄を許朝、中軍を自ら率いた。
- 杜曾は左右両翼をまず攻め、両翼は苦戦したが、周訪は陣後で雉を射て平然を装い、兵を落ち着かせた。
- 両翼が敗れたのを見て、周訪は精鋭八百に酒を飲ませ、鼓の合図まで動くなと命じたうえで、自ら鼓を鳴らして突撃させた。
- 杜曾軍は大潰走し、周訪は夜のうちに追撃して武当にまで追い詰め、漢沔地方を平定した。
- 王廙はようやく荊州に到着し、周訪はこの功で梁州刺史となり、襄陽に屯した。
冬十月 琅邪王裒の死
十一月 日食と太学の創設
- 己酉朔、日食があった。
- 丁卯、劉琨を侍中・太尉とした。
- 征南軍司戴邈は、戦乱以来学校が廃れたが、乱世だから武だけでよいというのは誤りであり、儒学は平時になってから急に興せるものではない、貴族子弟にも皆が武功を立てる才があるわけではなく、若年をすべて軍役に費やすのは惜しいとして、王業草創の今こそ崇儒を進めるべきだと上疏した。
- 王はこれを受け、太学を創設した。
十二月 愍帝の辱めと殺害
- 漢主劉聡は狩猟に出る際、愍帝に車騎将軍の服を着せ、戎装で戟を執って先導させた。人々はこれを見て、あれがかつての長安の天子だと言い、老人の中には涙する者もいた。
- 太子劉粲は、周の武王が紂を誅したのも後患を断つためであったとして、愍帝を早く除くべきだと進言した。
- 劉聡は、以前に庾珉らを殺しても民心は変わらなかった、自分にはまだ殺せぬとして、しばらく様子を見ると答えた。
- 十二月、劉聡は群臣を光極殿に宴し、愍帝に酒を注がせ、盃を洗わせ、さらに更衣の後には傘を持たせた。晋の旧臣たちは夜ごと泣き、声をあげる者まで出た。
- 尚書郎辛賓は堪えきれず、愍帝に抱きついて大哭したため、劉聡は引き出して斬らせた。
- 趙固と河内太守郭黙は河東に侵攻して絳に至り、漢の右司隷配下の住民三万余が彼らに帰した。
- 漢の騎兵将軍劉勲が追撃し、一万余を殺して趙固・郭黙を退かせた。
- 太子劉粲は劉雅生ら十万を率いて小平津に屯し、趙固は劉粲を生け捕りにして天子と引き換えると言い広めた。
- 劉粲は、愍帝が死ねば人々は希望を失い、李矩・趙固の拠り所もなくなると上表した。
- 戊戌、愍帝は平陽で殺害された。年十八。
- 劉粲は劉雅生に洛陽を攻めさせ、趙固は陽城山へ逃れた。
この年の施政と周辺諸族
- この年、晋政権は農業督励を命じ、二千石・長吏の成績を納穀高で評価し、諸軍にも自ら屯田させ、その収穫を軍糧とした。
- 氐王楊茂搜が死に、長子楊難敵が立った。弟の楊堅頭と部衆を分け、難敵は左賢王として下辨に、堅頭は右賢王として河池に屯した。
- 河南王吐谷渾も死去した。彼は慕容廆の庶兄で、父慕容渉帰から別に一千七百戸を分け与えられていた。
- 慕容廆が継いだ後、両部の馬が争ったのをきっかけに、吐谷渾は、いま別れれば将来はともに大きくなれるという天意だとして、西へ大移動した。
- 彼は陰山に沿い、永嘉の乱の頃には隴を越えて洮水以西から白蘭に及ぶ広大な地を占めた。
- 鮮卑では兄を「阿于」と呼ぶため、慕容廆は兄を思って「阿于の歌」を作った。
- 吐谷渾には六十子がおり、長子吐延が継いだ。勇武に優れ、羌胡はこれを畏れた。