資治通鑑晉紀十一 孝愍皇帝下 建興 四年 316年

正月 呉王司馬晏の追尊議

  • 正月、司徒梁芬は呉王司馬晏を追尊しようと議した。
  • これに対し、右僕射索綝らは魏明帝の先例を引いて不当とし、結局は太保を贈り、諡を「孝」とするにとどめた。

漢宮廷、宦官と外戚が権勢を振るう

  • 漢では中常侍王沈・宣懐、中宮僕射郭猗らが寵幸を受けて政務を左右していた。
  • 劉聡は後宮で遊宴にふけり、数日酔いから覚めないことも、百日出てこないこともあり、前冬以来、政務をほぼ相国劉粲に委ねていた。
  • ただし人事や生殺与奪だけは王沈らに取り次がせたが、彼らはしばしば奏上せず自分たちの私意で処断した。
  • そのため旧功臣が用いられず、小人たちは数日で二千石にまで出世した。将兵には賞が乏しい一方、後宮の家には僕婢に至るまで莫大な賜与が及んだ。
  • 王沈らの一族・縁者で守令となった者は三十余人に上り、いずれも貪残で民を害した。
  • 靳準は一族を挙げて彼らにへつらい、郭猗とともに太弟劉乂に怨みを抱いていた。

郭猗・靳準、劉粲を煽る

  • 郭猗は相国劉粲に、天下の人心は嫡子である殿下に帰しているのに、なぜ太弟へ天下を渡そうとするのかと説いた。
  • さらに、太弟劉乂が大将軍・衛大将軍らと結んで三月上巳の宴を機に反乱を起こし、劉聡を太上皇に、大将軍を皇太子に、衛軍を大単于にする計画だという讒言をした。
  • 事成後には、東宮も相国も単于位も劉乂の子らが独占し、劉粲には居場所がないと脅し、早く手を打つべきだと勧めた。
  • 劉粲はこれを信じ、王皮・劉惇を呼んで事情を問うた。郭猗は先回りして二人を脅し、口裏を合わせさせたため、二人の証言は同じ内容となり、劉粲はいよいよ本当だと思った。
  • 靳準もまた、東宮の監禁を緩めて出入りを自由にし、太弟に近づく軽薄な人物が迎合して謀議を進めるよう仕向け、そのあと賓客を取り調べれば罪状は固まると進言した。
  • 劉粲は卜抽に命じて東宮の監視を緩めさせた。

忠臣七人の誅殺

  • 少府陳休と左衛将軍卜崇は清廉で、王沈らと同席しても話を交わさぬほどだったため、深く憎まれていた。
  • 侍中卜幹は、王沈らの権勢は天地をも動かすほどであり、竇武・陳蕃ほどの親賢ですら宦官に敗れたのに、と陳休らへ慎重を促した。
  • しかし陳休・卜崇は、五十を過ぎて高位にあり、忠義のために死ぬなら本望で、宦官に頭を下げることはできないと答えた。
  • 二月、劉聡は上秋閤に出て、陳休・卜崇・綦毋達・公師彧・王琰・田歆・朱諧を逮捕して誅殺した。いずれも宦官に憎まれていた者たちである。
  • 卜幹は血を流して諫めたが、王沈に叱られ、劉聡は卜幹を庶人に落とした。
  • 太宰河間王劉易、大将軍勃海王劉敷、御史大夫陳元達、西河王劉延らはこぞって上表し、王沈らが詔をねつ造し、相国とも結んで威権を振るい、忠臣を罪に陥れたのだと訴えた。
  • 彼らは、晋も滅んでおらず、巴蜀も服さず、石勒や曹嶷も危険なのに、王沈らを放任して忠臣を殺せば国家は病膏肓に至ると諫めた。
  • しかし劉聡はこれを王沈らに見せて笑い、王沈らは泣いて自らを煮殺してくれてもよいと芝居がかった忠誠を示した。劉聡はかえって彼らを列侯に封じた。
  • 劉易はさらに上疏して極諫したが、劉聡は怒って手ずからその上疏を破り捨てた。
  • 三月、劉易は憤死した。陳元達は支えを失って慟哭し、自分ももはや諫言できないとして帰宅後に自殺した。

代国で内乱、劉琨が旧衆を得る

  • 代王拓跋猗盧は少子比延を愛して後継に立てようとし、長子六修を新平城に追い出してその母を廃した。
  • 六修の名馬を奪って比延に与え、また来朝した六修に比延へ拝礼させようとしたが、六修は従わなかった。
  • さらに猗盧は比延を自分の歩輦に乗せて遊ばせたため、六修はこれを父と思って伏拝したあと、比延だと知って恥辱と怒りに駆られて去った。
  • 猗盧は六修を討ったが敗れ、変装して逃げたものの、庶民の女に見破られ、六修に殺された。
  • 外境を守っていた拓跋普根が難を聞いて帰還し、六修を討って滅ぼし、代立した。
  • だが国中は新旧の猜疑で大乱となり、互いに殺し合った。
  • 左将軍衛雄、信義将軍箕澹は久しく猗盧を補佐していたため衆望があり、旧人が新人を皆殺しにしようとしていると触れ回った。晋人・烏桓は恐れて二人に従い、劉琨への質子だった劉遵とともに三万家、馬牛羊十万頭を率いて劉琨に帰した。
  • 劉琨は大いに喜び、自ら平城へ出て受け入れたため、その兵力は再び盛り返した。
  • 夏四月、普根が死ぬと、生まれたばかりの子を母の惟氏が立てた。

張寔の諫言奨励

  • 張寔は、治政上の過失を指摘できる吏民には布帛・羊・米を与えると布告した。
  • これに対し、賊曹佐の高昌出身隗瑾は、張寔が政事を大小問わず自分一人で決めており、府朝も知らないまま命令が出るので、もし誤りがあれば責任の分担がなく、部下は威を恐れて成案を受けるだけで、賞を出されても本心は言えないと指摘した。
  • 政事は広く群下に諮り、それぞれの意見を尽くさせたうえで採用すべきで、そうすれば良言は自ずと集まると説いた。
  • 張寔はこれを喜んで従い、隗瑾の位を三等進めた。

張寔、長安救援を試みる

  • 張寔は将軍王該に歩騎五千を与えて長安救援に向かわせ、あわせて各郡の貢物・計帳を送らせた。
  • 朝廷は張寔を都督陜西諸軍事とし、その弟張茂を秦州刺史とした。

石勒の東方経略と寧州の離反

  • 石勒は石虎に命じて廩丘の劉演を攻めさせた。幽州刺史段匹磾は弟文鴦を救援に出したが、石虎は廩丘を抜き、劉演は文鴦の軍へ逃れた。石虎は劉演の弟劉啓を捕らえて帰った。
  • 寧州刺史王遜は酷烈で殺戮を好んだため、五月、平夷太守雷炤・平楽太守董霸が三千余家を率いて成に降った。

日食と関中救援の失敗

  • 六月丁巳朔、日食があった。
  • 秋七月、漢の大司馬劉曜が北地太守麴昌を包囲した。大都督麴允は歩騎三万で救援したが、劉曜は城をめぐって火を放ち、煙で天を覆わせたうえ、反間を用いて城はすでに落ちたと麴允に偽報した。
  • 兵は恐れて潰走し、劉曜は磻石谷で麴允を追い破って北地を奪った。
  • 麴允は仁厚だが威断に乏しく、官爵を乱発して人心をつなぎ止めようとした。郡太守や塢壁の首長にまで節や侍中・常侍・銀青将軍号を濫授したが、恩は下々まで及ばず、将たちは驕り、士卒は離反していた。
  • 麴允は焦嵩に救援を求めたが、焦嵩はふだんから允を侮っており、もっと困ってから助ければよいと言った。
  • 劉曜は涇陽へ進み、渭北の諸城はことごとく潰えた。
  • 劉曜は、建威将軍魯充・散騎常侍梁緯・少府皇甫陽を捕らえた。魯充の賢名を聞いていた劉曜は、生け捕りを命じて酒を与えたが、魯充は晋の将として敗国に遭い、生きることは望まぬと述べた。劉曜は義士として自裁を許した。
  • 梁緯の妻辛氏は美しかったため、劉曜は自分の妻にしようとしたが、辛氏は夫の死後に二夫に仕えることはできないとして号泣し、自殺を願った。劉曜は貞女と認め、これも許し、二人を礼をもって葬った。

漢後宮の乱れ、石勒の勢力拡大

  • 劉聡は、もと張后の侍婢だった樊氏を上皇后に立て、すでにある三后のほかにも、皇后の璽綬を帯びる者が七人に及んだ。
  • 寵姫と近臣が政務に介入し、刑賞は混乱した。
  • 大将軍劉敷は何度も涙ながらに強く諫めたが、劉聡は、父の早死にを願っているのかと怒鳴った。劉敷は憂憤から病んで死んだ。
  • 河東・平陽では大蝗害が起こり、民の餓死と流亡が半数を超えるほどだった。
  • 石勒は将の石越に騎兵二万を与えて并州に駐屯させ、流民を招いた。帰附した者は二十万戸にのぼった。
  • 劉聡は石勒を責めたが、石勒は命を奉じなかった。さらにひそかに曹嶷と結んだ。

秋 長安包囲、救援軍動かず

  • 八月、劉曜が長安に迫った。
  • 九月、劉聡は群臣を光極殿に集め、太弟劉乂を引見した。劉乂はやつれ果て、鬢髪も白く、涙を流して謝した。劉聡もまた泣き、酒宴を極めて旧どおりに扱った。
  • 焦嵩・竺恢・宋哲らは長安救援に向かったが、漢軍を恐れて進まず、華輯も四郡兵を率いて霸上に屯したまま動かなかった。
  • 相国司馬保は胡崧に兵を与えて入援させ、胡崧は霊台で劉曜を破った。
  • しかし胡崧は、国威が回復すれば麴允・索綝の勢いが増すことを嫌い、城西諸郡の兵を率いて渭北に屯して進まず、そのまま槐里へ引き返した。
  • 劉曜は長安外城を陥れ、麴允・索綝は小城に退いて籠城した。内外は断たれ、城中は飢え、米一斗が金二両となり、人が人を食うほどで、死者は半ばを超えた。逃亡を止めることもできず、ただ涼州から来た義兵千人だけが死守して動かなかった。
  • 太倉にあった麴の塊数十枚を麴允が砕いて粥にし、皇帝に供したが、やがてそれも尽きた。

十一月 長安陥落と愍帝の降伏

  • 冬十一月、皇帝は涙ながらに麴允へ、外に救援もなく、このままでは士民を皆死なせるだけだから、恥を忍んで降伏し人々を生かしたいと言った。そして自分を誤らせたのは麴允と索綝の二人だと嘆いた。
  • 侍中宗敞を劉曜のもとへ降表の使者に立てたが、索綝は密かに宗敞を留め、自分の子に、もし儀同三司と万戸郡公を許してくれるなら城を明け渡すと劉曜へ伝えさせた。
  • 劉曜はこの使者を斬って送り返し、自分は義によって兵を進めるのであって詭計で人を敗ることはしない、索綝のような言動は天下の悪であると非難した。そして、もし本当に兵糧が尽きていないなら守り、そうでないなら天命を悟って早く決断せよと告げた。
  • 甲午、宗敞が劉曜の陣営に着き、乙未、皇帝は羊車に乗り、上半身をあらわにして璧をくわえ、棺を載せて東門から出て降った。
  • 群臣は号泣して車に取りすがり、皇帝の手を握った。皇帝もまた悲しみに耐えなかった。
  • 御史中丞吉朗は、自分は策もなく、死ぬ勇もなく、しかも君臣そろって北面して賊虜に仕えるのは忍びないと嘆き、自殺した。
  • 劉曜は棺を焼き、璧を受け取ると、宗敞に皇帝を宮へ戻らせた。丁酉、皇帝と公卿以下は劉曜の営へ移され、辛丑に平陽へ送られた。
  • 壬寅、劉聡は光極殿に臨み、皇帝に面前で稽首させた。麴允は地に伏して慟哭し、扶けなければ起き上がれなかった。劉聡は怒って彼を獄に下し、麴允は自殺した。
  • 劉聡は皇帝を光禄大夫・懐安侯とし、劉曜を仮黄鉞・大都督・督陜西諸軍事・太宰・秦王に進めた。
  • 大赦して麟嘉と改元した。
  • 麴允には忠烈ありとして車騎将軍を追贈し、節愍侯と諡した。索綝は不忠として平陽の都市で斬られた。
  • 尚書梁允・侍中梁濬らや諸郡守も、劉曜に殺された。
  • 干宝はここで、西晋は創業の根基が浅く、八王の乱で皇族は支えを失い、朝廷には伊周のような大臣もなく、風俗は虚無放蕩に傾き、礼法・選挙・官僚制の全てが崩れたため、ついに戎狄に中原を奪われ二帝が辱めを受けたのだと総括している。

年末 石勒、劉琨を破る

  • 石勒は楽平太守韓拠を沾城に囲んだ。韓拠は劉琨に救援を求めた。
  • 劉琨は新たに得た拓跋部の衆の鋭気を頼みに討伐を決めたが、箕澹・衛雄は、彼らは長く異域にあって劉琨の恩信に未だ馴れておらず、まず鮮卑の余糧や胡賊の牛羊を集めて守りを固め、農業を休ませず、人心がなじんでから用兵すべきだと諫めた。
  • 劉琨は聞き入れず、全軍を発して箕澹に歩騎二万を率いさせ前駆とし、自らは広牧に屯して後援した。
  • 石勒は、箕澹軍は多くても遠来で疲弊し、号令も整わぬと見て、退却策を退けた。孔萇を前鋒にして、山上に疑兵と伏兵を置き、軽騎を出して偽敗させた。
  • 箕澹は追撃して伏中に入り、石勒軍の前後挟撃を受けて大敗し、鎧馬は万単位で失われた。衛雄・箕澹は騎兵千余で代郡へ逃れた。
  • 韓拠は城を棄てて走り、并州全土が震えた。
  • 十二月乙卯朔、日食があった。
  • 司空長史李弘が并州をもって石勒に降った。劉琨は進退に窮し、どうしてよいか分からなくなった。
  • 段匹磾が使者を送り招いたため、己未、劉琨は飛狐道から薊へ逃れた。段匹磾は彼を手厚く遇し、婚姻を結んで兄弟の約を結んだ。
  • 石勒は陽曲・楽平の民を襄国に移し、守宰を置いて帰還した。
  • 孔萇は代郡の箕澹を攻めて殺した。
  • さらに馬厳・馮䐗の賊勢は久しく討ち平らげられず、司・冀・并・兗の流民数万戸が遼西にいて互いに誘い合って安住しなかった。
  • 石勒が張賓に策を問うと、張賓は、馬厳・馮䐗は深い仇ではなく、流民も本土への思いが強いから、軍を返して善良な牧守を置き、招撫すれば幽冀の賊は日ならずして平まり、遼西流民も続々と帰ってくると答えた。
  • 石勒は孔萇らを呼び戻し、武遂令李回を易北督護兼高陽太守に任じた。馬厳配下は李回の威徳に服して多く寝返り、馬厳は水に身を投げ、馮䐗は衆を率いて降った。
  • 李回は易京へ移り、流民が道をつないで帰附した。石勒は喜んで李回を弋陽子に封じ、張賓の食邑を千戸増やし、前将軍に進めようとしたが、張賓は固辞した。

江東での北伐準備と劉隗への怨み

  • 丞相司馬睿は長安陥落を聞くと、野営して自ら甲冑をまとい、四方に檄を飛ばして期日を定め北征を宣言した。
  • ただし漕運の遅滞を理由に督運令史淳于伯を斬ったところ、刑場で刀に付いた血が柱を逆流する異変があり、人々は冤罪だと思った。
  • 丞相司直劉隗は、淳于伯の罪は死に値しないとして、周莚らの免官を求めた。すると王導らは自らの責任を認めて辞職を願ったが、司馬睿は、政刑の失中は自分の暗愚ゆえだとして誰も罪に問わなかった。
  • 劉隗は剛直で名士をしばしば弾劾したが、司馬睿は多くを容赦したため、人々の怨みは劉隗に集まった。
  • 南中郎将王含は一族の勢力を恃んで驕慢で、自分の求める参佐や守長を二十人以上も推挙したが、多くは不適任だった。劉隗はこれを厳しく弾劾した。
  • この件は結局止められたものの、王氏一門は劉隗を深く憎むようになった。

年末の任命

  • 丞相司馬睿は邵続を冀州刺史に任じた。
  • 邵続の女婿である広平の劉遐は河・済のあいだに兵を集めており、司馬睿はこれを平原内史とした。
  • 拓跋普根の子が死ぬと、国人はその従父鬱律を立てた。