資治通鑑晉紀十二 中宗元皇帝上 大興元年 318年
春正月 段部の内紛
- 遼西公疾陸眷が死に、その子が幼かったため、叔父の渉復辰が自立した。
- 段匹磾は薊から弔問に向かったが、段末柸は、匹磾が来るのは簒奪のためだと触れ回った。
- 匹磾が右北平に着くと、渉復辰は兵を出してこれを拒んだ。
- その隙に段末柸が渉復辰を襲って殺し、その子弟・党与もあわせて滅ぼして、自ら単于と称した。
- さらに匹磾を迎え撃って破り、匹磾は薊へ逃げ帰った。
三月 愍帝の訃報と元帝即位
- 癸丑、愍帝の凶問が建康に届いた。
- 王は斬衰の礼で倚廬にこもり、百官は尊号を上るよう請うたが、王は許さなかった。
- 紀瞻は、晋の統が絶えて二年、宗室を見渡しても大業を継げる者は陛下のほかにいない、今ここで譲るのは火を前にして礼譲するようなものだと強く諫めた。
- それでも王がためらうので、殿中将軍韓績に命じて御座を取り払わせようとしたが、紀瞻は、帝座は天上の星位に対応するものだとして叱責し、王も態度を改めた。
- 奉朝請周嵩は、梓宮が還らず旧京も回復されていない今、先に即位するのは義に欠けると上疏したが、王の意に逆らって新安太守へ左遷され、さらに罪に問われた。
- 丙辰、王はついに皇帝位に即いた。百官が進み出て座次を定め、帝は王導を御床に上げて共坐しようとしたが、王導は太陽が万物と並ぶことはないと言って固辞したため、帝はやめた。
- 大赦して大興と改元し、文武の位を二等進めた。
- 帝は勧進の刺を投じた吏には一等加位し、民間から勧進の刺を出した者にも官を与えようとし、二十余万人に及んだ。
- 散騎常侍熊遠は、漢の旧法にならって天下に広く爵を与える方が公平で、検覈の煩わしさや偽りも防げると述べたが、帝は従わなかった。
- 庚午、王太子紹を皇太子に立てた。
- 皇太子は仁孝で文辞を好み、武芸にも優れ、賢者を敬い諫言を容れる人で、庾亮・温嶠らと平生から交わりがあった。
- 庾亮は風采が整い老荘にも通じていたので、帝は重んじ、その妹を皇太子妃に迎えた。
- 帝は賀循を皇太子太傅、周顗を少傅、庾亮を中書郎兼東宮侍講とした。
- 帝は刑名家を好み韓非子を太子に与えたが、庾亮が刻薄で教化を害すると諫め、太子もこれを受け入れた。
慕容廆の政権整備
- 帝は改めて慕容廆に龍驤将軍・大単于・昌黎公を授けたが、慕容廆は公爵を辞した。
- 慕容廆は游邃を龍驤長史、劉翔を主簿とし、游邃に府朝の儀法を整えさせた。
- 裴嶷は、晋室は江表に偏安しているが中原救済の望みはなお慕容廆にあり、まず周辺の小部族を次第に併合して、西進の資本を整えるべきだと説いた。
- 慕容廆はこの言を喜び、裴嶷を長史として軍国の謀を委ね、以後弱小部族を漸次併呑した。
河南戦線 郭誦らの夜襲
- 李矩は郭黙・郭誦を派遣して趙固を救援し、洛汭に駐屯させた。
- 郭誦はひそかに耿稚らを夜のうちに黄河を渡らせ、漢軍の営を襲わせた。
- 漢の貝丘王劉翼がこれを察知して太子劉粲に備えを勧めたが、劉粲は趙固敗走の後で相手に余力はないとみて聞かなかった。
- まもなく耿稚らが十道から一斉に攻め、漢軍は大混乱となって死傷者が半ばを超え、劉粲は陽郷に逃げ込んだ。耿稚らはその営の器械・軍資を大量に獲得した。
- 夜が明けると、劉粲は敵兵の少ないのを見て劉雅生とともに残兵を集めて反撃し、劉聡も太尉范隆に騎兵を率いさせて援軍とした。
- 二十余日も激戦が続き、李矩も救援に進んだが、漢軍は河岸で阻んで渡河させなかった。
- 耿稚らは獲得した牛馬を殺し、軍資を焼き捨てて包囲を突破し、虎牢へ走った。
- 朝廷は李矩を都督河南・滎陽・弘農三郡諸軍事とした。
漢宮の火災
- 漢では百堂が焼け、劉聡の子である会稽王康ら二十一人が焼死した。
- 劉聡は済南王驥を大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事、斉王勱を大司徒に任じた。
司馬保・張寔・陳安らの動き
- 焦嵩・陳安が兵を挙げて上邽へ迫り、相国司馬保は張寔に急を告げた。
- 張寔は金城太守竇濤に歩騎二万を授けて救援に向かわせたが、新陽に着いたところで愍帝崩御を聞いた。
- 司馬保は自ら尊号を称えようとしたが、破羌都尉張詵が、南陽王は宗室でも遠く、君父の恥を雪がぬうちに帝号を望んでも成功しない、近親で名望ある晋王に天下を奉ずべきだと諫めた。
- 張寔はこれに従い、牙門蔡忠を建康へ派遣して奉表させたが、到着時にはすでに帝が即位していた。
- なお張寔は江東の年号を用いず、引き続き建興を称した。
夏四月 日食と王導の巡察
- 丁丑朔、日食があった。
- 王敦に江州牧を加え、王導を驃騎大将軍・開府儀同三司とした。
- 王導は八部従事を揚州の八郡へ巡行させ、帰京後、各従事が郡国長官の得失を報告した。
- ただし顧和だけは何も言わず、王導が理由を問うと、明公が政を執るのに大きな悪を見逃すほど寛大であればよく、風聞を集めて細事をあげつらう政治に何の意味があるのかと答えた。
- 王導はこれを深く賞賛した。
成漢の范長生死去
- 成漢の丞相范長生が死んだ。
- 成主李雄は、その子の侍中范賁を丞相にした。
- 范長生は博学多芸で、百歳近い長寿でもあり、蜀では神のように敬われていた。
漢の王后擁立をめぐる粛清
- 漢の中常侍王沈の養女に美貌の者があり、劉聡はこれを左皇后に立てようとした。
- 尚書令王鑑・中書監崔懿之・中書令曹恂は、王后は宗廟・后土に対する徳の象徴なのだから、名門で淑徳ある者を選ぶべきで、家婢を後宮の主とするのは国家の福ではないと諫めた。
- 劉聡は激怒し、王沈らを通じて三人を捕え、市で斬った。
- 王延が諫めに駆けつけようとしたが門で止められ、刑場で王沈を罵った。王鑑や崔懿之も、国を滅ぼすのはまさに王沈・靳準のような者だと痛罵した。
- 劉聡はさらに宣懐の養女も中皇后に立てた。
荀組の南渡と劉琨の死
- 司徒荀組は許昌で石勒に圧迫され、属僚数百人を率いて江南へ渡った。朝廷は荀組と太保西陽王羕に並んで録尚書事を行わせた。
- 段匹磾が疾陸眷の喪に赴いたとき、劉琨は世子劉羣に同行させていたが、匹磾敗北後、劉羣は段末柸に捕えられた。
- 段末柸は劉羣を厚遇し、劉琨を幽州刺史に推し、密かに書を送って内応を求めたが、その使者は段匹磾の巡邏騎に捕えられた。
- 劉琨は征北小城にいて事情を知らず、段匹磾に会うと、もし子の密書が届いていても、一子のために盟約と大義を負うことはないと語った。
- 段匹磾はもともと劉琨を重んじ、害意はなかったが、弟叔軍が、いま一族が分裂した以上、劉琨を奉じて挙兵されれば一族は終わると説いた。
- そこで段匹磾は劉琨を留め置いた。劉琨の庶長子劉遵は誅殺を恐れて左長史楊橋らと立てこもったが、段匹磾に攻め破られた。
- 代郡太守辟閭嵩、後将軍韓拠もひそかに段匹磾襲撃を図ったが露見し、党与ともども殺された。
- 五月癸丑、段匹磾は詔を称して劉琨を捕え、絞殺し、その子姪四人も殺した。
- 盧諶・崔悦らは残兵を率いて遼西へ逃れ、段末柸に依って劉羣を主とした。多くの将佐は石勒に走った。
- 朝廷はなお段匹磾の勢力を頼み、すぐには劉琨のために哀礼を行わなかった。
- 温嶠は、劉琨は帝室に忠尽したとして追贈を求め、盧諶・崔悦も段末柸の使者に託して冤を訴えた。数年後になってようやく太尉・侍中を贈り、愍の諡を与えた。
- 劉琨の死により、夷晋の人心は段匹磾から離れた。段末柸は弟を派遣して段匹磾を攻め、匹磾は数千を率いて邵続へ奔ろうとしたが、石勒の将石越が塩山でこれを大破し、匹磾は薊へ退いた。
- 段末柸は自ら幽州刺史を称した。
温嶠の服喪願いと曹嶷
- 温嶠はもと劉琨の命を奉じて建康へ来た際、母崔氏が強く引き止めたが、裾を断ち切って出発していた。
- 建康到着後もたびたび北帰を願ったが許されず、劉琨の死後は散騎侍郎に任じられた。
- やがて母の死を知ったが、戦乱で帰葬できず、葬儀の時にも官を辞して帰郷を願った。
- 詔は、いま逆賊はなお滅びず、梓宮奉迎の軍さえ進めないのに、一身の私情で王命に背いてはならぬと諭し、温嶠はやむなく受命した。
- 曹嶷は青州に拠ってから漢に背いて晋へ降ったが、建康は遠く援助も届きにくかったため、再び石勒と結び、石勒から東州大将軍・青州牧・琅邪公を授かった。
六月 刁協・劉隗の専任
- 甲申、刁協を尚書令、荀崧を左僕射とした。
- 刁協は剛直で人と衝突しやすく、侍中劉隗とともに帝の寵任を受けた。
- 二人は時弊を矯めようとして上を重く下を抑え、豪強を排したため、王氏一門から深く憎まれた。
- 細かな改革や厳格な政策はすべて劉隗・刁協の発案と見なされ、刁協自身も酒癖が悪く公卿を侵し辱めたので、人々は側目して恐れた。
七月 拓跋鬱律の拡張
- 戊戌、皇子晞を武陵王に封じた。
- 劉虎が朔方から拓跋鬱律の西部へ侵攻したが、秋七月、鬱律はこれを大破し、劉虎を塞外へ逐った。
- 劉虎の従弟路孤は部落を率いて鬱律に降った。
- これにより拓跋鬱律は西に烏孫旧地を取り、東方でも勢力を広げ、士馬精強で北方の雄となった。
秋七月~八月 劉聡死去、漢政権の崩壊へ
- 漢主劉聡は病に臥し、大司馬劉曜を丞相、石勒を大将軍として、ともに録尚書事とし、遺詔で補佐を命じた。
- 劉曜・石勒が固辞したため、劉曜を丞相・領雍州牧、石勒を大将軍・領幽冀二州牧としたが、石勒はなお受けなかった。
- さらに上洛王劉景を太宰、済南王劉驥を大司馬、昌国公劉顗を太師、朱紀を太傅、呼延宴を太保として、みな録尚書事に加え、范隆は尚書令を守り、靳準は大司空・領司隷校尉となって、交代で奏事を裁断させた。
- 癸亥、劉聡が死に、甲子、太子劉粲が即位した。
- 靳氏を皇太后とし、樊氏を弘道皇后、武氏を弘徳皇后、王氏を弘孝皇后と称し、自身の妻靳氏を皇后、子の元公を太子に立て、大赦して漢昌と改元した。
- 劉聡を宣光陵に葬り、昭武皇帝と諡し、廟号を烈宗とした。
- しかし靳太后らは皆まだ二十にも満たず、劉粲は礼を失して少しも哀しむ様子がなかった。
- 靳準はひそかに異志を抱き、諸公が伊尹・霍光のように自分と太保を先に誅し、大司馬に万機を統べさせようとしていると劉粲に吹き込み、先手を打つよう勧めた。劉粲は初め従わなかったが、二人の靳氏もこれを言ったため、ついに従った。
- 劉粲は太宰劉景・大司馬劉驥・呉王劉逞・太師劉顗・大司徒劉勱らを殺した。朱紀・范隆は長安へ逃れた。
八月 靳準の反乱
- 劉粲は上林で軍を閲し、石勒討伐を図った。劉曜を相国・都督中外諸軍事として長安に鎮させ、靳準を大将軍・録尚書事とした。
- しかし劉粲は常に後宮で遊宴し、軍国の大事はすべて靳準が決した。
- 靳準は偽詔で従弟の靳明を車騎将軍、靳康を衛将軍とした。
- 靳準は反乱を決め、王延に相談したが、王延は応じず、急いで劉粲に告げようとした。
- ところが靳康に途中で拘束され、靳準は兵を率いて光極殿に上り、甲士に劉粲を捕えさせ、その罪を数え上げて殺した。諡して隠帝という。
- 劉氏の男女を老幼なく東市で斬り、永光・宣光の二陵を暴き、劉聡の尸を斬って宗廟も焼いた。
- 靳準は自ら大将軍・漢天王を号し、百官を置き、安定出身の胡嵩に対し、古来胡人が天子となった例はないから、伝国璽を持って晋家へ返せと命じたが、胡嵩は恐れて受けず、靳準に殺された。
- 靳準は司州刺史李矩に使者を送り、劉淵は乱に乗じて偽りの天命を称し、二帝を幽殺したので、自分はその梓宮を奉じて晋へ返そうとしていると告げた。
- 李矩は急ぎ帝に表を送り、帝は太常韓胤らを遣わして梓宮を迎えさせた。
- 漢の尚書北宮純らは晋人を東宮に集めて堡を作ったが、靳康がこれを攻め滅ぼした。
- 靳準は王延を左光禄大夫にしようとしたが、王延は、相国劉曜の入るのを左目で、西から来る大将軍石勒の入るのを右目で見たいと罵り、靳準に殺された。
石勒・劉曜、靳準を挟撃
- 劉曜は長安から東へ急行し、石勒も精鋭五万を率いて靳準討伐に赴き、襄陵北原に拠った。
- 靳準はたびたび挑戦したが、石勒は堅壁してその鋭気をくじいた。
- 冬十月、劉曜は赤壁に至り、呼延晏・朱紀らが平陽から帰して尊号を上ったため、劉曜は皇帝位に即いた。
- 大赦したが、靳準一門だけは赦免の対象外とし、元光と改元した。
- 朱紀を司徒、呼延晏を司空とし、太尉范隆以下を旧位に戻した。
- 石勒を大司馬・大将軍とし、九錫を加え、十郡を増封して趙公に進めた。
- 石勒は平陽の靳準を攻め、巴・羌・羯の降人十余万落をその支配郡県へ移した。
- 劉曜は征北将軍劉雅・鎮北将軍劉策を汾陰に屯させ、石勒と共同で靳準を討たせた。
十一月 天変と朝政批判
- 乙卯、日夜にわたって高く上る異常な現象があったと記された。
- 王敦を荊州牧とし、陶侃に都督交州諸軍事を加えたが、王敦は州牧を固辞し、刺史にとどまることを許された。
- 庚申、帝は公卿以下に得失を直言させた。
- 御史中丞熊遠は、胡賊が中夏を乱して梓宮も戻らないのに討伐軍を出せないこと、官人が復讐未成を恥じず遊宴ばかりしていること、人材任用が家柄と請託に偏り、才能や実徳を見ず、正直な者が埋もれ軽薄な者が時流に乗ることなど、政治風俗の乱れを厳しく論じた。
- とくに州郡の秀才・孝廉について、乱世だからと試験をせずに一律に官を与える現行策は古義に反すると指摘した。
- 尚書陳頵も、旧制に戻して経策で試すべきだと上言し、帝はこれに従って、不合格者を出した刺史・太守も免官にする方針を定めた。
- その結果、秀孝に推挙されても受験を避ける者が相次ぎ、到着しても病と称して試験を受けず、三年ほどほとんど就試者がいなくなった。
- 帝はすでに到着していた孝廉だけでも特別に任官しようとしたが、尚書郎孔坦は、近郡の者は君父たる刺史・太守への累を恐れて来ず、遠郡の者は無試験任官の幸運を狙って来たのだから、到着者だけを任官すれば法を守る者が損をし、投機者が得をする、と反対した。
- そのため帝は一切を帰郷させ、受験期限を七年まで延ばすことにした。
十二月 靳準滅亡、皇子煥の死、平陽陥落
- 靳準は侍中卜泰に乗輿の服御を持たせ、石勒へ和睦を請わせた。石勒は卜泰を捕えて劉曜のもとへ送った。
- 劉曜は卜泰に、先帝末年に大倫を乱したのは事実であり、司空が伊霍の権を行って自分をここまで導いた功は大きい、もし早く大駕を迎えるなら政事を委ねてもよいほどだと伝えさせ、卜泰を平陽へ返した。
- しかし靳準は自分が劉曜の母兄を殺したことを思ってなお躊躇した。
- 十二月、左右車騎将軍喬泰・王騰、衛将軍靳康らが靳準を殺し、尚書令靳明を主として立て、卜泰を派遣して伝国六璽を持たせ、漢へ降った。
- 石勒は怒って進軍し、靳明を大破して城内へ追い込んだ。
- 丁丑、皇子煥を琅邪王に封じた。煥は鄭夫人の子で二歳、帝に寵愛されていたが病篤く、そのため急ぎ王に封じた。
- 己卯、煥は死去し、帝は成人と同じ礼で葬り、吉凶の儀服を整え、園陵造営にも大きな費用をかけた。
- 琅邪国右常侍孫霄は、古来凶荒の際には礼を減じるもので、今は天下乱離の時であり、まして夭折の子に成人の葬礼を尽くすのは典礼にない、疲弊した民と財を無益に費やすべきでないと諫めたが、帝は従わなかった。
- 彭城内史周撫は沛国内史周黙を殺して石勒に降った。朝廷は下邳内史劉遐に彭城内史を兼ねさせ、徐州刺史蔡豹・泰山太守徐龕とともに討たせた。
- 石虎は幽冀の兵を率いて石勒の平陽攻囲に合流した。
- 靳明はたびたび敗れ、漢に救援を求めた。劉曜は劉雅・劉策を出して迎えさせ、靳明は平陽の士女一万五千を率いて漢へ奔った。
- 劉曜は粟邑に屯し、靳氏の男女を老幼なく斬った。
- 劉曜は母胡氏の柩を平陽から迎えて粟邑に葬り、陽陵と号し、宣明皇太后と諡した。
- 石勒は平陽の宮室を焼き、裴憲・石会に永光陵・宣光陵の修復を命じ、劉粲以下百余人を収葬し、守兵を残して帰った。
年末 成漢の李鳳反乱
- 成漢の梁州刺史李鳳はたびたび功があったが、李雄の兄の子李稚が晋寿にあってこれを憎んでいた。
- 李鳳は巴西で叛き、李雄は自ら涪に赴き、太傅李驤に討たせて李鳳を斬らせた。
- 李寿を前将軍・督巴西軍事とした。